第10話 夏といったら海、海といったら夏

 低くも上げられたビーチボールは、手を伸ばせば届く範囲に落ちてくる。右手で掬うように赤、白、青の三色を彩るビーチボールを優しく弾き、彼女の取れないような位置、だけどぎりぎり届くような際どい位置へ飛ばす。


 「うわぁ、それは!ズルいよ!」


 浮き輪を両手で漕いで扱う。動くことに関しては、浮き輪がない方が早く動けるため、そこは唯一のメリットだ。追いかけて追いかけて、彼女も右手を伸ばして危なげなく返す。


 「ズルしてる人にズルだよって言われたくないけどな」


 「刺さるようなこと言わないでよ」


 「いいや言う。だから俺は、こっちにも飛ばす」


 今度は逆側。高く上げるのは必死な彼女が見たいから。ゆっくりでもせっせと浮き輪に力を伝えて前へ進もうとする姿は元気を貰える。大人用だから、力はその分多めに必要で、どうしても遅くなる。それを考慮して高く上げてる。なんてこともある。


 「いじわるされてる!私は易しいとこに返してるのに」


 「俺は常に浮いてるし、打つときにもっと体力使うから、これくらいをいじわるって言われても困る」


 「ハンデでしょ!承諾したんだから、こっち行けぇ!」


 後ろへ大きく飛ばされる。風がないから流れることはないが、1度しっかり入水し、クロールか平泳ぎという即座に出来る泳ぎ方で向かう必要があった。


 一瞬にして潜り、足を底に着ける。そしてサンダルに感触を覚えた瞬間、両足を曲げてその先へ勢い良く泳ぎ始める。飛ぶように、落ち着きのない魚のように。


 海面に顔を出すともう目下に迫ったビーチボールが。それを見て俺は手よりも頭だと、我ながらナイス判断力で首を柔軟に扱い、跳ね返す。


 なんの考えもなく、ただ返すことだけに重きを置いた単調な頭突きで返したため、それは俺の負けを意味しているのと同義だった。範囲も決めてない。ただ、返して相手から返ってこなければ相手が負けのこのゲーム。ズルいやつが勝つんだった。


 先に見えるは奥に返したビーチボールを触ろうとする彼女。両手は振られる気配はなく、ただ触れるだけ。そうしてやろうと不敵な笑みを浮かべている。


 「流石にちょんって……触るだけじゃないよな!?」


 足の着くここでは、トントンと飛びながらその海水から顔を逸して離す。もちろん沈むと話せないから区切られる。俺の発した注意の言葉は、きっと今の彼女にはもう1度、カリギュラ効果って知ってる?と言いわせるだけの促進剤だった。


 「あっ……手が……」


 「届いてるって!」


 浮き輪を使ってて、両手も全然届いているのに、彼女はビーチボールに指先を触れて、その海面に静かにポトッと落とした。


 「あーごめん。届かなくて」


 「……ルールをしっかり決めるんだった」


 「いやー、続けたかったけど夢灯くんが遠いから」


 「遠くに行かされて、近くに落とされて、不利は不利なりに負けたんだけど」


 「負けてくれるなんて優しいね。奢り、ありがと」


 「しっかり負けを味合わされるんだな」


 悔しさは全くない。だって遊びで、真剣にやったけどズルすることは少し頭の中にあって、想定外のことは何も起きなかったから。それで十分だ。彼女が笑って、楽しかったと思ってくれるなら、俺は今を負け続けても構わない。


 「私ばっかりいじめられるから、たまにはやり返し」


 「そんなにいじめてるか?」


 「んー、勘違いかも」


 「テヘ。じゃ済まされない話だけどな」


 胸の前にビーチボールを持って、顎を置き適当を言う。


 どうも彼女にはその姿に違和感はなくて、何をしても似合うその姿が、羨ましくも思えた。性別は違うけれど、もし彼女が男だったなら、俺は親友になれたのだろうか。


 そんなことが過る。絶対にないのに、可能性という神秘的で魅惑的な言葉に踊らされて、俺は理想郷に彼女を描いた。届きそうで届かない。いつかその世界線も見てみたいと、それを叶えることが今の夢だと錯覚するように親友という言葉に惹かれた。


 「どうしたの?何か考え事?」


 止まってずっと見られていたのを気にしたのか、恥じらいながらも彼女は俺の目を見て聞いてきた。


 「いいや。瑠璃さんに見惚れてただけ」


 「見惚れながらエッチなこととか考えてたんでしょ?」


 「さぁ。どうだろうな」


 「むっつりめ」


 「ははっ。何してもむっつりって言われそう」


 「多分ね」


 比較的おとなしいから、むっつりなんて陰で言われてそうだな。確定していたむっつり呼び。エッチなことは全く考えてなかったけど。


 「さっ、1回戻って休もうかな」


 「成長し過ぎて、泳ぐの楽しくなってたかと思ってたんだけど」


 「楽しいけど、水分補給はしないとね。夢灯くんと一緒だと笑いすぎて、いつの間にか水分も取られてる気がするから」


 「バケモノ呼びか。悪くないな、そのバケモノも」


 「肯定すると変人だよ?」


 「もう変人って言われてるようなもんだろ。別に、そんなことで瑠璃さんに嫌われるわけでもないんだから」


 「確かに」


 どう呼ばれたって好きにすればいい。彼女と俺だけの、特別があったっていい。それが嫌でも、彼女の記憶には強く残る。印象づけて、記憶にダメージを与えて、力づくで記憶を残させる。その手段だって可能性としてはあり得るのだから。


 記憶に関することは、何か強い思い入れのある刺激があれば、思い出すことも珍しくない。だから、俺はその道もあると思ってる。何が出来るか暗中模索するのも1つの手だ。


 「あっ、浮き輪に入ったままがいいから引っ張るか押してくれない?」


 「可愛いご要望だな。喜んで」


 「ありがと」


 背後に回らず、前から浮き輪を摘んで引っ張る。ゆっくりと、足が着くとこまで足をパタパタさせて。


 それから陸に着くまで、彼女は鼻歌を歌っていた。なんの歌か知らないけど、ポップな曲調から、人気の歌なのかと勝手に思う。彼女のイメージでは人気に流されそうなとこもあるから。


 「ふぅぅ、休んだらまだまだ泳ぐよ!疲れ果てるまで!」


 戻って早々言った彼女は、その後も言葉通りだった。ビーチボールを持っても、ビーチフラッグをしても、底に沈んだ泥を掴んで投げつけてきても、笑顔が一切消えなかった。


 俺は思う。記憶は消えるの怖いのだと。先が未知で溢れて、気づけば周りは全員知らない人になる。不安に駆られて自分を保てなくなるかもしれない。それほどに。


 だけどそんな気持ちを持ってないような彼女は、とても強く見えた。忘れてるわけでもなく、寝る前なんて毎日のように思い返すだろうに、今はその片鱗も見せない。だから間違いなく強いだろう。ならばと、俺はそんな強い彼女の隣に立つ男として、堂々と立てるように胸を張って強くなろうと思う。彼女がいつか吐露した時に、安心出来るような男に。




 ――「くぅぅ!疲れたけど楽しかったね」


 帰路につく俺たち。夕焼けがオレンジ色に俺たちを照らす。麦わら帽子とサングラスを掛け、水着姿とは違って露出の少ない洋服に身を包み、幸せだと言う。


 「楽しかったけど早かったな」


 実際はそう感じただけ。


 「そうだね。楽しいことしてると早く感じるって言うけど、私も思ってたから、お互い楽しかったってことかな?」


 「だな」


 「また来たいなー。夢灯くんと、今度は大学生になって」


 「そうか?嬉しいこと言ってくれるな」


 「楽しかったお礼だよ」


 サングラスの奥に輝く瞳が、心底嬉しそうに見えた。吸い込まれそうな魅力的で美しい、その可愛らしい双眸に、俺は儚く誓った。


 覚えていますように。


 待っていたバス停に、彼女の後ろ側からバスが来る。人の多かったこの海水浴場も、行き帰りでバスを使う人は俺たち以外に居ない。珍しくも、2人だけという嬉しさのこみ上げる単語に口角を上げた。


 専用のICカードをタッチして乗り込む。空いた座席が目立つバス内で、俺は奥へと進んだ。誰もいない奥の窓側の席。最奥ではなく、その1つ手前の席に座る。


 流れるように彼女もその横へ。窓側を譲り、仲の良いカップルに見えなくもない俺たちは、使った道具の量も相まって、バス内で唯一の狭い場所に座っていた。


 「どうだった?今日」


 具体的に、と聞かれているよう。


 「まず、誘ってくれたことに感謝だな。泳ぐなんて俺には久しぶりだったけど、それなりに結構楽しめたし、瑠璃さんのはしゃぐ姿も見れて感無量の喜びだ」


 「そっか。私も泳げるようになったのは大きな収穫だったかな。来年は友達と泳ぎに行けるだろうし、その時に脅かせるのが今から楽しみだし。夢灯くんの優しさにも触れられたから、今日は充実した1日で、思い出にしてはとても良かったよ。ありがとう」


 「素直に言われると、今まで散々巫山戯てたギャップで心に来るな」


 「これが私の武器かも。男子全員を好きにさせてやるって目標立てたら達成出来るかな?」


 「多分余裕」


 「はははっ。無理だよ。そうしたら夢灯くんから嫌われるでしょ?」


 「……そうかもな」


 「だから全員は無理」


 嫌うのか。俺は、彼女の好きなように生きた結果、それでも嫌うのだろうか。一瞬だけ過った、例え話での気になること。深く考えなくても答えは出ていた。けれど、それと真逆のことを俺は今言ったんだと思う。


 「私は夢灯くんに嫌われるのは嫌だからね。夢灯くんを知らない人として扱うのも嫌。忘れるのも嫌。だから、離れるようなことはしないよ」


 きっと疲れて不安になり始めたのだろう。自分の病気のことを思い出して、記憶を共有するような俺が遠くに行くことが、今の彼女には怖かった。


 「大丈夫。俺も瑠璃さんから離れないから。記憶が無くなっても、思い出させるほど話すから、俺を信じて気にするな。これからまだ思い出を作るんだろ?楽しむために、病気なんて忘れるほど構うから」


 「ホントに?言ったからね?私、夢灯くんに期待するよ?」


 「どんと期待してくれ」


 きっと、病気を治してみせるから。


 心で思うそれは、口に出せるほど軽くなかった。彼女の闘病の辛さは彼女にしか分からない。唯一彼女と共有出来ない記憶と思い。それが病気の辛さ。


 簡単じゃない。だから俺は心で思う。治せるためなら何でもすると。覚悟するように、言い聞かせるように、俺は誓う。


 窓から差し込む陽光は薄っすらと届いて、俺たちを照らした。眩しくて、でも彼女を見たくて見ていた。目を開け、起きている彼女の柔らかなショートカットが俺の首筋に触れて、サラッと靡けば擽ったい。


 疲れに疲れた彼女の今日の全力。それを、俺は右肩に一心に受け止めて、これまでで1番触れ合った時間を過ごした。

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