第8話 夏といったら海、海といったら夏

 自分にとって何か不得意なものが出来るようになる時、その時は誰であれしっかりと記憶に残るだろう。しかもそれが俺という珍しい人を連れてるのだから、濃く強く脳裏にこびりついて。


 そういう意味では、俺と一緒なのはメリットだ。普段と違った人という強い印象が、更に大切に残してくれるだろうから。


 「泳げるようにするっていっても、やり方も何も知らないから、多分9割は瑠璃さんの頑張り次第だな」


 「それ、今までと変わりないから泳げないやつじゃん」


 「そうなのか?なら俺も気合いで泳げるようにさせるわ」


 これは躍起になってもやり遂げたい。彼女の思い出に刻むために大切なことだから、今こうして動けるようになった体を寝かし続けるわけにもいかない。


 「私もその気合いに背中押されて、泳げるようになるかも」


 「その時はしっかり俺を視界に入れて喜んでくれよ?貢献したのを覚えてもらわないと、誰かに書き換えられて覚えられたくないからさ」


 「大丈夫。私は夢灯くんだけ記憶してるから。この時間は夢灯くんとだけの時間だからね。それ以外は覚えてないよ」


 「泳げたことは覚えとかないと。俺との時間だけ覚えててもつまらないぞ。彩りがない」


 「そう?夢灯くんとここに来れた。まずそれだけでも思い出に出来るよ」


 満開の桜が風に靡くように優しく、柔らかく、蕩けそうな瞳で、目を合わせて言われた。心の奥底。深い、誰も辿り着いたことのない、触れたことのないような未開の地に、俺だけが辿り着いたような優越感。


 本音で言われていると、勝手でも分かった不思議な気持ちも、今は彼女の瞳に奪われて都合のいいように解釈されているようだった。


 「……不意にそんなこと言われると……困る」


 「ふふっ。そう?でも伝えたかったんだから良いでしょ?」


 「君が良いなら……」


 名字を呼ぶことすら躊躇う。それほど彼女に惹き込まれた。もう少し見続ければ、仰向けでクラクラした自分を恥じながらも、初めての恋というものに足を踏み入れそうだった。


 危ない危ない。


 「さぁ、そんなに頬を赤く染めれるなら立てるでしょ?行こ!」


 脱力する俺の腕を優しく引っ張り起こす。伝わる柔らかな感触は、どうも慣れない。美少女という肩書きを持つからこそ今後もそれは変わらなさそう。


 「顔は見るなよ。恥ずかしい」


 「良いから!」


 引かれながらもサンダルを完璧に履き、彼女のペースに遅れを取らぬように付いていく。少し前を走るから、地を蹴る度に砂が後ろの俺へ飛んでくる。足が熱く、むず痒い。でも楽しい。


 海に近づく。青春の1ページを今刻むように、高校生活で初めての海に足を踏み入れた。


 「んんー!冷たぁ!」


 「うわっ!」


 必然的に先に入るから、彼女の足から今度は水飛沫が飛んでくる。一粒一粒が冷たく、口に入ればしょっぱい。久しぶりの海の味、雰囲気に、思わず笑みが溢れる。


 「あっはははは。冷てぇ」


 「でしょ?!ふぅー!」


 膝辺りまでの海水を、両手で掬って俺に投げる。慣れない水の温度に、上半身は冷たく感じて体を震わせる。


 彼女のテンションに付いていくのが大変でも、追いつけば同じ高さから楽しさを得られる。だから来て分かった。こんなにも楽しく明るい世界が見えてるなんて。


 紫外線とか、人の視線。そんなことはもうどうでも良かった。ただ、目の前の彼女と、ひたすらこうして笑っていたかった。誰が何と言おうと、それは今の俺から変わることはない。


 「ほれほれほれー!」


 止まらない。海水はかけられ続けて早くも10秒ほど。飽きない彼女の足元に目を向けると、そこには流れないように固定する浮き輪があった。


 しめしめと、それを見た瞬間に彼女へ近づき、浮き輪を掴んで勢い良く引いた。


 「うわぁっ!!」


 すると悲鳴ではない、驚きの声を上げて、足元をすくわれるように水面へ叩きつけられる体。バシャンと音を立てて上半身も海の中へ沈んだ。細い体だ。膝上ほどの海水だと体全部が埋まる。


 「ぷはぁ!やられた!」


 「自業自得だ。これが因果応報ってやつだぞ。仕返しはやられることを考えとかないとな」


 「くっそー!浮き輪め!」


 「ははっ!そっちかよ」


 泳げないことが遠回しに仇になるとは、彼女も思ってなかっただろう。いや、彼女なら出来ないことを悪いと微塵も思わないから、多分仇になるとも思ってない。


 泳げないことに対して負い目というか、落ち込むような雰囲気は全くなくて、逆にそれを乗り越えてやるという気持ちが強い。そんな彼女だからこそ、闘病中の今も、こうして天真爛漫で居られるのかもしれない。


 やっぱり彼女は尊敬する。そういうとこがカッコいいんだ。


 「ん!」


 「何?」


 右手だけを伸ばす。それがどういう意味か分からなかった。


 「起こして。倒したなら起こすのが当たり前でしょ?優男さん」


 「そういうことか。仕方ないな」


 全身がほぼ海水に浸かった彼女の体から、細く伸びた腕を掴む。


 「隙あり!」


 「あっ!」


 気づいた時には俺の顔面は水面に叩きつけられ、そのまま沈んでいた。そういえばこういうことする人だったと、予測出来そうなことを予測出来なかったことを悔やむ。


 「マジか……」


 「因果応報だよ」


 「俺のモノマネか?全然似てない」


 「悔しそうだね。その顔見れて私もスッキリ」


 ピースを俺の顔のすぐ前に見せる。悔しさなんて無い。あるのは、やっと彼女と心の底から笑い合えたことの喜びだ。


 「そうか。なら、どんどん奥に行くぞ」


 「え?ちょっと、早くない?私溺れるよ?」


 未だに体を起き上がらせず、浮き輪に掴まっている彼女を浮き輪ごと引っ張る。


 「大丈夫。浮き輪もあるし俺も居るから」


 「その拗ねた感じで言われると信用ならないんだけど!」


 「胸元くらいで止まるから大丈夫。足つくとこだと溺れないだろ?」


 「あー、てっきり足のつかないとこまで行くのかと。良かった」


 「そんな鬼でも子供でもない。拗ねるのは拗ねるけど」


 もちろん冗談で、だ。彼女の慌てるところが見たかったから、どうしてもいじわるをしたくなった。好きな子をいじめたくなる小学生ではないが、似たような気持ちは確かに持ってる。


 「やめてよ?途中で離れるとか」


 「意外と怖がりだな。信頼ないのは悲しいけど、その様子見れるならいいや」


 「1人だけ得してる」


 「泳げるようになれば、2人得するぞ」


 「大変だよ」


 「離れないから、まず全身脱力して海面に浮いてくれ」


 「うぅー……こわっ」


 嫌そうに、でもやりたいのだと深呼吸をする。克服したい意思が強いのも、きっと彼女の闘病中だという思いが関係している。出来ない事を出来るようになれば、少しでも未来が見えるから。


 「流されないように居るから、右手を掴んで好きなタイミングで離してチャレンジしてみたら?」


 「おっけー……よし……」


 そっと海面下で俺の右腕を掴む。力なんて感じないほど小さく非力。でも肌の温もりは感じる。


 「行くよ。せーの」


 泳ぐにはまず浮くとこから。足がつくという安心感を持ちながらでも、優先するのは浮く感覚を掴むのと恐怖を消すこと。それに重点を置いて、クリアすれば彼女ならトントン拍子で行くはず。


 静かに沈んだ彼女は、俺の右腕を掴んだ時よりも優しく、ゆっくり離した。遠くから聞こえる子どもたちの声、波の音。それ以外は聞こえない。彼女がふわっと無音で海面に浮かび上がると、俺は成功したと思った。


 それから5秒後、プハッと体を起こして彼女は笑った。


 「出来た?!」


 勢いも強かった。


 「ホントに泳げないのか疑うほどには完璧だった。これで出来るなら去年とかでも出来ただろ」


 「いやいや、安心感が違ったね。夢灯くんの腕掴んでるとなんか安心しちゃってさ、出来る!って思ったら怖くなくなって浮けたの」


 「怪しい」


 「ホントだって!私にしか分からないだろうけど」


 「ははっ。嘘嘘。信じてる。俺に何の力があったかは知らないけど、瑠璃さんが1段階進んだのは嬉しいことだから受け取っとく」


 「キター、不意にキリッて見せる笑顔。狙ってるでしょ?」


 「狙ってないよ。キリッとも見せてないし、普通に笑っただけ。俺って笑ったら毎回言われたりする?」


 「怪しいから言われるかもね」


 確かに俺はそんなに声を出して笑うことはないと自負してる。けれど最近は彼女の前ではたくさん笑っているつもりだ。それでもキリッと狙ってると言われるなら、多分一生言われる。


 まぁ、それが彼女にいい印象として受け取ってもらえるなら構わない。いつか慣れて、俺の笑顔を当たり前に思えるほどになってくれたら、それでそれまでの疑いは帳消しだ。


 「もっと奥行くぞ」


 「ごめん。怪しまないから少しここで慣れさせてほしい」


 「はいはい。好きなだけどうぞ」


 「腕は?」


 「必要じゃないだろ?」


 「もう1回だけ……」


 両手を合わせてスリスリと懇願する。こうしてお願いされては、断りきれない。


 「了解。1回出来たからって調子に乗ったら危ないからな?気をつけて」


 「うん。ありがとう」


 そう言ってすぐに潜った。伸ばす右手に両手で掴まり、目を閉じる姿は、透き通る海の中ではよく見える。海水と似た瑠璃色の水着。そこから露出する四肢の乳白色は、触れたいと欲を掻き立てるほど綺麗。


 彼女に見惚れるのは初めての体験ではないが、動悸は過去1番速かったかもしれない。


 「はぁ!出来た!」


 「おかえり。問題ないな」


 「うん。ってか居るんだね。ホントは目を閉じた時、夢灯くん離れてると思ってたのに」


 「瑠璃さんが泳げるなら離れてたな。いや、潜ってるの可愛かったから、それを見るために離れないかもしれない」


 「言うねー。嬉しくて抱きついちゃうぞ」


 「俺が溺れる」


 動揺で多分そのまま砂と一体化する。恥ずかしさもあるし、照れてどうしようかってもなる。嬉しいことだが、どうしてもそれは対応が難しい。美少女で天真爛漫は危ない組み合わせだ。


 「これで次は足のつかないとこ?」


 「瑠璃さんが行きたいなら。強制はしないぞ」


 「なら行くよ。せっかく成長してるんだから、この流れで泳げるようになってやる!」


 「空回りだけはしないようにな?一応俺も浮き輪もあるから、好きなように使ってくれて構わないから」


 「うん!私にはどっちも大切だからね!」


 「どっちか聞かれたら?」


 「迷いなく夢灯くんかな」


 「聞いといてなんだが、恥ずかしいな」


 即答とは思わず、流石に頬を赤く染めてしまう。

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