∞5∞
少女は歩いていた。
いや、もう少女という年齢でもあるまい。この村では結婚できる歳だし、体つきも女性らしくなった。自分もいつか誰かに嫁ぐのだろうか、とぼんやり考えながら、バケットの中にある食べ物を見て、その少なさに嘆息する少女。
「もう、どこも余裕がないんだな」
食糧不足が激しい少女の家は時々こうして他の村の住人から食料を分けてもらっていたのだが、それも限界がある。彼らにも彼らの生活があるし、縋ってばかりではいられまい。防寒具、といっても只の薄い布で体を何とか覆いながら、吹雪の中を歩いていく少女。
そしてようやく家に辿り着き、雪を払って中に入る。ちなみに村の家は木と鞣した動物の皮をつなぎ合わせた布で出来ていて、少女の家も例外ではない。
「ただいまー……ってあれ? いいにおいがする」
中をのぞくと、いつも寝転がって酒ばかり飲んでいる父親が珍しく料理を作っていた。芳しい香りが鼻を突き、お腹が減っていた少女は思わず唾液を呑み込む。
「お父さん……? なにしてるの?」
「あぁ、帰ったのか。ほら、やるよ」
「えっ?」
差し出された木製のお椀に注がれた赤いスープを見て、目を白黒させる少女。
食事を作ることも滅多になかった父親が、少女に料理を進んで振舞ってくれた。
その事実に仰天するばかりで現実が呑み込めない少女に、父親は不機嫌そうな顔になる。
「なんだ、いらねぇのか」
「いやっ、い、いります!」
お椀を持って床に座り、スープに口をつけた少女。素朴な味だが、それでも空きっ腹には沁みるものだ。スープをかき混ぜると、どうやら肉も入っているらしかった。
「えぇ?! お肉なんて、どこで手に入れたの?!」
「ちょっとな。美味いか?」
「うん、凄くおいしい! ありがとう、お父さん!」
久しぶりの父の愛だった。
いつも暴力を振るってばかりの父が、笑いながら少女を見ている。
父から自分はまだ愛されていたのだ、と嬉しくなった。
父の愛を少しでも沢山感じようと、少女はスープをとことん味わう。
スープをすすり、肉をよく咀嚼し、呑み込む。
その美味に脳髄が溶かされるような錯覚を覚えながら、少女は恍惚とした笑みを浮かべた。
いつの間にか元の半分の量になっていたスープを見て少女があからさまに気落ちすると、父親がすかさずスープのお代わりを入れる。ぱっと少女は顔を明るくし、再びスープへとがっついた。
「? お父さん、この丸いのなに?」
数杯目のスープの中、スプーンに掬い上げられた球状の食材を見て、首を傾げた少女。
それに目も向けず、父親は答えた。
「大当たりだな。目玉だよ。うめぇぞ」
目玉、と言ったか。
確かに料理に目玉を入れることはあるが、動物の目玉にしては随分と大きい気がする。
くる、と目玉の向きを変えた少女は、その目玉の瞳孔を観察した。
「あれ? これ、どっかで見たよう」
ゴトン、とスープの入ったお椀を床に落とし、少女は後ずさった。赤いスープが絨毯に散らばり、深紅の染みを作る。けれど、少女にはそんなことより重要なことがあった。
唇が震える。声が戦慄く。
それが何の目玉なのか、悟ってしまったから。
「うそ」
ハッとして立ち上がり、かかっていた布を掻き分けて奥の部屋へ走った少女。
どうして気づかなかったのか。
そういえば、いつも火の近くいたはずのあの子がいなかった。
布を一枚、また一枚とかき分ける。段々と鼻腔を突く悪臭が強くなっていき、少女は臭いを嗅ぐたびに冷や汗が溢れてくるのを感じた。
一番最後の布に手をかけた時、自分のしてしまったことに気付きたくなくて、でも彼女の状態が心配で、その考えの堂々巡りで歩みが止まってしまう。
そんな少女に、奥の部屋から声がかかった。
「おかえりです」
「……!」
良かった。いつもの彼女の声だ。
と、最後の布を掻き分けて、掻き分けたことをすぐに後悔する。
血だらけだった。
部屋中が血にまみれていた。
咽びかえるような強烈な血の匂い。
天井から大量にぶら下げられた白い手や足。
テーブルの上に置かれた眼球や舌や耳。
取り外された彼女の体がそこらじゅうに散らばっていて、あまりのグロテスクさに少女は言葉を失う。
何より、当の本人は壁に釘で打ち付けられ、逃げられないように体を縄で縛られていた。あんなに綺麗だった滑らかな肌は、いまや血で汚れている。それでも平然としている彼女を見て、少女は口を抑えた。
「なに、これ」
こんな惨いことを誰がやったのか。そんなの、一人しか思い当たらない。
少女が真意を問うために居間に戻ろうとすると、少女に大きな体が後ろからぶつかった。
「美味かったろ。コイツの肉」
「…………なん、で。お父さん」
「勘違いすんなよ。俺ぁコイツに頼まれたからやったんだ」
男は少女の耳元に口を近づけ、顔を醜悪に歪めながら囁く。
「喰ったお前も同罪だからな?」
「───ぁ」
食べた。肉を食べた。獣のように、彼女の肉を貪って、おいしいと言った。いや、でも、意図的に食べたわけではない。吐き出さなければ、でももったいない。おいしかった。吐き出せ、おいしかった、だって、でも吐き、おいしくて、やめられなくて、でもおいしくて、たべて、てべて、はいて、でも、お腹が、だも、いた、あば、おあ。
「ぁは」
ぴしり、と少女の中で何かが壊れる音がした。
∞∞∞∞∞
怪物は、少女が苦しむ姿を見るのがイヤでした。だから、酒を飲んでばかりの父親にお願いしました。
自分の体を〇べてくれ。あの少女を自分の肉で満腹にさせてくれ。
父親は喜んで怪物を〇べました。
その肉を切り刻んで、抉って、千切って。怪物の隅々まで使いました。
怪物はとっても痛かったのですが、少女の為を思って我慢したのです。そして、父親は帰ってきた少女に怪物を〇べさせました。
これで少女は元気になる、と安心する怪物。
けれど、結果は散々でした。
少女は怪物を○べてしまったことへの罪悪感で心が壊れてしまい、一方で父親は怪物の肉を村人たちに振舞い始めました。
足りなくなった分は怪物を切り刻んで補充します。怪物が泣き叫んでもお構いなしです。
飢えていた村人たちも喜んで怪物の肉を〇べたので、怪物は更に切られました。
やがて、春が来ました。
怪物が涙も枯らしてしまった頃、村人に変化が起きました。あちこちで体中から血が出る病を訴える人間が現れたのです。
村人は、怪物の祟りだと恐れました。実のところ、それは肉ばかりを〇べて野菜をとらなくなったことによる病だったのですが、そんなことは村人たちは知る由もありません。
怪物が自分達を追ってこれぬように家に縛り付けたまま、村人たちは村を出ていきました。
こうして、欲望のままに怪物を喰らった人間の罪深き血統が、世界中に広まっていくことになったのです。
∞∞∞∞∞
部屋は暗かった。
火がないし、外から光が入ってくる場所もない。だから私は、眠ることしかすることがなかった。おなかは減ったけど、死ぬわけじゃない。
それにもう、疲れてしまった。痛いのにも疲れたし、泣くのにも疲れたし、叫ぶのにも疲れた。何もかも、どうでもよくなった。
そうして再び眠ろうとした私の下に、誰かがやってきた。
おかしい。
村の人は全員出ていったのに、どうしてこの人はまだ村に残っているのだろう。と、その手に握られていた刃物を見て、私は思った。
あぁ、また食べに来たのか。
もういい。好きにすればいい。食べたければ食べればいい。
けれど、その人は私を切らなかった。斬ったのは、縄だった。
「……え」
自由になった手足を見て、次に人物の顔を見て、私は理解した。
あの少女だ。痩せこけて別人のような顔だし、体も骨と皮だけになってしまっているので、全く気付けなかった。
「どうして、残っているんですか。逃げたんじゃ」
そう疑問を呈する私に、少女は微笑む。
「友達を置いて逃げるわけないじゃない。……まぁ、肉は食べちゃったけど」
自虐的な態度を見せる少女には、あの頃の天真爛漫な面影は全くなかった。戸惑う私に、少女は倒れ掛かってくる。
「ごめん……もう限界。私、ここで死んじゃうな」
「えっ……ど、どうして」
「あはは。あのね、ヒトはご飯食べないと死ぬんだよ?」
「っ、だ、だったら。私の肉を」
「いやだよ。もう、友達を食べたくない」
父親に捨てていかれて、餓死する寸前で心を取り戻した少女。死ぬ前に私を助けに来てくれた友達を、私は抱きしめた。
「ま、待って。そんな、だめです。死んじゃいます」
「そうだね。でも、それでいい。私みたいな悪人はここで死ぬのがお似合いだよ」
息が浅くなり、鼓動がどんどん弱まっていく少女の体を、私は更に抱き寄せる。あんなに温かった体が、今は私よりも冷たい。
「ねぇ、お願いがあるの」
「私、夢があったんだ。ほんと、くだらない夢」
「私ね、お嫁さんになりたかったの。誰かと結婚して、子供を産んで、生まれてきた孫を見て、家族に囲まれて死ぬの」
「でも、叶わなかった。叶えられなかった。だから、お願い」
「どうか、私の夢を持って行って。どこまででも行けて、いつまででも生きられる貴女が、私の夢を代わりに叶えて」
「きっと、貴女に酷いことをする人はたくさんいる。けど、優しくしてくれる人も必ずいる。どんなことを代償にしてでも貴女を守ってくれる人が、必ずいるから」
「だから、お願い………」
「生きて。幸せになって」
それが少女の最期の言葉で、私を呪い続けることになる言葉だった。
少女の骸を置いて、私は吹雪の中を走った。
もう二度とあんなひどい人達に出会わないように。
私を大切にしてくれる誰かに出会えるように。
「ぅあっ……ああ……」
枯れてしまったと思っていた。とっくのとうに出なくなっていたと。
けれどどうやら、私はまだ泣けたらしかった。
「あああああああああああああああああああああああああああッッッ!!!!」
走った。
走り続けた。
足が取れてしまっても、腕がもぎれてしまっても、眼球が凍ってしまっても。
走り続けた。
吹きすさぶ雪の中、私は涙が本当に枯れてしまうまで走り続けたのだった。
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