Ep.21 静謐と宵闇


 その日の夜。古びたアパートの2階の奥で海風は、鍵を握り締めながら経年劣化で黄ばんだドアの前に立ち尽くしていた。グノーシから聞かされた衝撃の事実を、まだ受け入れられていなかったのだ。あんな話を聞かされて後でムクロとどう話せばいいのか、海風には皆目見当もつかなかった。


「……っ」


 今日でムクロとのシェアハウスも終わりを迎える。このまま彼女のバックボーンを全く知らないまま、この奇妙な共同生活を終えていいのだろうか。何も聞き出さないまま。


「……いや。それでも」


 無理に掘り下げないと決めた。彼女のペースに合わせると決めたのだ。であれば、二言はない。彼女が話したがらないのなら、このまま何事もなかったかのように終えるのが一番ではないか。


「ただいまー」


 いつも通りに明るい声を出して、平然を装って帰宅する海風。笑顔もいつも通りに、振舞いだって何の違和感もなく───



「おかえり、だーりん」



 今日一の違和感がそこにあった。

 裸にエプロンだけを付けた放送規制にぎりぎり引っ掛かりそうな服装で、ムクロが玄関に立っていた。


「ご飯にする? お風呂にする? それとも───ム・ク・ロ?」


 ふむ。

 待ってほしい、まず説明させてほしい。110番通報をする前にどうか話を聞いていただきたい。まず誤解を解かねばならないのは、別にムクロと海風はそういった関係性ではないということ。彼女とは身近ではあるが、そういった関係にもつれ込んだことは一度もない。そしてムクロとは結婚していないし、ムクロにはお風呂はまだしもご飯は絶対用意できないし、そしておそらくムクロ自身も発言の意味を理解していない。つまり海風がここで言いたいことは一つ。


「……誰から教えてもらったの? それ」

「麗奈様からです。男はこれでイチコロ、と」

「どうりで情報が古いッッッ!」


 何年前のラブコメだ、と2050年を生きる海風はツッコミしたいのだが、やはり男の本性というのはどれだけ経っても変わらないらしい。ムクロの身につけたフリフリのレースが本人の動作に合わせて揺れる度、海風のムスコがウォーミングアップを開始するのを実感していた。『最後1日ぐらいは監視つけないであげるヨ』とグノーシが遠慮していなければ、彼女に通報されてジ・エンドだったに違いない。


「……あの、うん。嬉しいんだけど。とりあえず、服着ようか」


 若干前屈みになりながら、海風は冷や汗タラタラでそうお願いする。そうですか、とシュンとしたムクロに少し罪悪感を感じながら、海風は難所を切り抜けたと胸を撫で下ろした。


「ではお風呂に入りましょう。お湯は張ってあるので、今すぐ入れますよ」


 どうやら難所は切り抜けられていなかったようだ。


「……………今日も、なのかな?」

「……? 最終日ぐらいはまた入ってあげると約束してくれましたよね」

「いやー……言うても一週間に二回ぐらいは一緒に入ってあげてたじゃん? 今日はグノっていう抑止力が無いから、ちょっと理性が危ういかもな───って話聞いてる?!」


 いそいそとエプロンを脱いで裸になったムクロから一瞬で目を逸らし、海風はぎこちなく靴を脱いで部屋に上がった。しかし何やかんや言って、ムクロは割と頑固なところがある。こういったことに関して本人は譲りたがらないし、断るととても悲しそうな顔をするので断りづらい。


「んで、結局なし崩し的に入っちゃうんだよなぁ……俺のバカぁ……」


 湯船にちゃっかり浸かってしまっている自分の浅ましさに自己嫌悪を抱きながら、海風は一緒に湯船に浮かぶ女の子を垣間見る。いつ見ても飽きない美しさを誇るムクロは、海風と一緒に風呂に入れて嬉しそうにしていた。彼女を知らない人間から見れば相変わらずの無表情に見えるのかもしれないが、一ヶ月も共同生活をした海風には彼女の感情変化が手に取るようにわかるのだ。


「気持ちいいですか、ミカゼ」

「んー、気持ちいいよー」

「そうですか」


 そう言って少し体を少し揺らすのは、彼女が嬉しい時の癖だ。揺れと同時にゆさゆさと動く長髪と胸に視線を吸われ、ムッツリスケベである海風はチラチラと覗いてしまう。どれだけ一緒に風呂に入ろうと、女子の裸には全く慣れなかったのだった。




 ムクロの長髪をドライヤーで乾かした後、買ってきた惣菜と残り物のご飯で夕食を済ませ、すぐに就寝の時間となった。ロングスリーパーのムクロは眠くなる時間が早いので、自然と海風の就寝時間も早くなるのである。


「ミカゼ」「ん?」


 電気を消し、布団を被ろうとした海風にベッドの上からムクロが声をかけた。


「……今日で最後、なんですよね」

「……そうだね。でも暮らしが別になるだけで、離れ離れになるわけじゃ──」


 そう言いかけてムクロの方を向いた海風は、ムクロがベッドの掛け布団を一人分開けるようにして手で持ち上げているのを見てしまう。


「……!」「……駄目、ですか?」


 あぁ、まただ。遠慮がちに訊ねるこのか細い声に、海風は逆らえない。今まで一緒に寝たことなんて無かったが、今日は最後の日だ。少しぐらいはグノーシも怒るまい。


「……そ、それじゃ。失礼します」


 ムクロの隣に寝転んだ海風は、夏用の薄い掛け布団を体の上に乗せながら、寝床の上のムクロと顔を合わせる。薄暗い部屋の中、古ぼけた黄ばんだ一室。シャンプーの香りが鼻を刺激する。どうして同じものを使っているのに、こうも心地のよい香りになってしまうのだろう。そう考える間にも、海風を見つめるムクロからの上目遣いの視線と、ムクロを見つめる海風の視線が絡み合い、いじらしく交錯していた。少しの沈黙が流れ、静寂の帷が降りる。カーテンの間から差し込む月明かりが二人の横顔を照らし、互いの息遣いだけが聞こえてくる中、その安寧の静謐にムクロの声が響いた。


「ミカゼ」「なに?」


「本当に、終わりなんですね」「……うん」


「ミカゼ」「なに?」


「明日は、私はどこに泊まるんでしょう」「分からない。親父はいつもいきなりだし。でも、多分ちゃんとしたところを用意してくれてるよ」


「ミカゼ」「なに?」


「…………寒いです」「──」


「ずっと、寒くてたまらないです。今日で終わりなんだって、この温かい毎日が終わるんだって……そう考えるだけで、寒くて凍えそうなんです」「ムクロ……」


「本当に温かい日々でした。任務を終えて、家に戻ってきて、一緒にご飯を食べて、一緒に寝る。私と、グノ様と、ミカゼ。いつも、一緒でした」「……大袈裟だなぁ。明日からも任務は一緒だって」


「分かってます。でも……寒いです」「……」


「ミカゼ」「……なに?」


「あの日もそうだったんです。私に初めての温もりを与えてくれた日々。それが終わってしまった、あの日も」「それ、は」





「私はあの日。決して赦されない罪を犯しました」

「────」





「その罪のせいで、色々な人が苦しみました」「ムクロ」


「罪の無い人たちが、何も悪くないのに、苦しんでいきました。私のせいで」「ムクロ」


「私が犯してしまった罪のせいで。私のせいで。私が、全ての、罪を」

「ムクロ!」


「……ごめんなさい。取り乱しました」


「いや……もう寝よう。明日は早いから」


「……はい」


「…………………たとえ」


「……?」


「たとえ、君が全ての人から恨まれるような悪人だったとしても。俺は、絶対に君を見捨てないから」


「───」


「君が寒くて凍えそうになったら、その手を握るよ」


「…………はい」


「おやすみ」「……………おやすみなさい」





 こうして、一か月に及んだ二人の共同生活は静かに幕を閉じたのだった。



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