Ep.18 蠢く澱とペトリコール


「つっっっかれたぁ〜〜〜〜〜……」


 家に帰った瞬間にスーツ姿のままバタリと倒れ込んだ海風は、仰向けのまま今日の一連の出来事を振り返った。

 警視庁での騒動、容疑者四人の聞き取り調査、真相究明の後の『食人の仇人』との戦闘。特に『食人の仇人』もとい黒狼との戦闘はかなり濃密なものだった。仇人化した動物とムクロの異能の凄さを眼前で見せつけられ、海風は既に食傷気味だ。黒狼との戦いが終わった後、傷心状態だった綾香は死亡者を二人も出した事件の真犯人として連行されて行った。その時ちょっとしたドラマがあったのだが、それは蛇足というものだ。今から説明する必要はあるまい。それよりも重視すべきことがある。


「犬の『仇人』……か」

『……深刻な問題だネ。今後もああいうケースが出てくるなら、現公安特務課の抜本改革が必要になってくるレベルだヨ。対応したのがムクロちゃんだったから良かったけど、それ以外なら……』

「特務課にはバチバチの戦闘には向かない異能持ちの『咎人』もいるからなぁ……対応するバディによっては、最悪の場合も考えられた」


 今回の件はムクロの異能頼りだった部分が多い。攻守を完璧に兼ねる彼女の異能は特務課から見てもやはり強力で、あのレベルの異能はそうそう居ないのだ。肉弾戦闘が得意な部類でなければ、黒狼との戦闘は苦戦するか、そもそも勝負にすらならなかった可能性がある。

 それに、と海風は懸念材料について補足を加えた。


「あの事件は、確実に黒幕がいる」


 その海風の見解にグノーシも大きく頷いた。


『そうだネ。海風の推理は大筋合ってると思うけど……一人目の被害者、戸島吾郎が河原で見つかった理由がわからない。部屋で殺してから河原に移動させるのは流石に無理があるし……どう考えても河原で喰い殺されたのが真相だと思うけど』

「それだと、戸島吾郎を河原まで誘き寄せる必要がある。けど綾香さんは『仇人』になった犬をその場に待機させるので精一杯だったはずだ。あの巨大な犬の目撃証言がなかったことからも、河原の陰でずっと隠れてたと考えていいはず」


 吾郎の体を細身の綾香が運べるはずがない。黒狼を使って運べば近所の人間に見つかるに決まっている。であれば河原で吾郎は殺されたと考えるのが妥当だ。しかし、それでは問題が生じる。


「一体誰が戸島吾郎を河原まで誘導したんだ……?」


 携帯の着信履歴には綾香の名前はなかったし、そもそも誰からの着信もなかった。だとしたら、彼の顔見知りの人物が吾郎を河原まで誘導し、そのまま綾香に喰わせたのだと考えられる。


『共犯がいる。いや……犬が不自然に『仇人』になった現象を引き起こしたのもソイツかもしれない』

「綾香さんは操られただけ……裏で糸を引く真犯人がいたはずだ」


 グノーシと海風は同じ結論に至っていた。だが、それ以上の推理をする思考力は海風には残っていない。そもそも材料が少なすぎて不可能だ。


「だーめだー……真犯人の特定、頼める?」

『んー、時間かかるヨ。なんせ情報が少な過ぎるからネ。この黒幕、相当慎重だ。自分の足跡を何も残してない』

「無理そう?」

『誰に言ってんの? 一ヶ月で絶対に見つけ出して見せるヨ』


 自信満々に言ってのけたグノーシ。グノーシは解析部のエースなので、彼女の業務は多忙を極めている。そんな中でたったの1か月で真犯人を特定してくれるのなら、なんとも頼もしい。その信頼感たるや、海風は涙が出るほどだ。いつもこのぐらい真面目なら文句はないのだが。


「にしても疲れたなー……ムクロもお疲れ」


 壁際で体育座りをしているムクロに拳を突き出し、海風は返しを求める。不思議そうな顔をしたムクロは、海風の拳を見て、次に自身の手に視線を打つし、ゆっくりと拳を握った。


「いえい」


 トン、とその小さな拳に自分の拳を軽く突き当てた海風。ムクロはビクッと体を少し跳ねさせ、自分で握った拳をじーっと見ていた。


「さ、疲れて眠いと思うけど、風呂に入ろう。土で汚れただろうし」


 思えば暗渠の中や更地の上など、汚れそうな場所で戦ってきたのだ。汗もかいたし、自分で気づかないだけでかなり匂うはず。レディーファーストの精神でムクロに一番風呂を譲り、彼女に一通りのシャワーの使い方を教えてから、海風は畳の上に寝っ転がって照明に手を翳した。手の落とす陰のせいか、疲れた体に猛烈な眠気が襲ってくる。

 想像よりも疲れていたな、とムクロがシャワーを終えるまでの時間で仮眠を取ることにした海風は両面を瞑り───


「ミカゼ、ミカゼ」

「んー……どしたー? シャワーの使い方分かんなかった?」

「凄いです。温かい水がたくさん出てきます。温かいがいっぱいです」

「そっかー……温かいかー……良かったねー……」

「はい。一緒に入りましょう」

「んー、そだねー……一緒に入」


 眠気で思考停止していた頭がそのフレーズで一気に活性化するのを海風は自覚した。一緒に入るということに興奮したとかそういうやらしい思いからではなく。いや、それもあるのだが、それ以上に会話に違和感を覚えたからだ。

 まず、シャワーから上がるのがあまりにも早い。これが一点。

 そしてなんだか温かい水が服の上に滴っているのを感じる。これがもう一点。

 そしてそして、柔らかい存在が体にくっついている。これが最後の一点。


「えっ今これどうなって」


 バッと手を退かして視線を下にずらすと、そこには頬を仄かに赤く染めたムクロの姿があった。

 お湯で上気した桃色の裸には艶やかな光沢が宿り、ただでさえ美術品のような滑らかさを誇る雪肌は、今や芸術的というより蠱惑的と呼ぶべき領域に入っている。そして海風が視界に捉えたのは更にその奥、重力に従って下に向かう何とも魅力的な双丘、その先端に位置したピンク色の小さな果実───


「見てませぇんッッッ! 見てませんからぁッッッ!」

『そうですか。有罪ギルティ―です』

「んな殺生なッ!?」


 咄嗟に視界を手で覆った海風の努力も虚しく、裁判長グノーシから無慈悲な法の鉄槌が下る。だって考えてみてほしい。自分の上に湯に濡れた絶世の美少女が覆いかぶさっているという状況を、一体誰が想像するだろう。


「これは状況確認であって卑猥な意図を持った覗きではありません裁判長ッ! どうかお慈悲を!」

『どう見ても確信犯だったので判決は覆しません。極刑です』

「罪が重ぉい!? お先真っ暗、救命優先度は真っ黒ってか! やかましいわ!」

『なに一人でノリツッコミしてんの? キッショ』

「ミカゼ。一緒に入りましょう」

「話聞いてたかなムクロさんッ?!」


 状況は混沌カオスだった。シャワーに興奮して入浴を迫る全裸美少女、その美少女に覆いかぶさられながら両目を隠して無罪を主張する一般少年ムッツリスケベ、ここぞとばかりに少年の精神へ絨毯爆撃を仕掛けるドS女。これがカオスでなくてなんだ。カオスでないなら地獄である。


「……やっぱり、迷惑でしたか?」

「えっ?」


 絶叫していた海風に遠慮したように、おずおずとムクロが呟く。その様子を見て、海風は遅れながら彼女の意図を理解した。

 これはあれだ。小さい子供が自分にとって楽しいことや嬉しいことを親と共有しようとするアレなのだ。ムクロは自分にとって喜ばしかったことを海風と共有しようとしている。これは彼女なりのコミュニケーションであり、海風と仲良くしたいという意志の現れだったのである。


「ッ、スー……」


 その健気さにクリティカルをもらった海風のメンタルは、彼女の必死のお誘いを断れるほどHPが残っていない。そんなことをしようものなら海風の良心は爆発四散するだろう。


「……グノーシ様」

『なに? 犯罪者予備軍君』

「この流れ前も見たんだけど……っじゃなくて! ムクロの体は見ないようにする。だから、どうかお願いします」


 真摯に頼み込んだ海風の言葉の誠実さを吟味するグノーシ。報告書を書くのが彼女である以上、全てはグノーシの掌の上だ。ごくり、と生唾を飲んだ海風に、グノーシは大きく溜息をついた。


『……本人がそうしたいなら止める義理はないネ。いいヨ、見逃してあげる。だけど、手を出したら分かってるネ?』

「承知の上でございます」『よろしい』


 斯くしてグノーシの許可を得ることに奇跡的に成功した海風は、ムクロの体をできるだけ見ないようにしながら浴室へ向かうのだった。


 *****


「……今宵は満月か。いい月だ」


 真神は右手にコーヒーのマグカップを持ち、執務室の窓から夜空を眺めていた。自身のマホガニー製の机についた左手の近くには、先ほど起きた事件に関する概要が報告されたファイルが表示されているタブレットがある。閲覧済みのコードが刻まれていることから、真神がそれを読み終えたことが分かった。


「『食人の仇人』……人間以外が『仇人』となった初めてのケース」


 その報告書の内容を脳内でリフレインさせながら、仕事人間である真神はほくそ笑む。


「やはり俺の人選は正解だったな。流石は『電脳の咎人』、仕事が早い上に戦況の報告まで完璧だ。ここまで精巧なものを作れる人材は他にいねぇ」


 仕事ができる人間にとって、同じく仕事ができる人間は何よりも好感を持てる人物だ。命令通りに動かない海風(アホ)や、いちいち反応が遅い鈍間(ムクロ)などと比べれば、評価は天地の差である。


「さて、どうなるか……」


 今までの常識を覆す存在の出現に真神は目を眇め、ふと思い出したように首元に手を入れた。


「……そろそろ、お前の命日だな」


 そう呟いて真神が取り出したのはネックレスで、その先にはダイヤのついた指輪が引っ掛けられている。指輪に何の意味が込められているのか、それを知るのは真神本人しかいないのだった。


 *****


「ふー……」


 お湯を張った湯舟に体を沈めながら、海風は天を仰いで息をついた。外気温は7月らしく真夏のそれなのだが、ムクロの為にお湯を張った次第である。暑いには暑いが、確かに気持ちよくはあった。


「どうですか?」

「んー……気持ちいいよー……」


 うん、気持ちいい。気持ちいいのだ。そこに嘘はない。しかし本当のことを言うのであれば、海風はそれどころではないのである。


(当たってる当たってる当たってる当たってる当たってる当たってる当たってる当たってる当たってる当たってる当たってる当たってる当たってる当たってる当たってるッ………!!!!)


 当たっている。ムクロの柔らかい肉体が当たっているのだ。

 バスタブが狭いせいで海風の開いた両足の間にムクロが座っているのだが、彼女の玉のような美肌が足に触れ、腹に触れ、胸に触れるのだ。しかもシャンプーのいい香りが鼻孔を刺激してくる上に、絹糸のような白い頭髪が水気を帯びて煌いていて、嗅覚と視覚の両方が刺激されて頭がくらくらしてくる。熱気で頭が茹で上がっているからか、思考も段々とあやふやになってきていた。

 これはまずい、と立ちあがろうとした時、ムクロが珍しく自発的に喋りだす。


「温かいのは、嬉しいです。これが気持ちいい、というのでしょうか」

「え? あー、合ってると思うよ……そういえば熱いの全然平気そうだよね」


 思えば、夏だというのにムクロはあれだけ暑そうな黒いレインコートを着ていても平然としていた。暑さに強いのだろうか。


「あの服、暑くない? 黒いし厚手だし……」

「少し。……でも、寒いよりいいです」

「?」


 両膝を一層強く抱いて、ムクロはポツリと零す。



「寒いのは……痛いので」


「───……それは」



 今なら聞けるかもしれないと思った。謎に包まれた彼女の背景について、何か聞き出せるかもしれないと。そう考えて開けかけた口だったが、それも途中で止めた。今彼女にしてあげるべきことは、多分そうではないのだ。


「大丈夫」


 後ろから手を回し、もちろん繊細な部分には触れないように細心の注意を払いながら、海風はムクロに語り掛ける。


「君の過去に何があったか、俺は知らない。けど……バディとして、同居人として。君を絶対に一人にしない」

「───」

「安心してほしい。この手は、離したりしないから」


 彼女が、孤独を恐れる子供に見えた。吹きすさぶ雪嵐の中、蹲って寒さに震える小さな女の子のように。


「……ミカゼ」


 くるっと振り向いたムクロの顔を見ようと視線を下に落とした時、海風の脳に電気が走った。ムクロは風呂に入っていても、顔を隠す包帯は外そうとしなかったのだが、海風がこの時注目したのはそこではない。

 ムクロの端正な顔の先、覗いた大きな瑞々しい果実の存在である。


「ぬおおおおおおおおおおおおおおおっ!?」

「?!」


 いきなり叫んだ海風に驚くムクロ。そして限界まで後ずさって風呂の壁に背中をつける。ヤバいとすぐに風呂からあがろうとして、海風は自身の失態に気付いた。血液が集まって膨らんだ海綿体の棒が股にぶら下がっているのに気づいたのだ。


(オウマイゴットッッッッッ!!!)


 落ち着け我が息子っ! そんな張り切らなくていいんだよ授業参観日じゃあるまいし!

 あ、いや、しかし。ムクロに参観されているのであながち間違いでも───


「あっ」


 ムクロは見ていた。海風の股間に付いた海風のそそり立ったナニを見ていた。


「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!??」


 バスタブから飛び出してドアを蹴っ飛ばし、転がり出るようにして居間へ辿り着いた海風。背中で畳の上にスライディングした体は、球体の置かれた机の横で静止した。この一瞬で色々なことが怒りすぎて目を回した海風に、黒い球体から冷ややかな言葉がとどめを刺すようにして降りかかる。


『変態が』「ごもっともです」


 グーの音も出なかった。



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