Ep.14 『食人の仇人』推理編


「あのぉー……そろそろ機嫌直してくれない? あの場面で土下座したのは悪かったって」


 マンションの階段を登りながらインカムに話しかける海風は、通信の向こう側で不満そうにしているグノーシに困り果てていた。


『別に拗ねてるわけじゃないヨ。ただ、その浅はかさを責めてるだけ。あの場で公安の人間が土下座したってことの重大さを理解してんの? あくまで公安特務課の人間としてあの場にいたんだから状況的に特務課の代表者になるっていうのにその代表者が地に這いつくばろうものなら特務課ひいては公安自体の格を下げることになりかね』

「分かった! 分かったから! あ、ほら任務! 任務の話をしよう! ねっ?!」


 延々に小言が続きそうな気配を察知して強引にグノーシの発言を遮った海風。まだ不満そうにしてはいたが海風の言葉も的を射ていたのだろう、コホンと咳払いをしてからグノーシはUSBから得た情報を要約する。


『今回の事件の被害者は二人。一人目が戸島吾郎って男で、35歳のフリーター。過去には強盗罪で逮捕されたこともある前科者だったっぽい。とにかく横暴でギャンブルに酒浸りと、もう典型的なクズだネ』

「強盗罪……ってことは、『仇人』ではなく?」

『ウン、ただの強盗だってさ。んで、コイツが死んだのは4週間前の6月4日。死体は河原近くの野原に捨てられていたらしい。体が喰い荒らされてたのと腐敗が進んでいたのが原因で身元の特定には時間がかかったって書いてるネ』


 体がぐちゃぐちゃになった腐敗した遺体を想像して、そのグロデスクさに軽くえずいてしまう海風。この一年である程度グロ耐性はついたが、グノーシのような鉄のハートには程遠い。


『次の二人目が比嘉董哉58歳。これは6月18日だネ。ホームレスで身寄りは無し、けど遺体の発見は割と早かったらしくて、同じく河原に捨ててあった遺体の腐敗はだいぶマシだったと』

「その遺体も、その……食べられてたの?」

『そりゃあもうムシャムシャと。この人に関しての特記事項はないヨ』


 グノーシが説明している内に辿り着いたのは、マンションのとある一室。204と書かれたプレートが名札の上に取り付けられており、名札には『酒井』の文字があった。


『今回は容疑者が多くて捜査が難航したらしいけど、あの人達が無能なりに頑張ってアリバイを見つけて数を減らした結果、容疑者の最終の候補は四人に絞られたって……チッ、大口叩いてんだからもっと減らせヨ』

「こらこら息をするように毒を吐かない」


 彼らが自分で言っていた通り、容疑者の特定は難航を極め、それでも地道に容疑者を減らしていったのだろう。彼らの努力は褒めるべきだし、その努力ゆえに海風にあれほどまで強く当たったのだ。成果を掠め取るような形にはなってしまったが、彼らの努力を無駄にはすまい。そう決意した海風は、改めてグノーシに部屋の住人について確認する。


「ここが容疑者の一人、酒井英昭の部屋なんだよね」

『そ。さっさと済ませて』

「へいへい……」


 204号室のインターホンを鳴らして待っていると、1分程で部屋の中から男が現れる。ロン毛にバンダナ、そして絵の具だらけのエプロンを身につけた人物。眼下に大きなクマを作っている不健康そうな目の前の彼こそ、この部屋の住人である酒井英昭に間違いあるまい。酒井は眉を顰めたまま海風を見ると、明らかに不機嫌そうな顔をした。


「なにお前? ガキが何の用?」

「アポイントもなく失礼しました。公安特務一課執行部の橘海風です。『仇人』に関する捜査中でして、少しお話しを聞かせてもらってもいいですか?」


 海風が公安と言って更に眉を顰めると、疑念の眼差しで海風を見つめてきた。こんな少年が公安を名乗っても信用しないだろうが、そんなのは海風も慣れている。いつもなら説明をするところだが、今は何よりの証拠が真横にいるので、海風はドアに手をかけ少しだけ開かせた。


「うぉっ……『仇人』、じゃなくて『咎人』? じゃ、本当に……」


 真横にいたムクロを見せると、酒井は驚愕で目を見開いた。その反応で、彼が海風が公安局員だと信用したと確信する。


「はい、信用していただけたようで何よりです。中に入っても?」

「……ちっ、せっかく筆が乗ってたのによー……」


 渋々といった感じで扉を開けた酒井の後を追い、海風とムクロは部屋の中へと入っていく。途端、海風は視界に入ってきた多数の物体に驚かされる。廊下の壁中にびっしりと貼られていたのはキャンバスから取り外した油絵の数々だ。どこを向いても必ず視界に入るようにそこら中にある油絵だが、その全てに共通する特徴的な点は一つ。


「赤い絵ばっかりだ」


 描かれている物は様々だが、その全てに赤い絵の具が多く使われている。林檎やワインなど赤い物は勿論、木やバナナや扇風機なども全て赤で表現されていたのだ。異常なまでの赤への執着である。


「部屋兼アトリエだからな。座る場所はねーから、そこらへんに立ってて。俺は絵描いてるから、聞きたいことがあったら適当に」


 そう言うと、酒井は海風達のことを放ったらかして、100号の巨大なキャンバスに向かって絵を描き始めた。


「うわ、すっご……」


 人程の大きさもあるキャンバスもそうだが、そこに描かれている絵も壮大だ。鉄格子の中に入った裸で赤い女性の後ろから無数の手が湧き出ており、血涙を流しながら大きく口を開けて笑っている絵である。構図といい色の使い方といい、題材は別として非常に素晴らしい作品であることは間違いない。


「ん? もしかして、この絵の素晴らしさが分かるクチ?」

「あ、いや……分かる、ってほど高尚なものではないですけど、ただ凄いなって」

「へぇ……いいね。君、いい感性持ってるよ」

「あ、ありがとうございます?」


 何度も頷きながら誉める酒井に一筋の汗を流す海風。


「ここに来る刑事共は俺の作品を見て悍ましいだの気色悪いだの言いやがる。ウンザリしてたよ。創作の邪魔されるだけでも迷惑だってのに」

「そうだったんですね……またお邪魔してしまってすみません」

「いやいや、俺の作品のファンだって言うなら別さ。なんでも聞きなよ」


 本音を言うなら悍ましいとか気味が悪いだとか海風も感じていたのが、やけに酒井が上機嫌なのでここは素直に乗っかることにした。


「ではお言葉に甘えて。戸島吾郎について知ってることお聞かせもらえますか?」

「戸島? あー、あの上の階のゴミ野郎ね」

「ご、ゴミ……」

「とにかくうるさい奴でさ、こっちが絵描いてるところだってのに怒鳴る声の煩わしいのなんの。画材には良さそうだったけど、騒音が酷いし基本は関わらなかったね。フルネームだって刑事から知らされたよ。そんだけ」

「そうですか……ところで、画材っていうのは?」


 ん、と酒井が指差したのはパレットの上、置かれた赤い絵の具である。意味がわからずに首を傾げた海風を見て、酒井は補足を挟んだ。


「この赤い絵の具。血を混ぜてるんだ」

「…………えっ」


 ×××××


「……画家って、頭のネジが吹っ飛んでるのかな」

『流石にアイツが異端でしょ。しかし、衝撃だったネー。まさか赤の絵の具に血を混ぜるのがオリジナリティーで、しかもあのデカい絵は全部自分の血だとは』

「そりゃクマも出来るよ……貧血だもんな」


 酒井の爆弾発言に驚かされた三人──というより一人はずっと眠そうにしていたが──は、次の容疑者のいる隣室へ赴く。次の容疑者候補であるのは205号室に住む男、垣根隆史だ。


『37歳で実家の電気屋を継いだみたいだけど、5年経った今は殆ど一人暮らしするマンションに引きこもって出てこないとか。社交性は皆無、小心者で犯人の可能性は薄いけど、それでも可能性が捨てきれないのは一点』


 インターホンを鳴らして待ち続けること数分、ドアが開くがそれも僅かな隙間だけ。チェーンをかけているのか、ドアノブを少し引っ張っても動く気配は無かった。


「な、なんだよ……また警察か……? や、やってないって言ってるだろ……とっとと行けよ……へ、部屋には入れないぞ……入れても良いことなんかないんだ……またやなことされるんだ……」

「……えっと。公安特務一課の橘海風です。お話だけでも」

「うっ、うるさいな! 話すことなんかない! どっか行け!」


 そう叫んでバタン、と強くドアを閉めると、垣根は全くインターホンに答えなくなってしまった。極度のコミュニーケーション能力の欠如が見られるあたり、小心者という情報に嘘はなさそうだ。


「部屋を見せるのを極端に嫌う……確かに怪しいな」

『そういうこと。疑われる原因だネ。警察は近日中に令状を持ってきて家宅捜索するつもりだったらしいけど……どうする?』

 グノーシが海風に意見を求めるが、海風は少し悩んで結論を出す。

「次に行こう。他の容疑者を当たるのが先だ』


 ×××××


「あの…‥どちら様ですか?」


 次に海風達が訪れたのはマンションを一階登った所にある305号室の部屋だ。インターホンを鳴らして出てきたのは30歳ほどの女性だったが、顔は実年齢より老けてしまっている。とはいえ顔のパーツから、元は美人だというのが伝わってきた。


「公安特務一課の橘海風です。戸島綾香さん……で、合ってますか?」

「はぁ……そうですが」

「夫である戸島吾郎さんについて少々お話をお聞きしたいのですが」

「……分かりました。散らかっていますが、中でどうぞ」


 短い問答を経て中に招かれた海風達は、酒井の部屋とはまた別の意味で驚かされる。床に転がるハイボール瓶にビール缶の数々、破れた壁紙と散らばったままのガラス片、処理されていない洗面台の生ゴミ。衛生的とはお世辞にも言えず、内装もボロボロになった一室だ。間取りは他の部屋と同じなのに、海風からは全くの別物に見えた。


「夫が暴れた跡です。中々片付ける気にもなれなくて……」

「……やっぱり、家庭内暴力を受けていたんですね」


 綾香の外見からある程度は予想していた。体中に出来た切り傷や青痣、それを隠すようにある血の滲んだ包帯や絆創膏。健康状態と部屋の様子で彼女がDVを受けていたことは容易に想像がつく。


「……それ、あなたがやったの……?」

「えっ?」


 綾香が怯えた目をして指さしたのは海風の隣にいるムクロである。一瞬何を言われたか分からなかった海風だが、ハッとして手を大きく振って否定した。


「ちっ、違いますよ?! この包帯は別に俺がつけた傷を隠すとかそういうのではなくっ……! む、ムクロもなんか言って?!」

「……大丈夫です。傷とかではないので」

「そ、そうなの? ならいいんだけど」


 相変わらずのマイペースさを見せるムクロに困惑しながら綾香が冷蔵庫からお茶を取り出し、三人分のコップに注いだ。通された部屋の中央にあるテーブルに着き、海風が周囲を観察していると、間もなくしてお菓子とコップが運ばれてきた。


「ごめんなさい、大したものは無くて……」

「いえ、お構いなく。こちらこそ急に押し掛けて申し訳ありませんでした」

「あら……ふふ。すごく礼儀正しいのね、君」


 少し微笑んだ綾香は誰が見ても美人そのもので、海風は少し気恥ずかしくなって顔を背けてしまった。こんなお淑やかな女性を虐待するなど一生理解できないことに違いない、と海風は吾郎の精神性に嫌悪感を抱くばかりだった。


「それで……私から話せることは大体刑事さんに話したと思うのだけれど」

「そうなんですが、一応お話をと思いまして。戸島吾郎さんについて、何か知っていることを」


 吾郎の名前を出された瞬間、綾香は肩を大きく震わせた。一連の流れで少し穏やかになっていた綾香の目に再び恐怖の色が滲むのが分かる。数秒逡巡した綾香は、おずおずと吾郎について話し始めた。


「お察しの通り、私はDVを受けていました。昔はあんな人じゃなかったのに……銀行強盗をして捕まって刑務所から出てきた後は、もう手が付けられない状態でした。私は、昔のあの人に戻ってほしくて……でも、無意味でした」


 テーブルの下でギュっとこぶしを握り、綾香は体を小刻みに振るわせて話し続ける。


「頑張ったんです。お金は私が稼いで、身の回りの世話も全部して……けど、あの人は変わるどころか荒れる一方で。生活費を全部賭博に使ってしまうので、お金が足りない時期は身売りもしました。……って、ごめんなさい。こんなこと、子供に聞かせることではないわね」

「っ……いえ、続けてください。俺も、捜査員としてこの場にいますので」


 自虐的な笑みを浮かべた綾香に寒気を感じながら、海風は彼女にそう返答する。綾香の笑顔は先ほどの朗らかさを完全に無くした、底冷えした悍ましいものだったから。


「そう……じゃあ続けます。24歳で結婚した時はあんなに幸せだったのに、その頃は地獄の生活でした。家にも外にも逃げ場所は無くて……あぁ、でも。その子がいた時は、まだ救いがあったわ」

「その子って、もしかして犬ですか?」


 綾香の視線の先にあったのは小型犬用のケージとクレート、ペットシートにドッグフードの袋だ。綾香は海風の確認に静かにうなずき、目を細めて懐かしむように言った。


「まだ結婚したばかりの時に買った子だったの。滅多に吠えない穏やかで良い子でね……だからかな。半年前、夫に殺された時も、全く声を上げずに死んじゃった」

「……え?」


 その発言に海風が目を剝く中、綾香は眦に涙をためて口を手で覆って話す。


「ストレス発散で殺された……買った時から我が子のように育ててたのに……あの人は、何の躊躇いもなく殺したのっ……」


×××××


 綾香からの話を聞いた海風達がマンションを出て向かったのは、戸島吾郎と比嘉董哉の遺体が見つかった河原である。発見された二つの場所は近くではないが、同じ川の傍にあった。広い川幅を持つ東京における河川の有名どころ、多摩川である。


「ここらへんであってる?」

『たぶんネ。ホームレスだし、転居してる可能性はあるけど』


 グノーシの指示を元に移動する海風達だったが、彼女のナビゲートは正しかったらしく、程なくして目的の人物に遭遇することになった。ブルーシートで出来た質素な家の前で襤褸を身に纏い、起こした火の傍で食いかけの魚を焼いている男である。


「お取込み中すみません。飯田誠二さん、で合ってますか?」


 海風が接触を試みたのは容疑者の四人目、戸島吾郎と比嘉董哉の遺体の第一発見者であるホームレスの男、飯田誠二だった。


「んー? なんだおめーさん。立派な服着てんなー」

「あはは……えっと、公安特務一課執行部の橘海風です。戸島吾郎さんと比嘉董哉さんについてお話を聞いても?」

「公安? はー、おめーさん若いのにようやるねぇ。戸島っつーのはよく分からんけど、比嘉なら知ってんぞー」


 無秩序に生えている大量の髭を触りながら、飯田は無気力に海風の質問に答える。


「あいつは力自慢でなー、ここらのホームレスを取り仕切るみてぇに振舞ってんのよ。そんなだからアイツが死んだって聞いた時も誰も悲しまんかったなー」

「比嘉さんの遺体を見つけたのは貴方だと聞いてますけど……発見した側からしても、なにも感じなかったんですか?」

「……それよりもやべぇもん見たからな」


 飯田のその言葉は今までとは違い、伸ばしたようなおっとりとした口調ではなく、何かを怖がるような震え声だった。魚を焼く手を止めたまま、飯田は彼の見たものについて語り出した。


「一人目の死体はたまたま見つけたんだ。河原に落ちてるものを見つけに言ってるときに偶然な。その日から、興味本位でいつもより探索範囲を広げてたんだ。何かすげぇもん見れるんじゃないかって……んで、本当に会っちまったのさ。遠目だけどな」

「──まさか」

「『仇人』だよ。いや、ありゃ人って言っていいのかね……巨大な毛むくじゃらの獣みたいになってた。それがよ、比嘉の体を喰ってんだ。むしゃむしゃってな……思い出しただけでも震えが止まらなくなる」


 自分の両肩を震える手で抱いたまま、飯田は記憶の中の『仇人』について海風に話す。


「おめーさんたち、気をつけろよ……あんなデカいの、出会ったらひとたまりもないぜ」


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