Ep.12 未遂、あるいは現行犯
しつこく耳朶を打つ携帯デバイスのアラーム音。人を安寧の微睡から一気に現実へと強引に引き戻すこの音は、おそらく世界中で最も忌み嫌われる音色であると海風は半ば確信している。
「はいはい……起きますよ……」
こっちは起きているのに触られない限りは叫び続けるという融通の効かない機械にうんざりしながら、海風は固い畳の上から身を起こした。
上半身だけを起こしてウトウトする彼の耳に、遅れて雀の可愛らしい鳴き声が届く。カーテンの隙間から差し込む光は強く、夏が近いことを暗示していた。穏やか朝、そして始まる今日という一日。まだ睡眠が足らないとゴネる脳味噌を気合いで叩き起こし、海風はゆっくりと立ち上がった。
「えーと……なんで畳で寝てたんだっけ」
畳の上で寝たからだろう、少しばかり痛む腰をさすりながらベッドに腰掛けた海風。そうして何気なく置いた手に、ふわり、と柔らかな感触が伝わってきた。
「……?」
寝ぼけ眼を擦ってベッドの上を確認して、海風は柔らかいものの正体を知る。
それは薄い掛け布団を引っ張って眠り続ける一人の白い少女、その胸部。確かに実る二つの果実の一つの上に手を置いてしまっていたことに、今更ながら気づいたのだ。
「おおおおおおおッ?! ごっ、ごめん! わざとじゃないから! わざとじゃないから通報だけはッ!!」
爆速で後ずさって瞬間的に土下座した海風だが、どうやら胸を触られてもなおムクロは起きていないようだった。
随分と眠りが深いのだな、とビクビクしながらムクロに近づき、その寝顔を眺める。
一種の芸術品とも見間違いかねない端正な顔が目の前にあり、海風はこれが生きている人間のものとは思えなかった。降り積もった淡雪のような肌白さ、見たことないほど長いまつ毛、氷のように透き通った髪。寝顔は静謐という言葉が似合っていて、少女はまるで死んでいるかのように眠り続けていた。
「……ほんと、綺麗な顔」
しばらくムクロの顔に見惚れていたが、視線はやがて下にずれていき、さっき海風が不慮の事故で触ってしまった双丘へと移ろっていく。
形の良い二つの果実を見つめ、ゴクリと生唾を飲み込む海風。多感なお年頃の少年一人、何をされても決して起きない美少女一人。
部屋には二人だけ、であれば何も起きないはずがなく───
「って、いやいやいやいやいや! 何考えてんだ俺! 寝てる間に、とか普通に犯罪だから!」
無意識に伸びていた左手を畳の上に押さえ付けた海風は、冷や汗を滝のように流しながら自身の愚考を悔いる。無抵抗の女の子を襲うなど言語道断、人としてやってはならないことだ。
「危なかった……こんなの、誰かに見られてたら終わるな」
『ホントだヨ。よかった、知り合いから犯罪者が出なくて』
「……うわーお」
ギギギ、と油切れの歯車のようなぎこちなさで振り返り、ちゃぶ台の上に置かれた黒い球体に目を向ける海風。球体のカメラは海風をしっかりと捉えており、レンズの中心には海風自身の姿を確認することができた。
『おはヨ。いい朝だネ』
「…………どこから見てました?」
『今ならおっぱいを揉みしだき放題だぜゲヘヘ、って言ってたところから』
「いやほぼ最初からじゃ……ないな!? 言ってなかったよねそんなこと!?」
あれ、言ってたなかったっけ?と惚けるグノーシだが、この反応だと最初から全部見ていたと考えてよさそうである。よりにもよって、グノーシに見られてしまうとは。この悪戯っ子に最悪の材料を与えてしまったことが、どれほど不味いことか察せない海風ではない。
「……グノ」『様付けでしょ?』「はいグノーシ様」
早速手綱を握られた海風が最大限謙りながら、頭を畳の上に擦り付けて陳謝する。
「あの、このことはどうか内密に」
『分かってるヨ。犯罪者予備軍君』
「分かってないじゃんッ! 何も分かってないじゃんッッッ!」
『いやー、君は懲役何年になるんだろうネ』
「だめだッ言うつもり満々だこの人!」
監視役としてここにいるグノーシは本件に関して報告義務がある。それは分かる。しかし、これを報告されようものなら海風は真神に殺されるだろう。あの生真面目な人間が女性に対するセクハラ行為を許すわけがないのだ。
「許してください! 何でもしますから!」
つい口走ってしまった言葉に、画面の向こうの女がニヤァと口角を吊り上げるのが手に取るように分かった。しまった、と気づいても遅い。
『今、何でもするって』
「いや、あの、加減を考えてね……?」
『なはは。じゃ、ひとつお願いしようかな』
グノーシが深みのある言い方をしたので、全身を緊張をさせる海風。彼女に主導権を握られた時点で終わりだった。今はただ、全裸で真神の前に立つ、などの鬼畜な依頼をしてこないよう願うばかりで──
『そこの眠り姫をどうにかして起こして。新しい任務だヨ』
『そんじゃ、今回の任務の概要を説明するヨ。グノちゃんのありがたいお話だから、心して聞くよーに』
「へーい」「……ん」
送迎の車の中、球体の中からグノーシが自信たっぷりに言い放つ。グノーシが実力者なのは知っているし、それに関しては海風も認めているのだが、この自信過剰の性格は何とかしてほしいと常々思っていたりする。力無く返事した海風と眠気が取れずに船を漕ぐムクロに、グノーシが不満そうに絞りをカシャカシャと動かす。
『若干一名聞いてるか怪しいけど……まぁいいや。今回の任務は街中に潜伏していると思われる『仇人』を見つけ出して、適切に処理するって内容だヨ』
「……罪咎因子は?」
『恐らくだけど……『殺人罪』だネ』「……っ!」
海風はグノーシの言葉に一気に体を硬直させた。『殺人罪』は人を殺すのに特化した異能を持つ上に、罪咎因子を抑えることが難しくなる。更生プログラムを受けても社会復帰できる可能性は限りなく低い。
何より、『殺人罪』相手では救命優先度が低く出がちなのだ。良くて『赤』、悪くて『黒』。『黒』が示すのは対象の完全排除、つまり有無を言わせない抹殺だ。この任務は結果的に人殺しをすることになる、ということであるのだが──
「……いや、待って。潜伏してる? 『殺人罪』の『仇人』が?」
『お、よく気づいたネ。そう、今回の肝はそこだヨ。衝動を抑えるのが難しい『殺人罪』の罪咎因子を持ちながら姿を現さず、現時点まで行方を眩ませている。潜伏するだけの理性が残っている可能性があるんだヨ』
「そっか……理性が残ってるなら、更生プログラムで罪咎因子を抑えられるかも」
そのとーり、と何かを口に含んだようなグノーシの声が響く。どうやら朝飯を食べているらしい。
『でも、油断はしないでネ。理性が残っている可能性があるとはいえ『殺人罪』なことに変わりはない。遺体の発見状況からして、異能が危険なものであるのも確かだヨ』
「遺体……被害者がいるってことか。どんな状態だった?」
『そりゃあもう酷いものだったヨ。身体中が喰い荒らされてたんだ。内臓とか腕とか脚とか、もうぐちゃぐちゃだったネー。体も大部分が損壊、なんとか身元は特定したらしいけど……うわ、食事中に嫌なもの思い出しちゃった』
おえー、とわざとらしい嘔吐き声を上げるグノーシ。恐らく遺体検分の際の写真を調査目的で見たのだろう。そうは言っても朝食を運ぶ手は止んでいないようなので、彼女の図太さは健在と考えてよさそうだ。
「橘様。そろそろ目的地に到着致しますので、下車の準備をお願いします」
「了解です。……ほら、起きて。もう着くってよ」
「ん……」
揺らしても少し呻くだけのムクロに困り果て、海風は頬をポリポリと掻く。揺らしても耳元で囁いても変顔しても全く起きる気配がないので、もう背負うしかないのか、と諦めムードになっていた車中で、カメラの向こうの女がボソッと言った。
『……胸でも揉めば?』「やめれ!!!」
───ちょっと考えていたのは内緒である。
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