Ep.5 『窃盗罪』
一人の男が、ふらりふらりと歓楽街を歩いていた。
だらりと両腕を垂らして無気力に歩む姿はさながら幽鬼のようで、よく聞けば口からブツブツと何かを呟いている。艶々とした黒の礼服、細やかなレースの装飾されたドレスなど、華やかに着飾った男女が行き交う中、男は明らかに異色だった。
薄汚れた安物のTシャツに膝先から千切れたズボン、穴の空いた靴に数週間は洗っていないであろう縮れたロン毛と、随分と汚らしい印象だ。
彼の周囲は円状に人がはけており、横をすれ違う人間は横目で彼を見て、ヒソヒソと嘲りの言葉を囁いていた。
そんな人の悪意を肌で感じながらも、男はふらつきながら歩き続ける。瞳だけは獣のようにギラつかせて、煌びやかな人間達に視線をやった。
男は元々、ある企業の社長だった。転落するまでの人生は比較的に順風満帆で、金にも人にも恵まれ、大学を中退して起業した会社も軌道に乗っていた。妻も20半ばで貰い、30歳のころには子供もできた。人間として成功している部類だという自覚が、その時までにはあったのだ。
それが一気に瓦解したのは40歳になった時だった。対抗企業との競争に負け、会社の経営が傾いたのが全ての始まりだった。実生活も荒れ始め、その頃に妻が不倫していたことが発覚。子供が托卵だという事実も、この時に初めて知ったのだ。仕事が忙しく育児に力を入れていなかったのもあって、親権は妻に取られ、慰謝料は間男が簡単に払ってしまった。間男もそれなりの富豪だったらしい。
妻と子には接触を禁止されているので、離婚以来は会えていない。この頃には会社はもう立て直せないほどの負債を抱えて、結局買収されてしまった。
責任を取って会社の取締役を辞職した後は残った資産で生活していたが、やがて歓楽街で女に溺れるようになり、闇カジノで金を擦りつづけ、老後まで過ごせそうな程の額だった資産は底を尽きた。
そして、男は今に至る。有金も住む場所も全て無くした後、亡霊のように歓楽街を彷徨っていた男は、ブランド物の衣服に身を包んだ酔っ払いの男に後ろからぶつかられ、簡単に床に転がった。
「あっ、すみま……うわっ」
最初こそ不注意でぶつかったことに謝ろうとした男だったが、彼の身なりを見ると明らかに顔を不快感に歪め、服の当たった部分をパッパッと手で払っていた。まるで汚物に触った後のように。
「……ぁ」
いや、まるで、ではなかった。汚物だった、自分は。表情を嫌悪感に染めた男の高級な服を黒く濁った瞳で舐めるように見る。金装飾の時計、本革の靴、肌触りの良さそうなジャケット。
───どうして。どうして、自分はこっち側なのだろう。
元々、そちら側の人間だったはずなのに。年齢も同じくらいのはずなのに。人間としての正解を、目の前に突き出されたような。
「よこせ」
───寄越せ。お前を輝かせる全てを、俺に寄越せ。
「よこせ」
───それは元々、自分にもあったはずのものだ。何故お前が享受している。
「よこせ」
───それは俺のものだ。全て全て全て、俺のものだ。
「は、はぁ?何言ってんだ、おま───」
明らかに様子のおかしくなった彼を見て、顔を顰めて距離をとる男。その予感は正しかったことを、男は後々知ることになる。
「寄越せ寄越せ寄越せ寄越せ寄越せ寄越せ寄越せ寄越せ寄越せよこせよこせこよせよけせよよこせぇぇぇェェェエエッッッ!!』
そして、男は異様な変貌を遂げる。ロン毛の髪が一気に毛量を増大させ、男の体の何十倍もの体積にまで膨れ上がる。眼球を剥き出し、瞳孔を真っ暗に濁らせると、肌には血管が浮き上がり、体全体が赤黒く変色した。
そして、変身を決定的にした一つの現象──首をぐるりと巻くように黒い紋章が現れた時点で、男の周囲にいた人間の一人が叫んだ。
「あっ、『仇人』だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああ!?」
7月1日時刻二〇三八。東京都歌舞伎町にて、『
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