Ep.1 『殺人罪』

 

 戦場とは戦争の起こる場所を指すのではなかったのだと、最近になって気づいた。


 例えば、ビジネスマンにとっての戦場は企業の代表同士が顔合わせをする場所だろう。それが会議室であれパーティ会場であれ、彼らにとっての戦争の勝敗がつけられる場所こそが戦場だ。

 生活費の工面に精を出す主婦にとっての戦場はタイムセールス中のスーパーの売り場だし、プロサッカー選手にとっての戦場はフィールドの上だ。なるほど、現代を生きる人間にとって何を戦いとするかは人それぞれな訳だ。平和な世界だからこそ言えることだろう。言うほど平和な世界なのか、と問い詰められれば確信は持てないが、銃弾の飛び交わない戦場なのだ、まぁそこそこに平和的だと思う。

 少なくとも、命のやり取りがない時点でその戦場は幾分かマシであろう。


「だって、ウチの戦場は銃弾どころの騒ぎじゃないし」


 少年はハァと溜息を一つ吐いて、天井を見上げた。無骨な鉄筋とトタン屋根で組み立てられた小規模な工場。お世辞にも立派とは言えず、あちこちにガタが来ているのが丸分かりだ。工場勤めをするにしてもここには就職したくないなぁ、とぼんやりと考えながら、彼───橘海風たちばな みかぜは、耳朶を打つ甲高い音と野太い男達の声に耳を傾けた。


「クソっ、弾がもう無い! おい、鎮圧部隊はまだ来ないのか!」

「通信ではあと10分はかかると!」

「10分?! そんなモタモタしてたら二次災害が発生しちまうぞ! おい、残弾数に余裕ある奴はここ代われ! あのバケモンを撃ちまくるんだ!」

「し、しかし! 先程から撃っても撃っても倒れず……! 本当に効果あるんですか、これ?!」

「知るか! 何もしないで指咥えて待ってるよりは有意義だってだけだ!」


 悲鳴のような叫び声があちこちから上がる中、時折の発砲音に紛れて鼓膜をつん裂くような大音声が響き渡る。


『アグッ………グルァッ………アアアアアアア゛ア゛ア゛ッッッ!』

「ひいっ!?」

「なんだよ、なんなんだよ畜生ッ!」

「ひ、怯むなぁ! 撃て、撃てぇ!」


 男達とは比較にもならないような太くて大きな声。しかし、差異はそこだけではない。その叫喚には些かの理性も感じられず、人間としての意識も残っていないように思われる。犬や猫は勿論、熊やライオンといった大型獣の類とも異なる声。その異質性に圧倒されてか、一人の壮年の警察官を除いて、大概の警察官は恐怖で震え上がってしまっていた。折角の拳銃も胸の中では抱かれていては真価を発揮できないだろうに。

 とはいえ、海風は彼らを責めることは決してしない。要は、相性の問題なのだ。警察学校を出て、実際に住人達と触れ合いながら治安維持に勤しむ彼らには、彼らにしか出来ないことがある。それは大抵、暴動鎮圧や凶悪犯逮捕に関わるものではないのだ。いくら演習で経験を積んだとはいえ、所詮は演習。ましてや、相手は人間ではない。

 であれば、ここは自分の出番だ。


「あの、すみません!」

「あぁ?! なんだ、ガキに構ってる暇はねぇぞ! 特務課だとか言ってたが、お前そもそも年齢」

「もう待ってられないので出ますね!」

「……はっ?」


 隠れていた機体から体を乗り出し、軽快な身のこなしでベルトコンベアーを乗り越えた海風。何の用途かも分からない筐体をいくつか潜り抜けると、海風はソレと対面する。


 赤黒く体を膨れ上がらせた異形。背中から生えた数本の触手は肉芽を伴っており、絶えず流動している。何も知らないものから見れば、それは体から飛び出ただけの変色した内臓にも見えた。いや、臓物にしては大きさと太さが丸太ほどあるし、体躯も原型を止めないほどに腫れ上がっているので、はずだ。人間だった頃の名残と言えば、まだ変形していない下半身と、肉団子となった上半身に歪ながら残る人の顔だろうか。

 ともあれ、吐き気を催すほどに醜悪な存在なのは見れば嫌というほど分かる。


『グァッ……ゴッ……ゴロッ……』

「……やっぱり、『殺人罪ドルフォニアス』の因子持ちか。可哀想に」


 少年が目の前の赤黒い異形を見て発したのは、嫌悪の言葉ではなく同情の言葉。それが上っ面だけではないのは、少年の表情を見ればすぐ分かった。目を眇め、口を僅かにへの字に曲げる。その醜悪な存在への憐れみが体中から滲み出ていた。


「お、お前ッ!! 何やってる、とっとと戻れ! 」

「大丈夫です! 遺書は書いてあるんで!」

「死後の心配したんじゃねぇんだよ!? 死んじまうから戻れってんだ馬鹿野郎!?」


 壮年の警官が声を荒げて海風に宣告するが、当の本人はどこ吹く風といった感じだ。常人ならば裸足で逃げ出すような異形を前にして全く臆していない。


「──今、解放してあげるから」


 胸元から取り出した拳銃の安全装置を解除して、海風は戦闘体勢をとった。

 それを敵意とみなしたのか、赤黒い異形は体から生えた触手を膨れ上がらせる。球形になった触手はブルブルと小刻みに震えると、一気に触手の長さを伸ばした。

 海風は針のように飛来した最初の触手を前転で躱すと、背中側からゼロ距離で銃を撃ち放ち、触手を下から吹っ飛ばす。吹っ飛ばされた触手は数メートル後方へ転がった後に泥のようになって蒸発した。


『ガッ……アァァァァァッッッ! ゴロッ、ゴロズゴロズゴロズゥゥゥッッッ!』


 触手とはいえ体の一部、吹き飛ばされた痛みがあるのだろう。

 数度体を跳ね上げると、異形は激昂したように触手の数を増やして海風を仕留めにかかった。下段から迫った触手の一本に左手をついて勢いを利用して宙で反転すると、側方から来た触手を銃で撃ち抜く。痛みで少し怯んだ隙を狙い、速度の落ちた触手二本を続けざまに吹き飛ばした。そのまま前傾して疾走、異形に肉薄するが、警戒して後方に跳んだ異形は置き土産に四本の触手を撃ち放ち、海風は追撃を諦め回避を余儀なくされる。


 そうして異形の触手攻撃に回避と発砲で対応していると、肩に乗せていた小型デバイスから通信が入る。


「解析課ですね。判定が出ましたか?」

『えぇ、今しがた。救命優先度トリアージは───ブラック。よって、直ちに排除に動いてください』


 通信の向こうの相手が一瞬言い淀んだ気がしたのは、きっと気の所為ではあるまい。予感はしていたが、その判定が降ったことに海風も少なからずショックを受けている。一瞬口を噤んだが、判定が覆ることはない。ここは潔く、通信を返して任務に専念すべきだ。


「───………了解。ありがとうございます」

『いえ。ではご武運を』


 淡白なやり取りの後、海風は改めて異形へと向き直る。今も海風を敵として睨みつける異形を、海風は悲哀の視線で見つめる。


「……ごめん。せめて、苦しまないようにするから」


 その言葉を皮切りに、海風はギアを一段階上げる。

 足の筋肉と靴の摩擦力を最大限に利用して異形に瞬間的に迫ると、異形は怯んで後退しようとした。触手を柵上に組んで防御体勢を取るが、それすらも本気になった彼には無意味。

 一本だけ頭を狙ってきた触手を顔を逸らすことで致命傷を避け、そして異形の3メートル手前で高く跳んだかと思うと、踵落としを柵上に組んだ触手へ炸裂させる。

 触手が凄まじい威力の踵落としによって撓んだところを、海風は拳銃で三発。三発全てが肉団子の中で大きく脈動していた臓器を撃ち抜き、脈動に合わせて膨大な量の血を吐いた。


 下半身が人間のままの異形は膝から崩れ落ち、仰向けに倒れる。その重量に負けて地面が盛大に凹むが、それも特に気にはならなかった。


「……公安特務一課『執行部』、橘海風。対『仇人』特設刑法に従い、貴方を排除します」


 先程の攻撃でついた頬の傷に滲む血を手の甲で拭い、銃をリロードして構えた。すると、肉団子についていた唇が、痙攣しながらも微かに動く。


『ゴッ……ゴロ……』

「ッッッ!!」


 まだ動く気力があるのか、と直ぐに銃を撃とうとして──



『ゴロ……ゴロジて……もゔ……ゴロジた、くない』

「っ────分かりました。どうか、安らかに」



 パン、と乾いた音が古びた工場に響いた。


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