その日の夜…

そろそろ20代も後半の男、研二。小学校からプロを目指し野球一筋でやってきた。しかしプロ指名確実と言われた年、肘と腿を痛め、あっけなく野球人生は終わった。とてつもなく家賃の安いわりに設備は良いアパート「ゆーかり荘」で暮らしながら、バイトで食いつなぐ日々。懸命に働いているため、正社員にならないかという話もあった。しかし断った。もう一度、野球のように人生をかけて何かをやりたい。そんな思いがあった。その日ふらりと立ち寄った母校の文化祭、そこで見たギター片手にありのままの思いを歌う男子生徒を見て、愕然とした。

(こんなものが世の中にあったのか。俺は…これがやりたい!自分の言葉をギターに乗せ、思い切り歌いたい!) 

すぐに持っていたお金で買えるギターを買い、教本を買い、本が見えなくなるまで川岸で練習した。

アパートに帰ると偶々大家さんに会った。

「あらどうしたの佐藤さん、そのギター」

「大家さん、僕の人生をかけるものが決まりました」

「そう、それは良かったわ!頑張ってくださいね」

「はい!」

研二と大家さんは隣同士。前から大家さんは研二を気にかけていた。

「そうそう、一番右の部屋に新しい方がいらっしゃったから」

「え!そうなんですか。あの娘の隣ですか…」

「ふふふ、大丈夫よ。何かあったらお願いしますね」

「分かりました。それじゃあ大家さん、また明日」

「ええ、お休みなさい」

大家さんは部屋に入ると、買ってきた花瓶に水を満たし、花を差し、テーブルに置き、またそのうちの何本かを別の花瓶に入れ、仏壇に置いた。そうしてようやく落ち着いて腰を下ろした。

「ふふふ、なかなかな一日だったことね…」


また「ゆーかり荘」が賑やかになりそうだ。

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