アラサー女子と大家さん
70代前半程であろう老女が1階の一番左の部屋から出てきた。
「初めまして、ゆーかり荘大家の新井です」
薄手の服装だが、吐く息は白い。
「あ…はじめまして…。これ、どうぞ」
「え?…まあ!綺麗な花束」
老女は少し困惑したような、嬉しそうな顔をしている。
「へぇ、花束ねぇ」
「あの…間違っていましたか?」
「いえ、あなたみたいな人は初めてなの。むしろ嬉しいわ!部屋に飾っておくわね」
「あ、ありがとうご…ざいます」
「私ね、花束って一番素敵な贈り物だと思うの。だってずっと形が残るわけでもないし、だからって食べられるわけでもない。自分じゃなかなか買えないのよ。だからすごく嬉しいわ!あくまで私個人の話だけど」
なるほどな、と思った。
「あ、今日から入居でしたね。よろしくお願いします」
老女は深く頭を下げた。
「あ、いえ…こちらこそ、お願いします。えーっと…」
「大家さん、でいい?」
「はい、大家さん」
「立ち話もなんですから、早速お部屋に案内しますね」
大家さんの後を多華子はついていく。背は小さく腕のしわも多いが、背筋は伸びていて歩き方もしっかりしている。1階の一番右の部屋に案内された。
「さあどうぞ、お入りください」
多華子は少し驚いた。頑丈な作りではあるが、所々錆び付いているアパートの中はもう少し古く、汚いものだと思っていたからだ。
「さあほら、あなたの部屋なんですから遠慮せずにどうぞ」
「あ、はい。すみません」
そんな謝らなくて良いのよ。と大家さんは笑って言った。床、テーブル、水道、冷蔵庫、台所、どこも綺麗に掃除されている。
「さあ座って。少しお話しましょう。まずあなたの名前は何て言うの?」
「古川多華子、です」
「ご出身は?」
「新潟です」
「へえ、新潟なのね。お米の」
「そうですね。米は…確かに、美味しいです」
自分の顔が少しひきつったのが分かった。
「あなた、地元を飛び出して来たようね」
ますます顔がひきつった。どうして分かるのだろう?
「なぜ知ってるの?って感じのお顔ね」
「あの…どうして、そんなに分かるんですか?」
「ん?あー、私は少し人の表情を読み取るのが得意なの。気に障っていたらごめんなさいね」
「いえ…」
「何か悩みがあるなら私で良ければ聞くわよ」
悩み、という訳ではない。でも……もし自分がしたことをこの人が聞いたらどう思うのだろうか?
「何か思い詰めていらっしゃるようね」
説教でもされるのだろうか?それとも、同情してくれるのか?
「私は…私が生まれてすぐに…母が死にました。……5歳の時に父も死にました。親戚の家に引き取られて…少し煙たがられて…でも、勉強が得意だってことが分かると、期待されるようになって大学まで行きました。……でも就職に失敗して、結局実家の工場と田畑を手伝うことになりました。でも人は足りてるんです。…また煙たがられるようになって…でも他に居場所なんて無くて…。でもどうしても我慢出来なくて、書き置きだけして、…東京に飛び出してきました。あの人たちも追ってきたりなんてしませんでした…」
私は今の自分に失望している。自分語りに、もはや恥など感じなくなっていたのだ。そして突然の告白に大家さんは目を見開いていた。
「ああ、…そうだったの…」
大家さんはしばらく黙ってしまった。でも多華子はその表情を見て気付いた。
「少し、軽蔑してますよね。それくらい我慢出来ないのか?我慢してそのうち何とかすれは良いじゃないか?って…」
すると大家さんは少し驚いた顔をし、そして笑って言った。
「確かにそうね、そう思っているわ」
やはりそうなんだ。自分は駄目な人間なんだ。
「まあ、そんなに暗い顔をしないでちょうだい。だってそうじゃないの。あなたの話を聞いただけじゃ、あなたの本当の苦労なんて分からないの。人には、…少なくとも私にはそんな想像力なんて無いのよ。だからね、人にどう思われているかなんて気にしないで。だってあなたの苦労はあなたにしか分からないじゃない」
驚いた。今まで自分の境遇を語ったところで戦後を生きてきた老人には「もっと頑張れ」「弱音を吐くな」と言われ、同級生には偽の同情しかされなかった。…でもこのお婆さんは…
「少しお顔が明るくなったね。それじゃあ私はそろそろ行くから」
そう言った大家さんの顔を見て、多華子は気が付いた。火傷跡だろうか?
「あの大家さん、その顔…」
「ああこれね、遠い昔のことだよ。…そうそう、特に私達の世代にはね、「自分達ほどの苦労をした人は誰一人いない」って思っている人も多いから、何か言われても、あんまり気にしなくて良いよ」
「…はい、ありがとうございます。あの、これからよろしくお願いします」
多華子は頭を下げた。
「ふふふ、こちらこそ宜しくね。隣の部屋にくらいはご挨拶しておいで、うーん出来れば明日の朝が良いね。何かあったら私の部屋に来なさい」
「はい、ありがとうございます」
「あ、隣の娘はなかなかな子だから、あなたは少し驚くかもしれないね。でも悪い娘じゃないから、よろしくね」
「はい」
大家さんは立ち上がり玄関に行った。ドアを開けながら言った。
「…あなたこそ、人の表情を読み取るのが上手いじゃない。それは役立つことよ」
そうして外に出ていった。そうしてしばらく窓の外の地元とは異なる、建物が並ぶ景色を見ながら考えことをしていた。
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