第9話
エルクール学院の寮内にあるアルスの部屋で、アルスは椅子に座りながら本を読んでいた。
アルスは魔法で全身を綺麗にして、ナツメは風呂場にて体を洗っている。
「上がったわよ」
本を読むこと十数分。アルスが本を閉じて顔を上げると、風呂上がりのナツメが目に入った。
湯上りの肌には艶があり、赤く上気した頬は艶めかしい。
異世界でも通じる美しさを持つナツメに見惚れていると、彼女は目を細めた。
「なに見てるの。変なことをしないでしょうね」
「そんなことするわけないよ!」
「じゃあ、どうしてそんなに私のことを見てたの?」
足音を鳴らしながらナツメは近づいている。遠目でも整った顔は近づいても美しい。
怪訝そうな表情が鼻先に迫ると、アルスは無意識に息を呑んでしまった。
顔が赤くなるアルスの変化を見て、ナツメは更に険しい顔を見せる。
心を奪われそうになりながらも、アルスは目を逸らしながら口を開いた。
「……ちょっと綺麗だったから見惚れてただけだよ」
「へえ」
どうやら満更でもない解答だったらしい。ナツメの言葉に含まれていた棘が小さくなる。
しかし怪訝な表情は変わらないままで、警戒を完全に解くことは出来ていないようだった。
アルスは喉の渇きを感じながら正面に顔を見据える。
星を閉じ込めたような輝きが彼女の双眸に宿り、黒い瞳がアルスの姿を映し出している。
やがてナツメは大きなため息をついた。
「少なくとも嘘をついているわけじゃないみたいだし、もういいわ」
「わかってもらえたなら、なりよりだよ」
アルスはそう口にするものの、色気づいた空気が終わってしまったことが少し残念だった。
そんな気持ちに気付くはずもなく、ナツメはアルスから背を向けると、本棚から日記を取り出した。
「今日はアルスくんが色気づきました、と」
「書かないで!」
「でも本当のことでしょう?」
「そうだけど、そうじゃない!」
自分でも何を言っているのかわからない。
アルスは椅子から立ち上がると、羽ペンを片手に日記を書こうとするナツメを全力で阻止しようとする。
しかし悲しいかな。アルスは伊達に学年最下位の座を守ってはいない。
アルスの全力はナツメを本気にさせるまでもなかった。
軽々とした動きでアルスの腕を回避。そのまま距離を取ると壁に本を押し付けて文字を書こうとする。
「ちょ……」
「そんなんじゃ私にも追いつけないわよ。もっと頑張りなさいよ」
煽り文句を受けて、アルスの心に火が付いた。
相変わらず軽い笑いを浮かべているナツメを観察し、一瞬の隙を狙って虎視眈々と目を光らせる。
二人は制止し、一瞬の油断も許さない空気の中で見つめ合う。
「来ないの?」
「取り返せないのはわかってるから」
「それなら書いちゃおっと」
ナツメが羽ペンを持ち直し、本に注意を向けたときだった。
「隙あり!」
アルスはあらん限りの力でナツメに飛び掛かった。
黒歴史を残されたくない。恥ずかしさの一心がアルスを突き動かしていた。
この動きは流石にナツメの予想外だったのだろう。ナツメはペンを止めたまま、呆然とアルスの突進を眺めていた。
「取ったぁぁぁ!」
右手に握られた日記に向けてアルスは突貫する。そのまま剥ぎ取るような動きでナツメから日記を奪った。
が、一度加速したらすぐには止まれない。
「避けて!」
「え……!」
アルスは体を曲げようとしたものの、ほとんど真正面からナツメに激突してしまった。
わずかな意識の空白。
やがて宙に漂っていた意識はアルスの体内へと戻ってくる。
「あ」
アルスはナツメの上に覆いかぶさっていた。
風呂上がりのローブが乱れてしまい、瑞々しい四肢があられもない姿で晒されている。
アルスの眼前にある胸元もわずかに見えてしまいそうで、下手に動くこともままならい状態だった。
理解と思考が働かない。
「……ん?」
と思っていたのも束の間。アルスはナツメの胸元にある大きな青い痣に気が付いた。
以前にも見たことはあるが、当時は気のせいだと思って何も言わなかった。だが、二回も見間違うはずもなく、疑問は確信に変わる。
今日は泥をかぶったぐらいで、怪我をするようなことはなかった。
ならば、どこで痣をつくってきたのだろうか。
やっと頭が働き始めたところで、衝撃で気を失っていたナツメが目を覚ました。
「ちょ、どこ触ってるのよ!」
「うわっ!」
状況を理解したナツメは乗りかかるアルスを全力で蹴飛ばす。
華奢な足にも関わらず、アルスな反対側の壁まで吹き飛ばされてしまった。
壁に背が打ち付けられて肺から空気が吐き出される。
苦悶の表情を浮かべるアルス。しかしナツメは容赦しなかった。
仁王立ちして腕組みという、いかにも怒っていそうなポーズを取って床に横たわるアルスを睥睨する。
「アルス、私の上に乗りかかってたわね?」
「こっちも本を取り返すのに全力だったんだから、仕方ないじゃないか! もう黒歴史を残すのは嫌なんだよ!」
ふとガロンの顔が脳裏に浮かぶ。奴にいじられたことで生まれた黒歴史は数知れない。
黒歴史に対するアルスの感極まった声に、ナツメは怒りを忘れてたじろいだ。
「……まあ、アルスを日記でいじろうとした私が悪かったわね。ごめんなさい」
「上に乗っかった僕も悪かった。ごめん」
お互いに謝罪は行った。とはいえ、どこか引っかかる部分があるのも事実で、下手に口を開くことができない。
アルスの部屋が静まり返り、隣の部屋からにぎやかな声が聞こえてくる。会ったこともない生徒だが、騒いでいられることを羨ましいと思った。
何度も地面とナツメの間を視線が行き来して、やがてナツメの方向へと固定する。
ナツメもその視線に気づいたらしい。鼻を鳴らしてアルスを見やった。
アルスは喉に引っかかった言葉を口にしようとしたが、ナツメが先手を打つ。
「肌を見たってことは……その、色々見ちゃったのね」
「このあいだも見たんだけど、忘れてたのと気のせいだと思って言わなかったんだ。なんだか触れちゃいけないことかなと思って」
「そう」
怒るでもなく、侮蔑するわけでもなくナツメは返事した。
綺麗な女性には似合わないほどの傷がローブの下に隠されている。あまりにも不釣り合いな二つの要素をナツメは持っていた。
半ば取り繕うようにアルスは話をつなげようとする。
「もしナツメが望むなら、魔法で傷を消すことだってできるよ?」
「ありがとう。その心遣いは嬉しいけど、遠慮しておくわ」
「どうして? せっかく綺麗なのに。僕が女の子だったら肌に傷があったら嫌だと思うんだけどな」
「アルスには理解できないわよ」
何一つ根拠がない発言。しかしナツメの口調には有無を言わさぬ説得力が込められていた。
アルスは押し黙ったまま俯く。
「ナツメ……」
アルスは仲の良い友達のつもりでナツメと接してきたつもりだった。
しかしここにきて、どうしても超えられない一線の存在を思い知らされた。
どこか空虚な心を隠すようにアルスは作り笑いを浮かべる。
「……そうだよね。ナツメにもプライベートがあるのは当たり前。気まずくさせてごめん」
ナツメは無言のまま顔を背けた。彼女なりの謝罪のつもりだろう。
アルスが落ち込んでいると、ふとナツメが片手を差し出した。
「今日のことは無かったことにしましょ」
「え?」
呆然と口を開いて突っ立っているアルスに、ナツメは「ああもう!」といらだった声を上げる。
「この世界で私が頼れる人はアルスしかいない。それなのに気まずいまま付き合うなんて絶対いやなの。これぐらいわかりなさいよ!」
命令口調で怒るナツメに、思わずアルスの頬が緩んでしまう。
「……フッ」
「なに笑ってるの?」
「なんでもない」
ナツメの苦しい言い訳はアルスへの気遣いだ。今もナツメは顔を羞恥に染めながら張りぼての怒りで虚勢を張っている。
せっかくの機会をみすみす見逃すほどの馬鹿ではない。
アルスは頬が緩めるのを抑えながら、ナツメの手に自分の手を重ねる。
「お互い内緒のことはあるかもしれないけど、これからもよろしく」
「よろしくね」
とりあえずの和解が出来たことにアルスは安堵する。また、ナツメの地雷を踏みぬかないように気を付けようと思うのだった。
緊張が解けて気が抜けたらしく、ナツメは大きく伸びをした。
「ひと段落したところで、何する?」
「別に好きなことをやってればいいんじゃないかな。もう夕方だし、外にも行く時間もないしね」
「面白くないわね……」
「そう言っても、明日も講義があるんだから夜更かしなんてできないよ」
どうしても気が乗らないアルスに、ナツメは不快そうな顔で腕を組んだ。
ナツメに付き合うのは構わないことだが、さすがに本命の学業を疎かにするわけにはいいかない。
ただでさえ成績は最下位なのに、これ以上落としたら退学ものだ。
「じゃあ、いつもの日課だけやりましょうか。日記を持ってくるわ」
日課というのはナツメにこの世界の文字を教えることだ。ナツメは生活に困らない程度には文字を覚えたはずだが、未だに生活の一部として勉強が続いていた。
アルスにニホンゴを教えるのもナツメの毎日の習慣となっているが、勉強が苦手なアルスには正直つらかった。
だが、そんなことをはっきりと言えるはずもなく、
「それじゃ、始めましょうか」
「そうしよう」
楽しそうに日記と教本を持ってくるナツメに、アルスは微笑むのだった。
長かった一日は終わりを迎えていた。
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