第8話

「ああもう、どうしてうまくいかないのよ!」


 エルクール学院の寮の傍にある小さな広場で、アルスとナツメは魔法の試し打ちをしていた。


 ナツメは暴発した魔力で全身を焦がし、怒りの形相で真っ黒な腕を思いっきり回している。どうやら思い通りにいかなかったことがとても不満らしい。


 一方、アルスはこの事態は想定内のことだったので、対して慌ててもいなかった。


 魔法についての知識がほぼゼロであるナツメにこの世の神秘である魔法をすぐに使えるわけがない。


 アルスは自身に飛んだすすを払いながら、怒るナツメに声を掛けた。


「もっと意識を自分の中に向けないと。集中力が乱れているせいで魔法のイメージがぜんぜんできてない」


「言われなくてもわかってるわよ……詠唱したり無意識で使えたり、私の世界にあった魔法はもっと簡単だったんだけどなぁ……」


「詠唱しないといけないのはごく一部の極大魔法ぐらいだよ。ほとんどの魔法には必要ないし、無意識で使えるのはごく一握りの天才だけ」


 血も涙もないアルスの反論に、ナツメは目に見えて肩をがっくりと落とした。


 せっかくの魔法のお披露目で盛り上がっていた空気を壊すのは本意ではないが、できないことはできないのだ。


 魔法を使えるようになるには地道な研鑽を積む他にない。


 アルスは眉を下げて申し訳なさそうな表情で見守っていると、ナツメはおもむろに顔を上げた。


 少し期待するような、どこか輝いた目をアルスに向ける。


「アルスって魔法が使えるのよね?」


「まあね。学年の中では下から数えて一番早い方なんだけど……」


 言っていると悲しくなってくる。誰よりも勉強しているはずなのに、どうしてこんなに低いのかと自問する。


 しかしナツメはアルスの心中など興味は無いようで、なおも話をつづけた。


「これからの参考にするから、一度使ってみせてよ」


「学院を卒業するまで魔法は外で使っちゃいけない校則があるんだけど……」


「じゃあなんで私が魔法を使うときに言わなかったの?」


「ナツメは使い魔としての扱いだから、校則を守らなくてもいいんだ」


「そうなの」


「そう」


 なぜか訪れる沈黙。アルスはナツメと見合ったまま口を開くことはなかった。


 だが、その静寂もナツメによって破られる。


「ルールは破るためにあるのよ。そんなに真面目に殻に閉じこもってるままだから、殻を破って才能を伸ばせないんじゃないの?」


 ナツメの言葉はどこかで聞いたことがある気がする。しかも有無を言わせないような説得力があって、アルスの心を大きく揺さぶった。


「才能……殻……伸ばす……」


「そうそう、常識にとらわれていると新しい視点も得られないわよ」


 ナツメの言うとおりだ。エルクールを築いた過去の偉人たちも奇想天外な方法で歴史を創ってきたことは間違いない。


 学院のルールぐらい破って当たり前だ。


「ってなるわけないだろ! 僕を悪の道に誘惑するんじゃない!」


「これだから真面目っ子は……」


「あのね……」


 半目を向けるアルスに、ナツメは大きな音を立てて舌打ち……はせずに足元の石を蹴飛ばした。


 ナツメの期待に背いた罪悪感が心を貫き、少し息苦しい感覚になる。


 アルスは周囲の様子を確かめ、辺りに人気が無いことを確認すると、ナツメの耳元でそっと話す。


「一度だけだから、よく見てなよ」


「やっぱりわかってるわね!」


「静かに! 見つかっちゃいけないんだから、大声を出さないで!」


「仕方ないわね……」


 アルスの注意などどこ吹く風、大声を上げて喜ぶナツメに、アルスは人差し指を立てて注意した。


 ナツメは頬を膨らませて眉尻を下げる。不満がありありと見て取れた。


 いくらナツメのためとはいえ、校則は破ってはならないものだ。場合によっては退学処分もあり得るので、迂闊に一線を越えてはならない。


 アルスはもう一度ナツメに目を向けて、再度まわりに人がいないことを確認する。


「……よし」


 ナツメ以外の人が視界に入らないことを確かめると、アルスは静かに目を閉じた。


 世界から色が消える。


 視覚を封じると、自分の内側がはっきりと見えるようになる。


 血の流れ、心臓の音。絶えず動き続ける体に意識を向けて、アルスは体内の魔力をかき集める。


「すごい……」


 きっとナツメにも魔力が感じられたのだろう。さきほどまでとは打って違い、心からの感嘆の声が上がった。


 しかしアルスはそれを無視。更に己の内側へと意識を向ける。


 徐々に右手に力が集まっているのを感じた。魔力は熱を帯び、炎となってアルスの掌に顕現する。


 ナツメに上手く手本を見せられたことに、アルスは胸を撫で下ろした。


 自慢したいという気持ちで口の端が緩んだまま、ナツメに目を向ける。


「これが魔法だよ。まあ、炎を出すのなんて初歩の初歩なんだけどね」


「初歩でもすごいわよ! 私の世界には魔法を使える人なんて一人もいなかったんだから」


「そうかな、えへへ」


 学院の底辺を彷徨っているアルスにとって、魔法を褒められるのは初めてのことだった。


 慣れない喜びに背中がくすぐったい。何気ない彼女の言葉がいつまでも鼓膜に残って離れなかった。


 ナツメはアルスの掌に浮かぶ炎を興味深そうに眺め、少しずつ手を近づける。


「なるほど……本当に熱いわね」


「炎なんだから当たり前だよ。ナツメの世界では炎は冷たいのが普通だったの?」


「そんなわけないでしょ。自然法則はこっちの世界と変わらないみたい」


「ふーん」


 最近、何度かナツメの世界について話題に上がるたび、アルスは興味のツボを刺激されていた。


 魔法使いにとって未知の全ては財産だ。異世界など魔法使いにとって宝の山で、どんな魔法の天才でも、行く権利を欲しがるに違いない。


「人が来るといけないから、もう消すよ」


 アルスが大きく腕を振ると、炎は空気中に霧散した。やがて熱も散り散りとなり、後には何も残らない。


「完璧に証拠隠滅したわね」


 ナツメはニヤニヤと薄笑いを浮かべる。アルスに共犯者としての感覚が芽生えた瞬間だった。


「まあね、だてに失敗した魔法の隠滅をしてないさ」


 今までの失敗が生きたことに、ちょっとした喜びを感じる。しかし遅れて胸を張れるようなことでもないことに気付いたが、気づかないことにする。


 ナツメは早速魔法を試したいらしく、杖を握りしめて目を閉じていた。


 アルスのときとは違い、魔力の流れが乱れている。杖の先に魔力を集めようとしているようだったが、あまりうまくいっていなかった。


 しかしナツメは気に掛けることなく集中を続ける。


「むむむ……」


「もっと集中して。心が乱れてる」


「わかってるわよ!」


 心から怒鳴られたアルスは肩を竦めた。ナツメはアドバイスを聞いている余裕がないようだった。


 ふと、ナツメの杖の先に異常な魔力が集まってくる。


 暴走を始めている予感がして、アルスは魔力の塊から距離を取った。


「うごごごご……」


「ナツメ?」


 心なしかナツメの言葉もおかしくなっている気がする。しかしアルスの声には返事せず、ナツメは溜まった魔力を解き放った。


「ハァッ!」


 それは、綺麗な噴水だった。


 ナツメの杖からあふれ出た魔力は強烈な水流となり、空に向かって上昇する。やがて水は重力に従って、天を覆う豪雨となった。


「いやぁぁぁ!」


「うわぁぁぁ!」


 警戒して距離を取っていたアルスも頭から水を被る。


 重力に加速された水の重さは異常だった。重量物で頭を押さえつけられているような感覚で、まともに立つことすら難しい。


 アルスは顔から地面に倒れ込む。


「うっ……」


 泥だらけの地面に顔が突っ込む。砂利と泥水の味が口いっぱいに広がった。


 晴れた空、降り注いだ水の後には綺麗な虹がかかる。


「まったく、ひどい目にあった……」


 泥だらけのローブを払いながらアルスは立ち上がった。


 緑の芝が生い茂っていた広場は凄惨な有様だった。あちこちに茶色の泥が跳ね、綺麗だった芝を汚していた。


 地面もぬかるんでしまい、靴から染みる水の感触が非常に気持ち悪い。


 泥を落としながらアルスが周囲を見渡すと、ナツメも地面に倒れ込んでいた。爆心地にいたせいか、アルスよりも汚れが激しい。


 魔法の失敗を全身で浴びた少女の傍に近づく。


「その、大丈夫?」


「大丈夫じゃないわよ……どうしてこうなるの……」


 アルスの声掛けにナツメは首だけを動かして答えた。


 綺麗だった黒髪は無惨に汚れ切ってしまっている。顔にも泥がついているせいで、元の綺麗な顔立ちが跡形もなく消え失せていた。


 アルスがそっと手を差し伸べると、ナツメもその手を取り返す。


「今日はここまでにしておこう。これ以上被害が大きくなると誰かに怒られるかもしれない」


「しばらく魔法はこりごりだわ」


 どうやらナツメの魔法に対する情熱は冷めてしまったようだ。思い通りに操れなかったことがよっぽど心にきたらしい。


 ナツメは怒りに頬を膨らませたまま体中の泥を落とそうとする。しかし手で払えるような泥の量ではなく、すぐに諦めた。


 みじめなお互いの姿をみて、同時にため息をつく。


「寮に戻って水を浴びようか。あと着替えもしないと」


「そうね……」


 杖を買った時の興奮はすでに消え失せていた。


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