第32話




 あれから、一週間ほど経過した。


 あのあと、水瀬は順調に回復して何もかも元通りになったらしい。期末テストも特に遅れることなく仕事もこなし、祖母の介護も同時に完遂したらしかった。ちょっと待った、強すぎでは? 俺が色々言う必要とかあった?


 などと思いつつも、こうして報告をくれるあたり律儀というか何というか。

 今のところ、前ほど精一杯という感じでもないので大丈夫だとは思うのだが。



 そうして、今日。

 なんと、俺は水瀬と初めてサシで飲み会をすることになっていた。










「堀越くん、こっちこっち」


 仕事終わり。

 自宅最寄駅の中華屋さんで、俺は水瀬と待ち合わせしていた。


 この飲み会は、水瀬から誘われたのだ。

 なんでも、愛莉が友達の家に遊びにいって今夜はいないらしい。

 だから、飲み会に付き合ってと言われていたのだが。




 俺が中華料理屋に入ると、水瀬は席について既に何杯か飲んでいるようだった。

 店員さんにちょうど空いたジョッキを回収してもらいつつ、水瀬は俺を見上げつつメニューを差し出す。



「はい。君、何飲む? 取り敢えず駆けつけ一杯ね」

「え」

「遅れてきたんだから当たり前でしょ? それとも、ちゃんと三杯の方がいい? 意外と飲みたがりね」

「違う違う! え……水瀬ってそんな感じだったっけ?」



 説明は不要かもしれないが、駆けつけ一杯とは飲み会等に遅れてきたやつに罰として飲ませることを指すことが多いらしい。

 ちなみに、正確には駆けつけ三杯で、一杯はその誤用だとか。


 それはそれとして、水瀬が酒を強要……とまでは行かないが、飲ませようとしてくるなんて。


「……もしかして、水瀬もう酔ってるのか?」

「そんなわけないでしょ。酔っ払ってなんかいないわよ」


 そう言いつつも、水瀬の頬は真っ赤で目が座っている。

 どう見ても、酔っ払っているようにしか見えない。


 これまで、水瀬はずっと俺に対して一線を引いていたように思えた。

 だが、この間から、どこかその壁が薄くなったように思える。

 良く言えば気安く、悪く言えば絡みが雑になったような──そんな感覚だ。


 そもそも、この飲み会だって何の目的で開かれたのかもわからない。


 水瀬からは「ただ付き合って」と言われただけだ。

 まあ、その言葉だけでホイホイついていく俺も俺なのだが。


 しかし、水瀬の意図はどこにあるのか。

 俺は運ばれてきた酒で水瀬と乾杯すると、ぐいっと飲み、彼女の第一声を待ち構えていると──


「で、最近、あの後輩ちゃんとはどうなの?」

「…………へ?」


 水瀬はまったく予想してなかった話題を放り込んできた。


「なによ、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして。私、そんなに変なこと聞いた?」

「い、いや……そんなことないけど」

「で、どうなの? あの後輩ちゃんとは仲良くしてるの? 春野さん、だっけ?」

「あ、ああ……春野とは仲良くやってるとは思うけど……ただの会社の後輩だけど」

「ふーん……そう。あっ、堀越くんこれ美味しそう。頼んでもいい?」

「あ、え? もちろんいいけど……」

「ありがと。あっ、店員さん注文いいですか?」


 俺が頷くや否や、店員さんに注文しはじめる水瀬。

 それきり、さっきの話題に触れることはない。



 ……え、なんなんだ?



 意味が、わからない。

 それが飲み会を開いてまで、水瀬が聞きたかったことなのか? それにしてはあっさりしすぎじゃないか? 

 ということは、ただの世間話なのか?



 ……やっぱりわかんねぇ。




 俺の目の前で、楽しそうに中華料理を食べる美女。

 そんな光景とともに、俺と水瀬の飲み会は始まった。






◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇





 そして、飲み会は何事もなく終わった。


 今は、自宅のアパートに向かって帰っているところだ。

 夜は更け、頭上ではぼんやりとした月明かりが照らしている。


 ……いったい何だったんだ?


 水瀬との飲み会の話題は多岐に渡った。

 会社の話、学校の話、愛莉の話、趣味の話。まるで普通の友人のように語り、飲み、食べていた。


 だが、それ以上は何もない。


 俺と水瀬の関係は単純なようで、複雑だ。

 お隣さんで、同級生だが、普通に一緒にご飯を食べにいくような仲ではない。

 だから、何か用事があるのではないかと疑っていたのだが。



 あるいは、この普通の飲み会こそが水瀬がやりたかったことなのかもしれないが。

 だとすると、水瀬はいったい何を──



 と、帰路を辿りながらアルコールが回った頭で考えていると、水瀬が隣を歩きながら口を開いてきた。



「……今日は、どうだった?」

「今日? 飲み会のことか?」

「うん」

「そう言われても……ああ。ただ、水瀬がああいう中華料理屋が好きだったのは意外だったかな」

「落ち着くでしょ? でも、そっか。それなら一応目的は果たせたのかな」

「目的?」

「そう」



 深夜の街の中。

 水瀬は住宅街のなかにある公園の前で足を止めると、こちらを振り向いた。



「今日は、君に私を知って欲しかったの」

「……水瀬、のことを?」

「そう。君は私のことを……その、すごいとか、頑張ってるとか言ってくれるけど……私は普通だってことを知って欲しくて」

「普通」

「弱いでしょ、私」


 水瀬は完璧な笑みではなく、どこか不器用に気恥ずかしそうに笑ってみせた。


「ずっと一人でも頑張れると思ってたけど……でも、やっぱり限界は……ううん、一人じゃ無理みたい」

「今日は随分と気弱なんだな」

「そう? どっちかといえば、これが本来の私かも」


 水瀬は頭上を見上げる。

 つられて視線をあげると、夜空には眩い星々が煌めいていた。


「虚勢はって、強くあろうとして……でも、そんなのする時点で弱い証拠でしょ?」

「それ、は……」

「だけど、これでいいの。まず認めることにしたから。私は弱い。一人だけじゃ何もかもはできない」


 とても弱いやつの台詞とは思えない。

 だが、水瀬はそう言い切ると、とっとっ、と後ろ向きに歩いて俺の前までやってきて。


「だから……だから、君を頼りたいの。お隣さんで、同級生っていうのもあるけど……君になら頼れる気がするから。毎回倒れてても君にも余計に迷惑かけるし……今更、こんなこと言って都合がいいと思うかもしれないけど」




「──でも、君さえよければ君に頼りたいの」




 水瀬の視線は、こちらにまっすぐと向けられていた。


 表向きは、いつもの完璧な美貌を取り繕っていた。

 だが、その瞳の奥の光は不安げに揺れていて。




「……俺から言ったんだ、断るわけがないだろ」


 俺は水瀬の顔を見返しながら頷いた。


「……そう、ありがと」


 水瀬はほっと息をついて、小さな笑顔を見せた。

 その笑顔を見られるだけで、頷いた価値があるような可愛いそれで──


 だが、次の瞬間には、水瀬はきりっといつもの真面目そうな顔つきをつくった。


「でも、君に貸しをつくりっぱなしにするつもりもないから」

「貸しって」

「貸しは貸しよ。君には頼らせてほしいけど……でも、頼りっぱなしってのはフェアじゃないわ。だから、私にも何かさせて」

「何かって言われても……」

「君、私に何かしてほしいことはないの?」


 水瀬が腰をやや折り曲げて、上目遣いで覗き込んでくる。


 ぱっちりとした目。

 頬は赤く酔っ払っているようにも見えるが、泥酔している様子もない。本気で言っているようだ。


 だが、そう言われても、水瀬にしてほしいことなんて──



「……君、変なこと考えてない?」

「考えてねぇよ!」



 酷い偏見だった。

 もちろん、頭にまったく過ぎらなかったかといえば嘘になるが。



「じゃあ、私が勝手に決めてもいい?」


 そこで、水瀬は待ちかねたようにそう言ってのけた。

 あるいは、最初からそれを用意していたのかもしれない。



 水瀬はクールな微笑とともにそれを宣言する。




「──私が君に『おかえり』をあげる。それで、どう?」




 月夜のもと、水瀬はこちらを真正面から見つめていた。


 何かを決意したような顔。

 頬は赤く、「頼らせてほしい」と口にした先ほど以上に瞳のなかで光が揺れている。

 それは、まるで人生の一大決心をしているかのようで──



「……それって毎日味噌汁つくってくれる的な……?」

「そんなわけないでしょ、何言ってるのよ」



 途端に、半目で呆れられた。

 その表情は、ふざけないでと語っている。

 違ぇのかよ。絶対そう思ったのに。というか、それ以外の解釈があれば教えてほしい。



「……君、最初に介抱したときにそう騒いでたじゃない。だから、君が一番私にしてほしいこと思ったんだけど……違うの?」



 俺、本当何したんだろうなぁ……。


 最初に介抱してもらったときに時間を巻き戻したい。

 いったい、どんな醜態を晒せばこんな風に言われるのだろうか。



「いや……それ以前に具体的に何をするつもりなんだ? 『おかえり』をあげるって言われてもピンとこないんだけど」

「それ、どっちかといえば私のセリフなんだけど。最初に言ったの、君よ」


 水瀬は呆れつつも、顎に綺麗な指を添えて思案するような表情とともに言う。


「でも、そうよね。私も具体的に考えてみたんだけど、なかなかわからなかったわ。だから、君の『おかえり』がほしいという要望を分解して精査してみたの。あの泥酔したときに色々口にしていたことも考慮してね。君が本当に何を望んでるか知りたくて」

「は?」

「その結果、君が望んでいることはだいたいわかったわ。まず帰ったときにあたたかいご飯が用意してほしい。あと、夕食を誰かと一緒に食べたいとか──」

「待て待て待て! 俺、そんなことまで口走ってたのか?」

「ううん? でも、君が言ってることを解剖すればだいたいわかるわよ」

「…………」


 恥っっっっっっっっっっ!

 まさか、好きな女にこんなふうに自分の心を丸裸にされるとか!

 これ、なんて拷問だよ!


「だから、私がそれを提供してあげるわ」

「え?」

「結果的には、家事代行サービス……になるのかしら。君と私の時間が合うときに、夕食をつくるから一緒に食べましょ。あとは……そうね、君さえよかったら休日の朝と夕食とか」

「ちょ、ちょっと待て! 俺はありがたいけど、水瀬の負担が増えるんじゃないのか?」


 そもそも、水瀬は頑張り過ぎたからこそ倒れたのだ。

 水瀬の提案は同じ道を辿らないだろうか。

 だからこそ、俺はそう訊ねたのだが、水瀬はゆっくりと首を振る。

 

「それなら心配ないわ。どっちにしろ、ご飯はつくるし……その代わりに、君には幾つかお願いするかも。たとえば、愛莉を少しの時間を見てほしいとか」

「それぐらいなら、全然いいけど……」

「そう? じゃあ、それで来週からどうかしら?」


 言って、水瀬は手を差し出してくる。

 俺が躊躇いつつもその手を見つめていると、水瀬は可愛らしく小首をかしげる。


 だが、そう簡単にその手が取れるわけがない。


 だって、高校時代から憧れている女の子が、俺に「おかえり」をあげると言ってくれていて。

 ご飯をつくってくれて、一緒に食べようと言ってくれていて。



 それは、終電のなか今の生活に嫌気がさしかかっていたあの瞬間に望んだ光景そのものだったから。




 だけれど、俺が断る理由も同時になかった。



「……ああ、わかったよ。これからよろしくな」

「うん、よろしく」


 俺が水瀬の綺麗な手を取ると、彼女はクールな微笑を浮かべる。



 他の人がみたら、俺たちの関係をどう思うだろうか。

 ややこしいと、あるいは素直ではないと思うだろうか。

 だが、そのどれもが当たっていると俺は思う。


 子供の頃は、周囲の空気を読みながら生きてきた。

 学校のカーストを意識しながら、不文律に縛られながら生きてきた。


 だけど、結局のところ、それは大人の世界にも存在する。


 派閥だとか、上下関係だとか、会社間の昔からの繋がりなどで、忖度を強いられることが多々出てくる。そのたびに、明確な断言を避け、曖昧な言い回しを多用し、本音を隠し、建前に縛られるようになる。


 だから、やはり俺たちはこういう契約でしか繋がることができない。


 素直じゃないから、その想いを剥き出しにして本音を口にすることができないから。



 だけど、これでいい。

 今はこれでいい。

 衝動的で燃え上がるような恋愛は、社会に疲れた大人には厳しいものだから。



 こうして、俺と水瀬の不思議な契約は成立したのだった。








 ──と。


「……最後に教えて」


 握手が終わったあと。

 水瀬は顔を覗き込んできながら、不思議そうに問いかけてくる。


「なんで、君は私を助けてくれるの」

「……それ、は」

「お隣さんなら、誰でも君はここまでしてくれるの?」


 その答えは果たしていったい何を求めているのか。


 じぃと、視線で圧力を強めてくる水瀬。

 これは、水瀬に以前から聞かれたことでもあった。



 

 しかし、それを直接的に口にするわけにもいかない。

 だから俺は思案し、最初に頭に出てきた言葉を素直に口にする。



「……まあ、水瀬が頑張ってるからだよ。誰でもってわけじゃない」




「──ただ、頑張ってるやつには報われてほしいんだ。だから、応援したいんだよ」




 高校の頃から、水瀬はずっと頑張っていた。


 陸上部のエースで、放課後、テスト期間で誰もが帰宅するなかでもずっと一人で頑張っていた。

 それでも、テストの点は常に上位で。

 そして、今は愛莉と一緒に頑張って生活している。



 そんな彼女が心挫けて倒れそうになるのが、俺はきっと嫌なのだ。


 俺は褒められるような人間ではないし、努力といえるようなことは何もしていない。

 誇れることだって何もしていない。


 だからこそ、頑張ってるやつには報われてほしくて。


 簡単に言えば、それ故に俺は水瀬に憧れているのだ。

 俺にはきっと手が届かないものを、彼女は持っているから。

 


「──────」



 一方で、水瀬は何故か大きく目を見開いていた。

 ついで、彼女は顔だけではなく耳の端っこまで真っ赤にしながら、途切れ途切れでしか聞き取れないほどの声量で。



「そ、それって……だって、前に好きな……で……って」

「ん、何かいったか?」

「……ううん、なんにも?」



 そう言うと、水瀬はどこか拗ねたように唇を尖らせ。



「君って意外とひとたらしよね、って思っただけ」

「は? それってどういう──」

「教えない……私だけってのも、なんか癪だし」

 



 言って、彼女は悪戯っ子のように笑みをこぼし。




「──だから、内緒よ」




 水瀬は口元に指を添えながら、いつもの完璧な笑顔を浮かべたのだった。





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2話連続更新です。

次回はエピローグです。

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