第31話
「……やっぱり昔から思ってたんだけどさ、水瀬って案外と抜けてるところあるよな」
「………………は?」
俺がそう口にすると、水瀬は怪訝そうに眉をひそめた。
なに? 急にどうしたの? とでも言いたげだ。
あまりにも突拍子もないことを言ってしまったからだろうか。
だが──俺の言葉選びは悪かったものの、間違っていることを言ったとは思わなかった。
「……だって、そうだろ。愛莉の母親になろうとすることは……いいと思う。でもさ、誰にも迷惑かけないように無理だろ」
「無理って……でも、そうしないと愛莉に……それに、世の中にはそういう人だっていっぱいいるのに──」
「でも、まだ一年なんだぞ」
「え」
水瀬は目を見開く。
だけど、そうなのだ。
まだ一年。水瀬が愛莉を引き取ってから一年。水瀬が愛莉の母親になろうと決意してからは、もっと短いかもしれない。
たったそれだけの年月しか、まだ経っていないのだ。
「俺は年齢的には親になってもおかしくない年齢だけど……でも、明日いきなり親になれって言われたって何も想像できない。自分が立派にそうなれている姿なんて、まったく想像できねぇよ。だけど、それってそういうものだろ?」
たとえば、十八歳を超えると大人になるのか。
たとえば、就職したその時点で社会人なのか。
たとえば、子供が生まれたその瞬間に親になるのか。
定義上は、確かにその区分に入るのかもしれない。
でも、真にそうなれているかは別の話だ。
子供が生まれたその翌日からいきなり『親』になれるやつなんて、いるはずもない。
「俺はさ……親とかにはさ、『なる』ものじゃなくて『なっていく』ものなんだと思う」
「なっていく、もの……」
「いきなり『なれる』ものじゃなくて、色々経験しながら『なっていく』もの。時には助けてもらいながら徐々に慣れていくもの、じゃないかって」
十八歳を超えてもいきなり大人になるわけじゃなくて、経験していくうちに『大人』になっていく。
社会人だって、親だって、そういうものだと思う。
現に、春野だって、俺の母親だってそう言ってた。
──堀越さんにばっちり鍛えてもらいましたから! もう新入社員の頃の私じゃありません!
──ばっちりこなしておきますね!
──あー、まああの時期は辛かったからねぇ。
──美智子のおかげで、色々と徐々に慣れることができてよかったわ。いきなり全部は辛いし。
「だから、その過程で迷惑かけたっておかしくはない。努力不足ってことはないんだ。だって、それが当たり前だろ」
愛莉と同じだ。
あのときは子供だから迷惑をかけても当然だと言ったが、今回も同じだと思う。
親になりたてなんて、それこそ子供と同じだ。
もちろん、最初から上手くできるひとはいるだろう。
たった一人で子育てもしながら、仕事もこなしながら、立派に生活できるひとはいるだろう。
しかし、だからといって、誰かに頼りながら、手を貸してもらいながら、生活しているひとが駄目なわけじゃない。
努力不足というわけじゃない。
誰にだって初めてがある。
それを一人で乗り越えられないひとを、俺は否定しない。
否定、できるわけがない。
親ではない俺は、どちらも等しく立派なものだと思うから。
「……だから、私が君に迷惑かけてもいいって……そう言うの?」
ぽつり、と水瀬は呟く。
彼女が顔をあげると、そこには怒りとすら思える感情が露わになっていた。
「そんなの、欺瞞でしょ。迷惑……かけてもいい、なんて……私はそんな風に甘えるのは──」
「甘え、なんかじゃないだろ。今の水瀬見て、そんなこと言うやつなんているわけがないだろ。こんなに頑張ってるのに」
「そんなの──わかんないでしょ!」
「わかるよ、少なくとも俺はずっと見てきたから」
十年間の空白はあるかもしれない。
でも、俺は知ってる。
彼女がまだ幼く弱かった高校時代と、そして大人で強くなった今を。
「水瀬は……高校時代はクラスの中心でいつもお洒落だったよな。制服の着崩しとか、バッグとか、そういうのも含めて。でも、今は……どっちかといえば機能性重視だよな。それも母親になるため、なんだろ」
汚れてもいいようにか、いつもシンプルなTシャツやジーンズで。
何かあったときのためにか、いつも無骨な大きいリュックを背負って。
動きやすいようにか、ヒールがない靴ばかりで。
それは、きっと愛莉に合わせるためだ。
「俺なんかが何言ってんだって話だけど、でも料理だって……最初に介抱してもらったときに食べたやつ、すごい美味かった。高校の頃、あんなに不器用だったのにな」
相当な努力をしたはずだ。
それも、母親になるため──愛莉のため。
そんなに、頑張ってるやつに努力不足だと言えるやつがいるわけがない。
「っ」
水瀬は目を小さく見開いていた。
どんな感情を抱いているかはわからない。
でも、決して悪いものではないとそう信じて。
俺は言葉を重ねる。
「それに……お隣さんの俺から見ても、水瀬がすごい頑張ってるのがわかるんだ。一番そばで見てるやつが……愛莉が、わかってないわけがないだろ」
そう言って、俺は愛莉から渡されていたそれを取り出す。
本当は今日になったその瞬間に渡して、一番にお祝いしたかったらしい。
でも、愛莉は小学校に行かなければいけない。
そのため、愛莉から水瀬が起きたときに渡してほしいと貰っていたのだ。
「水瀬、今日が誕生日なんだってな。これ、愛莉から。誕生日おめでとう」
「………………え」
いつか愛莉と出かけたとき、水瀬の誕生日がそろそろだと言っていた。
それが、今日だったのだ。
俺が差し出したものを見て、水瀬の目が更に大きく見開かれる。
だが、それも当然だった。
愛莉から水瀬へのプレゼントは、一枚の絵だった。
小学三年生にしてはかなり上手いんじゃないだろうか。
もしかしたら、将来は絵に関連する職業に就くのかもしれない。
そう思わせるほど、綺麗な情景が描かれていた。
しかし、水瀬が驚いたのは愛莉からのプレゼントでもなく、ましてや絵の上手さにでもないだろう。
その一枚の絵に描かれていたのは、水瀬が愛莉に必死に隠していたはずの姿だった。
おそらく深夜。
愛莉が寝静まった頃。
愛莉を起こさないようにか僅かな光源のもと、水瀬がキッチンに向かって必死に料理する光景が描かれていた。
構図としては、こっそりと扉の隙間から料理をする水瀬を描いたもの。
絵の中の水瀬はこちらに背中を向けて表情はわからない。でも、その手元には大量の失敗作が山積みになっていた。
俺はこの光景を直接目撃したわけじゃない。
だけど、容易にこの光景が想像できた。
水瀬は高校時代から料理が得意ではなかった。
そんななか、水瀬は愛莉を引き取った。
水瀬のことだ。
きっと強くあろうとして、料理上手の母親であろうとして、こっそりと夜な夜な練習していたのだろう。
愛莉は偶然それを目撃してしまったのだ。
愛莉はそんな水瀬の背中を見て、どう思ったのか。
なんでもできる憧れの彩ちゃんのそんな不器用な一面を見て、どう思ったのか。
その想いは多くは語らずも、絵に添えられた愛莉からのメッセージだけで十分伝わった。
『彩ちゃんの料理も彩ちゃんも大好きだよ』
『彩ちゃん、いつもありがとう』
「──────っ」
水瀬は息を呑んだ。
手で口元を押さえ、その綺麗な瞳に大粒の銀色の雫がたまっていく。
唇が微かに震え、瞼がしぱしぱと瞬かれる。
「……悪い。俺、お手洗い借りるな」
そこで、俺は立ち上がりつつ水瀬に背中を向けた。
ここから先は、俺には見られなくないだろう。仮に逆の立場だとしたら、そう思うだろうから。
だが、
「……待って」
震える声とともに、不意に俺の服の袖が掴まれる。
俺は膝を床につけたまま、立ち上がるのを中断した。
ついで、俺の背中に何かが押し付けられる。
背中越しに服が濡れていくのを感じて。
「……ちょっとだけ……ほんのちょっとだけ、こうさせて」
「……それで、きっと元に戻れるから」
俺は何も返さなかった。
何もしないまま、その状態のままでいること自体が返答だった。
そして、これこそが水瀬が自分から頼ってきた初めての瞬間だった。
俺は偉そうに色々と言ってしまったが、結局のところこれが一番なのだろう。
愛莉は水瀬を想って遠慮して。
水瀬は愛莉を想って気負って。
そして、二人は誰かに迷惑をかけないように頑張って。
本当に──
──お前らは似たもの親子だよ。
俺は内心で静かに呟いたのだった。
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次回は、12/18(日) 19:00更新予定です。
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