第30話



 夢を見ていた。

 幼い頃の──私が今よりもずっとずっと弱かった頃の夢だ。



 幼い頃、私は引っ込み思案な性格だったらしい。

 いつも姉の後についていって、決して離れなかったとか。

 放課後には図書館で借りてきた本を読み続けるような本の虫だったらしい。


 今となっては姉にべったりたったことは信じられないが、だけれど、そんな今でも覚えている思い出がある。


 そう。

 あれは幼い頃に風邪をひいたとき。


 冬の乾燥した時期だったと思う。

 小学校の図書館で本を読んでいたのだが、ストーブは真ん中に一つあるだけだった。

 当然、その周りには活発な子たちが占領していた。

 だから、私の特等席は寒いものの、大きな観葉植物に隠れた静かな端っこのスペースだった。


 だが、その日はひときわ寒かった。


 それでも、物語が面白くて夢中になってページを捲ってしまった。人気の小説でやっと自分の番が回ってきたというのもあったのだと思う。

 結果的に、私は風邪を引いてしまった。


 それから、私は家でひとりぼっちで数日ほど寝込むことになった。


 姉はそんな私の頭を優しい手つきで撫でながら、こう言ってくれたのははっきりと覚えている。



「何かあったら頼っていいんだからね」


「お姉ちゃんが学校からすぐに駆けつけるから。ね、彩奈?」



 当時、母親はシングルマザーとして働いていて、姉は携帯電話を持たされていた。

 だから、電話をかけてもいいよと言ってくれていたのだろう。


 私はそんな姉の言葉が嬉しくて、そしてすぐに誰かに頼れる状況に安心して。


 誰かの温もりが欲しくて、急に甘えたくなって。



「……ねぇ、もう少しだけ頭撫でて」



 そうしたら眠れるから。

 私は夢だと自覚して、姉にそう声をかける。


 夢だとはわかっていた。


 だって、こんな幸せな光景はもう私にはないから。

 私に訪れるわけがないから。


 だから、せめて夢のなかだけでは、夢のなかぐらいは良いだろうとそうお願いして──



 だが。




 





 …………え?



 そんなわけがない。

 だって、これは夢だ。そのはずだ。


 なら、誰が頭を撫でてくれているの?


 私は夢から覚醒すると、ゆっくりと瞼を開き。




「…………え?」




 まず視界に入ってきたのは、見慣れた私と愛莉の寝室だった。


 朝の日差しが煌めき、部屋のなかに差し込んできている。

 私はどうやら布団のなかに包まっているらしかった。


 最後の記憶はキッチンなので、何故布団のなかにいるのか状況が掴めないが……それはいい。そこまでいい。



 



 そこで、すべて理解し、私は急激な体温の上昇を感じながら、おそるおそる声を震わせる。



「……もしかして、私、君に頭を撫でてって言った…………?」



 気まずそうに目を逸らしながら、こくりと頷く堀越くん。

 

 ……今すぐこの世から消えたかった。






◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇




「…………」

「…………」


 水瀬の家に来るのは、久々だった。

 俺が酔っ払って彼女に介抱されて以来だろうか。


 そう考えると、どこか感慨深い。


 あれから数ヶ月。

 水瀬とは色んなことがあった。

 家にあげたり、花火大会に行ったり、同窓会に行ったり、夜の学校に行ったり。その過程で、水瀬のことは少しずつ理解できるようになっていたと思うし、拒絶される前までは距離も縮まっていたと思う。


 だが、しかし。


 そうであっても、水瀬に「頭撫でて」と寂しげな声で言われて、言葉通り撫でてしまった俺に果たして非はあるのだろうか。



 まあ、この場合は間柄は特に関係ないかもしれないが。



「……………………」



 水瀬はというと、俺から距離を取るように対面の壁に背を預け、ちょこんと体育座りをしていた。

 布団を持ち上げて顔の半分ほど覆い隠し、じとーっと可愛らしく目を半分こにしながらこちらを睨んできていた。


 その頬は、言い訳できないほど真っ赤。


 水瀬には、既に「俺が彼女の頭を撫でた」理由を説明していた。

 今は、彼女の第一声を待っているという状況。

 さすがに、俺に非はないと思いたいのだが。


 そうして、俺が内心どきどきしながら待っていると、水瀬はそっぽを向きながらぽつりと。



「…………い、今のは忘れて」

「え」

「だ、だから、さっきのは忘れて。ちょっと疲れてたというか……その、なんというか……なんでもないから」

「いや、『頭撫でて』っていきなり言っておいて、なんでもないってことはないだろ」

「なんでもないの!」


 悪い? とでも言いたげに、睨んでくる水瀬。

 これ以上、問い質しても答えてくれることはなさそうだ。


「……でも、なんで堀越くんは私の家に……? 君が看病……してくれてたことは、何となくわかるんだけど……え、あれ……朝ってことは、仕事は……?」

「休んだよ。お隣さんが倒れてるって知って、仕事に行くわけにもいかないだろ」

「え…………」


 みるみるうちに顔から血の気を引かせ、真っ青になる水瀬。

 ついで、彼女はがばっと起き上がると。


「ごめん! 君に迷惑かけてるって知らなくて──すぐに起きるから!」

「待て待て待て! つい数時間前に倒れたばかりなんだぞ! まず安静が先だろ!」

「でも──」

「別に仕事はいいんだよ。有給も溜まってて、上司から使えって言われてたしな」


 最近は、働き改革だとかで有給の消化数はかなり厳しくチェックされるようになっている。


 とはいえ、有給は使えと言うものの、仕事は以前と同様にこなせというのだから無茶だと思う。

 同じ仕事量で、有給なんて取ったら、仕事が回らなくなるのは当然のことである。


 うちのチームでは、春野が成長してきて請け負える仕事の範囲が増えたのが、幸運だった。

 おかげで、俺が休んでも仕事が回るようになった。

 といっても、さすがに、あとで春野には何かお礼しないとな……。



 だが、水瀬は気が休まらないのかほぞを噛む。


「だけど……そうはいっても、このまま君に迷惑かけ続けるのは……」

「それを言うなら、もう手遅れだろ。もう仕事休んでるんだから。なら、このまま看病させてくれ」

「……そう、よね……ほんとに、ごめん」


 気に病んだように、項垂れる水瀬。


 どこが嫌味めいた言い方になってしまったが、仕方ないと思う。

 水瀬は頑固だ。

 ここまで言わないと、俺を押し退けてすぐにでも仕事に行ってもおかしくない。そんなことになれば、今度こそもっと深刻な状態になる可能性すらある。



「……でも、なんで君、私が倒れたって知れたの……?」


 水瀬は布団に視線を落としたまま、ほとんど消え入りそうな声を発した。


 気落ちしつつも、その疑問だけはやはり気になったのか。

 されど、俺の回答は至って簡単なものだ。


「愛莉が教えてくれたんだよ」



 そう。

 昨日の夜、愛莉が俺の家に突撃してきたのだ。



 ──堀越さん! 彩ちゃんが大変なの!

 ──堀越さんになら、頼ってもいい……ですよね?



 愛莉は俺が以前に花火大会で言ったことを覚えていてくれたんだろう。



 ──愛莉はもっと大人を頼っていいんだよ。

 ──それでも、誰かに迷惑かけるのが気になるなら

 ──俺に言えばいいさ。隣だから声をかけやすいだろ。


 だからこそ、愛莉は俺に声をかけてくれて、俺は水瀬が倒れたことをいち早く知ることができたわけだった。


 

 水瀬は尚も顔を俯かせたまま。


「……そう、愛莉が……あれ? 今、愛莉は!? あ、朝ごはんっ! それに学校も──」

「そのあたりは俺がやっておいたよ。あんまり上手くできなかったけどな」

「っ……ごめん……なさい。ほんとに……なにもかも……迷惑かけて……」


 ぎゅっ、と水瀬が布団を握りしめる。

 重く、深い、責任という名の泥に押し潰されそうな表情。

 悔恨に満ちたように唇は噛まれ、視線は布団に落とされたまま。

 


 それは、俺には想像できないような何かを背負っているからか。

 だからこそ、俺は訊ねずにはいられなかった。


「……なんで、水瀬は迷惑かけたくないんだ?」

「……なんでって……」


 何を当たり前のことを。

 水瀬はそう言いたげな視線で訴えかけ、口を半分ほど開きかけ。


 しかし、その綺麗な唇がすぐさま言葉を紡ぐことはなかった。


 しばしの間のあと、水瀬は自嘲めいた薄い笑みとともに声を漏らす。



「……私、母親になりたかったの」

「母親……?」

「そう。愛莉に心配かけない、頼りになる、強い母親。愛莉は……今は明るく振る舞ってるけど、お姉ちゃんがいなくなったとき……ずっと自分を責めて、何もできなかったの。自分が悪い子だから、嫌だから、お姉ちゃんは消えたんじゃないかって」

「それは……」


 そんなわけがない。


 水瀬の姉と直接話したことがあるわけじゃないが、水瀬や愛莉の話を聞く限りではそんな人たちじゃないのは、部外者の俺でもわかっていた。



「あの頃の愛莉は酷かったわ。自分が寝ている間にみんないなくなるんじゃないかと思いこんでいて、夜も寝られなくて……私と一緒じゃないと、どこにも行こうとしなかったもの」



 ──ねぇ、彩ちゃん。

 ──彩ちゃんはいなくならないよね。


 愛莉は繰り返し、そう確認してきたらしい。


 

「……だから、私は母親になるって決めたの。愛莉が安心してくれる……お姉ちゃんみたいな母親に。愛莉があの頃みたいに元気になれるように、遠慮せずになんでも頼ってくれるように」


 水瀬は具体的なエピソードを話さなかったが、しかし、愛莉のどの行動を指しているかは容易に想像できた。



 ──う、ううん。彩ちゃん忙しいもんね

 ──ごめんね、愛莉わがまま言って。彩ちゃんお仕事頑張って!



 愛莉は水瀬に迷惑かけるかもしれないと、ずっと遠慮していて。だが、水瀬はその愛莉の遠慮があるからこそ、元通りにはなれていないと判断したのだろう。


「……だから、水瀬はずっと迷惑をかけたくないって言ってたのか?」

「……うん。でも、こんなことになっちゃって……世の中にはこれぐらいやってる母親なんてたくさんいるのに……ほんと駄目ね」


 本当に迷惑をかけたら、他人を頼ったら、母親になれないのかは俺にはわからない。


 だが、それは水瀬なりの覚悟だったのだろう。


 愛莉が心配しないように、頼ってくれるように、強くあろうとした。だから、水瀬が『完璧』であろうとすることで愛莉に大丈夫だと伝えようとしたのだろう。




 今の世のなか、SNSなどで情報が溢れている。

 そのせいか、どうしても他人と比較しがちだ。


 有名大学を卒業し、誰もが知る大企業で働きながら華やかな生活を送る人。起業して莫大な財産とともにパーティなどを渡り歩く人。そして、何人もの子供を子育てしながらバリバリ働いているシングルマザー。


 SNSでは凡人よりも、超人が目立ってしまう。


 だからこそ、否が応でも自分と比較し、努力が足りていないと落ち込んでしまう。



 本当は、環境のせいかもしれないのに。

 本当は、ただの運かもしれないのに。

 あるいは本当は、真実ですらないのかもしれないのに。

 


 すべて、妄想にすら思えるただの推測でしかない。

 だけど、水瀬は「他の母親はできているのだから」と言った。

 ならば、その超人たちと比較して、自分を追い詰めていてもおかしくはない。


 それに、



 ──だって、愛莉を不安にしたら駄目だから。

 ──あの子、しっかりしてるから。



 水瀬が『母親』を気負っていたことは、これまでに幾つかあった。


 だとするならば、俺は水瀬に言わなきゃいけない。



 俺は部外者だ。

 それでも、高校時代の同級生で。

 今は、お隣さんで。


 



 俺は水瀬を真っ直ぐと見つめながら、真摯に言葉を紡ぐ。


「……やっぱり昔から思ってたんだけどさ」








「──水瀬って案外と抜けてるところあるよな」

「………………は?」




 一触即発の空気になった。










 ……ような気がした。







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次回は、12/14(水) 19:00更新予定です。


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