第29話
大人になってから、今まで「当たり前」のように会えていたひとに、会えないことが増えてきた気がする。
たとえば、転勤。
たとえば、擦れ違いによる不和。
そして、たとえば他界。
原因は大なり小なりあれど、俺がかつて信じていた以上に「当たり前」は当たり前じゃない。ちょっとしたことで、それは容易にカタチを崩し、瞬きする間もなく跡形もなく消えてしまう。
そんな泡沫の夢のようなものが、俺が思う「当たり前」だ。
だから。
だから、祖母が倒れたと知ったとき、水瀬が取り乱したことはそれこそ「当たり前」だったと思う。
「……悪いな、春野」
『いえいえ! 元々、今日は堀越さん有給だったんで! 堀越さんは気にしないでください!』
病院。
真っ白い壁紙や床が広がり、消毒液のような独特な匂いに包まれるなか、俺は廊下の端っこで会社からの電話を受けていた。
有給といえど、会社支給のスマホを手放せないのは悲しい性だ。
いつ機器の障害が起きるか、いつ顧客から電話がかかってくるか不安で、外出時にどうしても持ち歩いてしまう。
金も貰えないのに、我ながら本当に馬鹿だと思う。
そして案の定、顧客から電話かかってきたせいで、俺は対応する必要がでてきてしまったのだが。
今はとある事情でそれができなかった。
それゆえに、俺は電話で後輩の同僚・春野にお願いしていたのだが。
春野は電話越しでもはっきりとわかるほど活発な声で続ける。
『それに、堀越さんにばっちり鍛えてもらいましたから! もう新入社員の頃の私じゃありません! ばっちりこなしておきますね!』
「ああ、ありがとな」
俺は春野が新入社員だった頃の指導員だった。
だから、彼女が頼もしくなってきたことを嬉しく思う。
とはいえ、元々地頭がよかったやつだ。誰が指導員であろうが、彼女は頼もしくなっていただろう。
なんなら、俺の指導がいまいちで、彼女の能力に枷をかけている可能性すらある。
だけれど、春野はそう思っていない様子で、俺にずっと感謝してくれている。なんともありがたい話だ。
俺は春野との通話を終えると、後ろを振り返る。
病院内に設置された小さなベンチ。
そこにちょこんと腰掛けていたのは──
「……大丈夫か、愛莉?」
「はい、大丈夫です。でも、おばあちゃんが……」
少し離れた病室を眺め、愛莉が消え入るような声で漏らす。
こんなとき、どんな態度を取れば正解なのかわからなくなる。
それでも、俺はこれが正解だと信じて愛莉の目線まで腰を落としながら優しい声音で喋りかける。
「……きっと大丈夫だ。お医者さんもそう言ってただろ?」
「そう、ですね」
俺の言葉に、愛莉が怖々と笑顔をつくる。
固いが、どこかほっとしたような笑顔だ。
これで少しでも気休めになればいいのだが。
と。
がらっ、と水瀬が廊下の奥の病室から出てきた。
医者と何かを小声で喋っている。
俺から見て、水瀬は取り繕うのが異常に上手い。
それでも、医者と話している最中に見せる、彼女の安堵したような笑顔は素の感情のように見えた。
ということは、やはり医者の言葉通り大事には至っていないのだろう。
水瀬はこちらに静かに駆け寄ってくると、小さく微笑を見せる。
「大丈夫、だって。ちょっと疲れてただけみたい」
「彩ちゃん、ほんと……?」
「うん、大丈夫みたいよ。今、会っても大丈夫だって。ほら、行きましょ」
「うん!」
愛莉は笑顔で水瀬の祖母がいる病室へ走っていく。
水瀬はその背中を見送った後、こちらを振り向いてぽつりと。
「……堀越くん、ごめん。君には頼らないって言ったばかりなのに……また付き合わせちゃって」
「いや、俺の方こそ勝手についてきて悪かったな」
「ううん、愛莉見ててくれて助かったわ。私一人じゃ、ここまで辿り着けなかったかもしれないし」
茶化したように笑ってみせる水瀬。
だが、それはあながち間違いでもなかった。
彼女の祖母が倒れたと聞いたとき、水瀬は顔を青ざめさせてわかりやすくパニックなっていたからだ。
だからこそ、俺は病院までのタクシーを手配し、その流れでここまでついてきてしまっていた。拒絶されたとはいえ、そんな彼女たちを放って見過ごせるわけもない。
「……でも、本当に大丈夫なのか?」
「うん、大丈夫みたい。少しは入院して静観した方がいいって言われたけど、問題はないみたい」
愛莉の前だから、安心させる言葉を口にしたのではないか。
そう思って訊いてみたが、水瀬の祖母の体調は問題ないようだった。
が。
「っ」
ぶるっ、と水瀬のスマホがメッセージの着信を伝えているのか連続で震える。
あまり芳しくない内容であったらしい。
水瀬は珍しく顔をしかめていた。
俺が不思議そうに彼女を見ていると、水瀬は説明してくれる。
「……最近、ちょっと学校の方も忙しくて。ほら、そろそろ期末テストの時期だから」
「あー……」
「だから、この間、学校にパソコン取りに行ってたんだけどね。他の仕事を片付けて、余裕をつくるために」
なるほど。
だから、あのとき休日の夜にもかかわらず取りに行っていたらしい。
「水瀬は大丈夫か?」
「うん、大丈夫。いつもありがと。でも、忙しいのはいつものことだから。今日のことは……また後でお礼させて。迷惑かけてばかりだし」
水瀬は笑顔をつくる。
水瀬は取り繕うのが上手い。
それでも、今だけはどこかその笑顔が疲れているように見えた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「……ちゃん」
「…………」
「……彩ちゃん、大丈夫?」
「……ん、え?」
私が顔をあげると、愛莉がテーブルの対面で眉をへにょっと曲げていた。
不安そうな顔つき。
私は慌てて笑顔をつくってみせる。
「だ、大丈夫よ。どうしたの? 私、ちょっとぼーっとしてた?」
「うん。でも、ちょっとじゃなくて……もう30分だよ?」
「え」
指摘されて壁がけ時計を見る。
愛莉の言葉通り、このテーブルについてから30分程度が経過していた。
もうとっくに夕飯の時間だ。
「ご、ごめんね。今からご飯用意するから、ちょっと待ってて」
笑顔とともに謝って、パタパタとキッチンへと向かう。
そうして愛莉から離れてから。
「……何やってんのよ、私」
己への情けなさに、私は独りごちた。
祖母が倒れてから、一週間が経過していた。
祖母は退院して自宅に戻っている。
だが、もう高齢だ。お医者さんが大丈夫と言えど、ここ数日はせめて様子を見守っていた方がいいだろうと仕事が終わったあと、出来る限り通っている。
それに加えて、期末テストの準備が重なったのが多忙の原因だ。
もちろん、だからといって普段の家事がなくなるわけではない。
料理や掃除から、愛莉の送り迎え、小学校から親へのお願いなどが消えるわけではない。
私が選んだことだ。
私がやらなければいけないことだ。
後悔はない。迷う余地はない。
肉体的な疲労については高校の陸上部の頃が遥かに辛かった。
それに、この程度、世の「母親」はみんなやっていることだ。
同窓会で話した友達にはとっくに母親になっている子だっていた。その友達は介護と子育てを両立していた。なにも、私の境遇がひときわ特別ってわけではない。
だから、
「……まだ大丈夫。私ならできる」
自己暗示をかけるように呟き、気合い入れるように頬を両手で叩く。
それで、いつも通りまた動けるはずだった。
だが、
…………あれ?
がくっと何故か逆に膝から力が抜けて、私は綺麗に崩れ落ちた。
起きあがろうとしても、足や腕に力が入らない。
ゆるゆると手を顔の前に持ってきて額に添えると、びっくりするぐらい熱かった。
加えて、最悪なことに意識も朦朧としてくる。
……不味い。
これじゃあ明日の仕事に支障をきたす。早く起きないと。いやその前に愛莉にご飯をつくってあげないとお腹空かせちゃう、それからおばあちゃんのところにも行かないともう良いって言ってるけど心配でそういえば田中先生から言われたテストの改稿ってもうやったっけそういえば明日は可燃ごみの日だ愛莉は明日はどこか行きたいって言ってたもうこんな時間だ何してんの私この程度なんでもないでしょ起きないと起きないと起きないと起きろ起きろ起きろ早く早く早く────。
だけど。
意思に反して、意識は薄くなっていくばかりで。
「彩ちゃん、明日のお誕…………え、彩ちゃん? 大丈夫、彩ちゃん!?」
愛莉のその声を最後に、私は意識を手放してしまった。
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次回は、12/11(日) 19:00更新予定です。
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