第27話
水瀬が愛莉を引き取った。
彼女から以前にそう聞いたとき、その場では口にはしなかったが、同時に内心では少しだけこうも思っていた。
──水瀬の親はどうしているんだろうか、と。
だが、水瀬の言葉を聞く限りでは。
「……高校のときには、もう」
「うん」
水瀬は小さく頷いた。
「うちの両親は離婚してて、物心がついたときには母親だけ……だったんだけど、元々病弱で。高校の頃から入退院を繰り返してたわ」
それが高校三年生のある日、急激に悪化したの。
水瀬は無感情にそう語った。
「いつか、その日は来ると思ってた。姉とも何度も話してたの。でも、いざその日が来たら身体が動かなくて、何も、出来なくて……病院にも、いけなくて……ずっと、ここで一人で泣いてたの。で……君に見つかった」
「俺、に……?」
「うん、君に」
──大丈夫か、水瀬。
誰も通らない、ひっそりとして暗い校舎の隅っこの階段。
そんな場所で、当時、俺は彼女に手を差し伸べながらそんな風に声をかけたらしい。
「……びっくり、したわ。この場は誰にも見つからないと思ってたから。職員室の近くだし……職員室と屋上を繋ぐ階段でしょ。生徒は、誰も使わないはずだから」
「……多分、だから、だろうな。俺に見つかったのは」
当時の俺は、学校のなかで一人で落ち着けるような場所を探したのは覚えている。
昼休みには、俺の机が他の女子たちに占領されてしまうことが多かったからだ。その女子は水瀬や花森とは違うグループのカースト上位で、俺の前の席だったのだ。
そのせいで、俺の周辺にはその女子の友達が集まってきて、必然と居づらくなったのを未だに覚えている。
だから、俺はその一環でこの場所にやってきていたのだろう。
「でも、君のおかげで……あのとき、私は立てたの」
水瀬は黒髪を靡かせながらこちらを振り返って、小さく笑ってみせた。
「心が折れかけてたけど……君に声をかけてもらって、立たせてもらって、なんとか病院に行けた。それが、私が君を覚えていた……こっそりと君を見るようになった、理由」
──だって、私、高校のとき君のことよく見てたもの。
──でないと、十年ぶりに会ってあんなにすぐ気づかないってば。
何故、水瀬が俺のことなんか覚えていたのか。
ずっと疑問だったが、それがようやく氷解した。
「だから、どこかで君には言わなきゃいけないなって思ってた。高校のときは……なんか恥ずかしくて言えなかったし」
ぱたっ、と水瀬は階段を一段上った。
ついで、髪をなびかせながら振り向く。
月夜が校舎の窓ガラスの向こうに浮かぶなか、水瀬はその光景を背にして言う。
「──あのときは、ありがと。私を助けてくれて。それに……今も。一人になっちゃったけど、君のおかげで何とかやっていけてるわ」
彼女は微笑をつくっていた。
いつもの、一片の弱さも見せない完璧なそれを。
強すぎる、と思った。
昔から、水瀬は完璧で、負けん気があって、一人で生きていけそうなほどしっかりしていて。
今だって、過去の辛い記憶を話していても気丈に振る舞っていて。
……やはり、俺の助けなんて最初から必要ないのだろう。
それぐらい、水瀬彩奈という女は、高校のときから変わらず、手の届かない完璧な偶像なのだから。
「じゃ、帰ろっか」
水瀬は笑顔とともに階段をおりながらそう声をかけ、俺の横を通り過ぎていく。
その振る舞いは、最後まで完璧だった。
そう思っていた。
だが、
「…………え」
「…………え、あれ?」
たった一粒だけ。
たった一筋だけだったけれど、水瀬の左目の目尻から涙がこぼれ落ちた。
「ご、ごめんね。ちょっと、なんか目が痒くって。さっき掻きすぎちゃったかも」
あははと笑いながら、水瀬はハンカチで目元を拭う。
もう涙は出てこない。いつもの完璧な水瀬だ。
じゃあ今度こそ行こっか、と、水瀬は階段をさらに降りていく。
だけど、彼女の背中を見ながら、俺は自分自身を呪わずにはいられなかった。
──馬鹿か、俺は?
水瀬は確かに昔から強くて完璧なやつだ。
少し前の──水瀬と再会する前の俺なら、手放しで同意するだろう。
可愛くて、綺麗で、誰にでも気遣いができて、負けず嫌いで、芯があって、俺が手を差し伸べる意味すら失わせるほどの完成された強さがある。
そう思っていた。
でも、
でも、今は違う。
水瀬と十年ぶりには再会して、彼女と喋って、一緒の時間を過ごして、俺は彼女がただの女の子であることも知っている。
十年前では想像もできなかった彼女を、知っている。
──だって、愛莉を不安にしたら駄目だから。何かの拍子で、お弁当とか……遠慮しちゃうかもしれないし。
引き取った一人娘のことで悩んで。
──愛莉、どこ!?
その一人娘がいなくなったときには、クールな一面なんて殴り捨ててあちこちを走り回って。
──君の隣に座ってもいい? 堀越くんの隣、空いてるし。
どこか悪戯めいた一面もあって。
他にも笑って、泣いて、怒って──そんな普通の女の子だ。
そんな女の子が、「なんでもない」と完璧であろうと笑顔をつくったまま、気丈に振る舞い続けている。
なのに、俺はこのまま見過ごしたままでいいのか?
そんな彼女の一面を知って尚、知らないフリを続けていいのか?
そんなの、いいわけがない。
お隣さんだから?
──いや、違う。
十年前に好きだった女の子だから?
──いや、違う。
十年前も、そして今も、好きな女だからだ。
だから、俺は言う。
これまでどこか一線を引いていた臆病さを殴り捨てて。
遠ざかっていこうとする彼女の腕を掴み、引き留めながら。
「水瀬は一人……なんかじゃないだろ」
「もっと頼ってくれてもいいんだよ、せっかくお隣さんなんだからさ」
声が、震える。
馬鹿みたいに、心臓が脈打つ。
身体中の毛穴から、粘づいた汗が噴き出す。
それでも、水瀬を真っ直ぐと見つめながら、俺は高校の校舎でそう言い切った。
十年前には、頭のなかですら口にできなかったであろう言葉を。
これまでには、意識して出さなかったその感情をこめて。
だけれど、
「ごめんなさい」
水瀬はやんわりと俺の手を引き剥がした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「ごめんなさい」
私は彼の手をやんわりと剥がしながら、そう言った。
堀越くんの言葉は、嬉しかった。
優しいひとだと思った。
だけど、私はその善意を受け取るわけにはいかなかった。
堀越くんは十年前からずっとお人好しだ。
そんな良い人から厚意を貰いっぱなしなんて──迷惑をかけっぱなしなんて、私は自分自身を許せない。
私は強くならなければいけないのに、母親にならないといけないのに。
でも、堀越くんがそばにいるとそれは無理だ。
だって……君がいると、私は君を頼ってしまうから。
ちらりと校舎の窓を一瞥すると、私の顔が映っていた。
当然、その顔色はわからない。
でも、窓に映し出された、そのぼやけた表情でわかってしまう。
ああ、私は酔っ払ってしまっている、と。
だから、私は差し出されたその手を受け取れない。
その手を取ってしまったら、私は弱いままだから。
私は言う。
彼の目を真っ直ぐと見ながら。
「気持ちは嬉しいけど……もう、君には頼れない、かな。ずっと迷惑かけてるし……だから、これまで受けた恩は返すつもりだけど、これからはずっと一人で……ううん、愛莉と一緒に二人三脚でやっていくつもり」
「──今までありがとう。改めてだけど、君には感謝してるわ」
私はいつものように完璧な笑顔をつくって、そう告げた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
そうして数週間も近くの月日が経過した。
だが、俺と水瀬は、あれから一回も喋っていない。
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次回は、11/27(日) 19:00更新予定です。
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