第22話


「では、今日はありがとうございましたー」


 終電が近づいてきた頃。

 俺は春野を駅まで見送っていた。


 ぶんぶんと手を振りながら改札の向こうに消えていく春野。彼女が駅のホームへと向かったのを確認して、俺はに話しかける。


「じゃあ、戻るか。水瀬は……買いたいものは買えたのか?」

「うん、ありがと」


 水瀬はコンビニの袋を掲げてみせた。


 水瀬が春野の見送りにきているのは、アパートの廊下で出会ったときに「コンビニに行こうと思っていた」と言っていたからだ。


 もう夜も更けている。

 こんな深夜に、女性が一人で出歩くのを見過ごすのはさすがに気が引ける。

 それが、仮に高校時代に好きだった女ではなくともだ。


 だから「春野の見送りも兼ねて一緒に行くか?」と提案したのだが。


 水瀬の反応はどこか変だった。「そう……そうだったわね」と買い物の用事を、今更ながら思い出した様子だった。


 まるで、架空でその用事をでっち上げたかのように。まあ、水瀬がそんな詐称をする理由がないので、俺の勘違いだとは思うが。


 そういうわけで、俺と水瀬は一緒にアパートに向かって歩いていた。


「…………」

「…………」


 住宅街だからだろうか。

 宵闇のなか、こつこつと足音が妙に響く。


 もう深夜のせいか、光が漏れている周囲の家宅も少ない。頼りになるのは、街灯の寒寒しい色の光のみ。


 そんな光景のなか、俺は口を開く。


「今日は、悪かったな」

「別にいいわよ。春野さん、面白かったし……君が嘘をつく理由は、よくわからなかったけど」

「嘘なんかついてないだろ」

「そう?」


 何が面白いのか、くすくすと小さな笑い声でこぼす水瀬。


 彼女はついで一頻り笑うと、そのまま微笑を向けてきて。


「なら、信じてあげる。君がそこまで否定するってことは本当なんだろうし」

「……ありがとよ」


 やや釈然としないが、まあ、これでいいのだろう。誤解は解かれ、あるべきところに収まった。


「でも、もったいないと思わないの?」

「何がだ?」

「もちろん、春野さんの気持ちが大前提としても……あんなに可愛い子と付き合いたいとは思わないの?」

「社内恋愛なんて面倒だろ」

「可愛いというのは否定しないのね」

「……まあ、な」


 俺は渋々と頷く。


 とんだ引っかけ問題を味わった気分だった。

 まあ、春野のことは実際に可愛いと思っているので、嘘というわけではないのだが。


「君はどんな人が好みなの?」

「え」

「え……ってなによ。ただの世間話でしょ。飲み会とかよくこういう話するし。それに、あの春野さんで気に入らないってよっぽど理想が高いのかなって」

「気に入らないとは言ってないだろ」

「じゃあ、気に入ってるの?」


 水瀬が上目遣いでこちらを窺ってくる。


 水瀬のやつ、今日は何故かぐいぐいとくるなぁ……。

 酔っ払っているのかと思って顔色を窺うが、夜で真っ暗のせいか読み取れない。


 水瀬自身が「この程度じゃ酔わない」と言っていたので、酔っ払ってるわけではないんだろうが。


「別に……俺の好みなんてたいしたことねぇよ」


 結局、俺は自分の好みを喋ることにした。


 春野がどうとか、そっちを答えるよりよっぽど気が楽そうだったからだ。


「どういう女性が好きとか、偉そうなことを言える立場じゃないのはわかってるけど……まあ、しいて言うなら」

「しいて言うなら?」

「頑張ってる女性が好きだな。高校のときからずっと」


 後から思い返せば、俺は酔っ払っていたのだろう。じゃないと、こんな小っ恥ずかしいこと言うわけがない。


「そっか」


 水瀬は優しそうな眼差しをつくってから、前へと向き直る。


 俺の言葉を、水瀬がどう解釈したのかはわからない。

 だけれど、何故か、途端に鼓動の音がやけに大きくなった気がして。


 ……酒、飲みすぎたかもな。


 取り敢えずそう思うことにした。










 アパートまでは、そこから数分も経たずして辿り着いた。


 寝ているとはいえ、愛莉が心配だったのだろう。水瀬の足取りも早かったのだ。


「じゃあ、またな」


 アパートの廊下でそう伝えて、自分の家に戻る。

 そのつもりだったが。


「ちょっと待って」

「っ」


 不意に、ぐいっと服の袖を引っ張られた。


 振り返ると、水瀬がちょこんと指先で俺の服を掴んでいた。アパートに備え付けの電灯も、お世辞にも性能がいいとは言えない。


 暗闇の向こうから読み取れない表情のまま、水瀬はコンビニの袋からそれを出した。


「はい、これ。あげるわ」

「ああ、ありがと……って、これなに?」

「重曹よ」

「ジュウソウ」


 あまりにも謎のアイテムすぎて、思わず復唱してしまう。


 きっと、さっきのコンビニで買ったのだろう。

 それにしても、なんだこれ。何に使うんだ? 食べちゃ駄目なのは、なんとなくわかるんだけど……。


「さっき見たら、コンロに頑固そうな油汚れがあったから。掃除用品とかもあまりなさそうだったし、余計なお節介かもしれないけど……一応」

「あ、ああ。ありがと」


 掃除道具だったのか、これ。


 そういえば、Webの記事でも見たことがある気がするし、ドラッグストアでも見かけたことがある気がする。そうかお前は重曹だったのか。なるほどなるほど。


 だが、


「……急にどうしたんだ?」


 わからないのは、それだった。


 水瀬が俺のキッチン事情を配慮するなんてどういう風の吹き回しだろうか。


 もしかして、あまり掃除しなさすぎて悪臭がするとか? それなら、それで水瀬は直接言ってきそうだが。


 だけれど、水瀬が口にした答えはそれではなかった。


「君にはお世話になりっぱなしだから」

「え」

「ずっと愛莉の面倒を見てもらってたりするでしょ? だから、その貸しのお礼って思ってくれればいいわ。代金もいらないから」

「貸しって……そんな気負わなくても」

「気負うとか気負わないじゃなくて、私が嫌なの。もちろん、これだけで全部返せるとは思ってないけど……まずは一つということで」


 やっぱり気負ってるだろ。

 そう指摘したくなるものの、水瀬の態度からは断固とした意思を感じた。てこでも動かなさそうだ。


「……わかったよ。ありがとな。正直、家事はよくわかんないから助かる」


 結局、俺は素直に受け取ることにした。

 実際、コンロの油汚れは頑張って擦っても取れずに難儀していた。今度、時間があるときに使ってみよう。


「じゃあ、夜も遅いし。水瀬、また──」

「待って」


 俺は再度家の中に戻ろうとするが、またもや足止めしたのは水瀬だった。


 まだ何かあるのだろうか? 

 今度はシンクの掃除道具か?


 俺は振り向くが、水瀬の様子は先程はやや様相が異なった。


 両腕を自分を抱くようにし、そわそわと瞳を揺らしている。ようやく酒が回ってきたのか、暗がりのなかでもはっきりとわかるほど頬を紅潮させ。


「最後に一つだけ聞かせて」



「──?」


 水瀬は真っ直ぐとこちらを見つめていた。

 毅然とした態度で。そして緊張しているのか、彼女の手は僅かに震えていた。


 一方で、俺はその言葉を聞いた瞬間、何故か心臓がぎゅっと締め付けられるような感覚に襲われた。

 答えようと、唇を何とか持ち上げる。


 だが、何も発することはできなかった。


 多分、俺のなかで「答え」がなかったからだ。

 正確には、今この場で水瀬を納得させることができて、口にすることができる「答え」が。


 だから、結局のところ、俺はいつもの通り答えた。

 嘘ではない──されど、本当でもない答えを。


「別に……困ってるひとがいたら助けるだろ。それがお隣さんだったら尚更」

「そっか」


 水瀬の答えは短かった。

 ついで、彼女は完璧な笑顔をつくると、ひらひらと手を振ってくる。


「ごめん、変なこと聞いちゃって。じゃあ、またね」

「……ああ、またな」


 俺も返事をして家の中に入り込む。


 だけど、その夜の間、水瀬の問いが俺の頭から消えることはなかった。





◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇





「…………はぁ」


 私は家の中に入ると、愛莉がちゃんと寝ていることを確認してから洗面台で大きく息を吐き出した。


「あっつ……」


 服の中の熱気を追い出すように、襟を広げてぱたぱたと手で煽いで風を送り込む。

 それでも、身体のあちこちを覆う熱は逃げそうにない。


「……もうっ。詩葉、変なこと言って……嘘、じゃない」


 堀越くんの言葉が、声が、頭のなかで何度も再生される。

 だけれど、すべて私の勝手な勘違いだった。


 変な妄想をしていた、疑いを向けていた、自分が痛々しくて恥ずかしい。


 結局、堀越くんが私を助けてくれていたのは、高校の頃から変わらずお人好しだったから。私に好意を抱いていたからなんかじゃない。


 なんでそれを安易に信じてしまったのか、自分でも理由がわからなくて──。


「あ…………」


 顔をあげると、鏡に自分の顔が映っていた。


 うんざりするほど見てきた、自分の顔だ。

 だが、いつもと違うところがあるとすれば、頬も耳も真っ赤に染まっていて、目はどこかとろんと陶酔しているみたいで。


 そう、一言でいえばまるで「酔っている」みたいで。


 ふと、姉の言葉が脳裏で蘇る。


 ──あんたが酔えないのは、酒の量が足りないからじゃないわ。いつも完璧に振る舞おうとするからでしょ。

 ──だから、あんたがお酒を酔うときは、一人のときか、付き合いが長い友達か──

 ──あんたが弱みを見せられるような、頼れるような相手ができたときなんでしょうね。



「……そんなわけ、ないでしょ」


 私は呟く。

 小さく、自分に言い聞かせるように。


「酔っ払うわけ、ないじゃない」




「…………酔っ払ってなんか、ないもの」




 だけれど、鏡の向こうの自分はむすっとしているものの、依然として顔が真っ赤のままだった。





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次回は、10/30(日) 18:00更新予定です。

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