第20話
やはり最近、水瀬の様子がおかしい。
いつから、彼女の様子がおかしくなったのかはわからない。
だが、水瀬の真意を図り損ねることが明らかに多くなってきていた。
「…………お」
「…………あ」
とある金曜日の朝。
出社前にゴミ捨て場に可燃ごみを持っていこうとしたところで、俺は水瀬とアパートの廊下で出会った。
水瀬も仕事前なのかスーツだった。
スカートタイプのスーツ。
秋も近づきやや気温が低くなったせいか、綺麗な足がタイツに包まれていた。動きやすいようにか髪は一括りにされており、ポニーテール姿。その格好なら大企業の秘書にも見えるが、水瀬は無骨なリュックを背負っていた。
やたら大きくてとてもお洒落とは言い難いが、妙に様になっているのだから不思議なものだ。
「水瀬、リュックなんだな」
「ま、仕事で色々使うから。でも、もうさすがに慣れたわね」
水瀬は華奢な身体で無骨なリュックを軽々と背負ってみせる。
確かに、その足取りからは危なさは感じない。
というか、毎回思うが、水瀬の仕事ってなんなんだろうな。わかってるのは、荷物が多いときがあるってのと、土日も働くことがあるということだけだ。
別に、俺も俺で聞けばいいのだと思う。
水瀬も隠しているわけではない……はずだ。
俺が聞けば答えてくれるだろう。
しかし、今更かと思うかもしれないのだが──水瀬のプライベートを聞くのは、妙に気が引けるのだ。
これだけプライベートでは絡んでおいて、変なところで及び腰になっているのはわかってる。
だが、これは俺と水瀬の間に敷かれた不文律のようなものだった。
最低限しか絡まない。
お互いのことはなるべく詮索しない。
もちろん、愛莉を通して色々と情報が行き交うことはあるだろうが、俺と水瀬は積極的に日常のことを話したりしない。
それが、俺と水瀬の関係だった。
その、はずだった。
そう、それが俺たちだったのだ……ついこの間までは。
「……で、堀越くんは今日は何時に帰ってくる予定なの?」
「え?」
ゴミ捨て場に向かうまでの間は、水瀬とは必然と一緒になる。
だから、水瀬と並んで歩いていたのだが……きゅ、急にどうしたんだ? 水瀬がこれまで俺の予定を聞いてきたことなんてなかった。なんのつもりだ?
俺が困惑していると、水瀬はくすりと微笑をこぼす。
「なによ、ただの世間話でしょ。私、変なこと言った?」
「……い、いや、悪い。水瀬からそんなこと聞かれたことがなかったから、ちょっとびっくりした」
俺は平静さを何とか取り戻しながら答える。
「で……帰宅の時間だよな。だいたい22時ぐらいの予定だけど」
「そう、随分と遅いのね。飲み会?」
「まあ、同僚とちょっとな」
「女の子の割合はどれぐらいなの?」
「へ?」
「だから、女の子の割合。その飲み会にどれぐらい参加するの?」
……ほ、本当にただの世間話なんだよな?
しかし、水瀬は至って平常そうに訊ねてきていた。
水瀬はきょとんとして、困惑している俺を見つめてくる。……え、俺がおかしいの? 普通、世間話で飲み会で女の子の割合とか聞くものなの? レポートでも書く予定なの?
だけれど、結局、俺は場の空気に抗えず答えてしまう。
「えーっと……後輩の女の子とサシだから50%だけど……」
「そう」
水瀬の返答はそれだけだった。
「あっ、私、こっちだから。悪いけど、先に行くわね」
ゴミ捨て場に着くや否や、水瀬はそう言ってすたすたと行ってしまう。あっという間に米粒ほどの大きさなり、角を曲がり視界から消えていく。
それを見送って──
「……マジでわかんねぇ……なんなんだよ、これ」
昔から、水瀬のことはわからなかった。
だが、ここ最近はその謎っぷりに拍車がかかっていて。
朝にもかかわらず急激に襲ってくる疲れに、俺は思いっきりその場で嘆息した。
「なあ、春野。俺が急にスケジュール聞いてきたらどう思う?」
俺が勤めるアカバシステム。
最近は、フリーアドレス制度などでどこの席に座るのも自由だ。
とはいえ、不思議なもので専用席というのが必然とできてくる。
たとえば、端っこの席は部長の席。
営業の課長と技術の課長は仲が悪いから、対角線で最も離れた場所。
そして、俺と春野は指導員と新人という関係だったからか、OJTがなくなった今も、隣に座ることが多かった。
そのせいか、時折雑談もしていたのだが。
俺が右隣のデスクにそう声をかけると、春野がPCのキーボードを叩くのをやめてこちらを振り向いた。
春野の今日の格好は、淡い色のブラウスに紺色のワイドパンツというビジネスカジュアルな服装だった。髪はまとめており、パワフルな小動物な印象は健在だ。
凝り固まった身体をほぐすように、うーんと背伸びをする春野。
巨大なメロンみたいな双丘が強調され、慌てて目を逸らす。それとほとんど同時に、春野の声が耳朶を叩いた。
「それ、どういうことですか? 堀越さんが私のスケジュールを把握するのは当たり前だと思いますけど。だって、リーダーですよね?」
「いや、言い方が悪かった。仕事の話じゃなくて──」
「もしかしてプライベートですか!?」
ぐいっと、春野が顔を近づけてきた。
ふんわりと柑橘系の匂いが漂ってくる。手を伸ばさなくても、俺が少しみじろぎでもすれば春野の瑞々しい身体に触れてしまいそうなほどの距離。距離が近すぎる。
だが、春野はまったく気にしていないようだった。
目をキラキラと輝かせながら、さらにぐいっと顔を近づけてくる。
「今週の土日ですか!? 飲みに行きますか!? 実は、私、またおすすめのお店を見つけちゃったんです!」
「いや、飲みにって……今日も行くだろ」
呆れて言う。
そう。
何を隠そう、今日の飲み会の相手は春野なのだ。
俺と春野は、チームが同じなせいもあってか、月に何回か一緒に飲みに行っている。
今日、行くのもその一環だ。
決して男女の関係などではないのだが。
だけれど、春野はむうと不満げな表情をつくる。
「えー、今日は今日! 土日は土日に決まってるじゃないですか! 飲み会なんて何度やってもいいんですから!」
「よくねぇよ、身体壊すぞ」
20代後半といえば、世間一般的にはまだ無理がきく年齢──らしい。
とはいえ、俺としては大学生の頃から比べると衰えを感じる一方だ。
お腹に肉もつくようになってきた。
加えて仕事も控えているのに、何日も連続で飲み会なんて正気の沙汰ではない。
だが、春野は唇を尖らせて抗議する。
「えー、行きましょうよー。私が選んだお店、今までハズレありました?」
「……まあ、それはないんだけどな」
「でしょー? 私、堀越さんを満足させなかったことないんですから! いつも最初は乗り気じゃないのに、最後には屈服してばっかりじゃないですか!」
俺を即落ちヒロインみたいに言うんじゃねぇ。
だけど、確かに春野がおすすめしてくるお店はどれも美味しいんだよな。
この間行ったレバー専門の焼肉屋なんて、臭みがなさすぎてびっくりしたぐらいだ。俺が今まで食べてきたレバーは何なんだったよ。もう、あそこのレバーしか食べられない。……しっかり落ちてるじゃねぇか。
「でも、なんで俺なんだ」
俺はふと疑問に思い、春野に訊ねた。
「俺なんかよりよっぽど楽しいやつはいるだろ。たとえば、同期とか。そいつらとは行かないのか?」
「えー、今更それいいます?」
春野は、じとーっとした目を向けてきた。
「ちゃんと行ってますよ、同期とも。でも、堀越さんとは別腹です! 堀越さんって意外と紹介しがいがあるんで! 美味しいときは美味しいって言ってくれるの、私的には高ポイントですよ?」
「……そりゃ美味しいからな」
「そういう意外に素直なところが高ポイントってことです!」
春野は溢れんばかりの笑顔をうかべて、ぴっと指を伸ばしてくる。
「だから、私は堀越さんと一緒に飲みに行くの好きですよ? というか、だいたい堀越さんと行くのが楽しくないなら誘うわけないじゃないですか! 変なこと聞かないでください!」
あー恥ずかしー、とぱたぱたと手で煽いで顔の温度を冷まそうとする春野。
俺自身も思ったより素直な感情をぶつけられて戸惑っていた。
前々からわかってはいたが、春野はいいやつだ。道理で行く先々で色んな社員から好かれるわけである。
「ですけど、急にどうしたんですか?」
「え?」
「最初に変なことを言ってきたのは、堀越さんですよ? プライベートのスケジュールがどうとか。何かあったんですか?」
上目遣いで覗き込んでくる春野。
その頬は少しだけ紅潮していた。まだ顔の熱が引かないのかもしれない。
「何かというか……知り合いにそんなことを聞かれたんだよ。それで、どういう意味なのかと思ってな」
「意味って……普通に、堀越さんの予定を聞きたかったんじゃないですか? 何かに誘いたくて」
「まあ、そうだよなぁ」
普通ならば、そうとしか考えられない。
だが、俺の中で引っ掛かっているのは、水瀬が「飲み会の女の子の割合」を聞いてきたから。
そして、水瀬の謎の質問は決して今日だけではないということだ。
ここ最近、何故か、水瀬は意図が読めない世間話を続けてきていた。
休日の過ごし方から始まり、趣味、職場などの交友関係……いや、思い返すと別に変なことばかりでもないか。
ただ、相手が水瀬だから違和感を覚えているだけで。
本当になんで、今更プライベートのことなんて聞いてきたんだろうな。水瀬が俺を何かに誘おうとしているとも思えないし。
「あっ、あと一つ可能性として考えるなら、アレがあるかもしれませんけど」
「アレ?」
俺が眉をひそめると、春野は頷く。
「はい。ほとんど同じことですけど……仲良くなりたいなら聞くんじゃないかなーって」
「仲良く、ね」
確かにそれはそうだ。
だが──
あの神聖不可侵のアイドル・水瀬彩奈が俺と仲良くなりたいと思っているなんて、やはり到底考えられなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
『彩奈は同窓会来る?』
『ごめん、ちょっと待って』
詩葉からのLINEメッセージ。
一週間前に返信したそれを、私は今更ながら見返していた。
今度の同窓会、予定として参加することはできる。
愛莉がその日も友達の家にお泊まりに行く予定だからだ。
だけど、私はそもそも行くか迷っていた。
仕事も溜まっているし、誰かと過ごさないプライベートというのも捨てがたい。
ただ、
「同窓会、だものね」
それはそれで貴重な機会だ。自分のプライベートな時間とは比べるまでもない。
ゆらりと、リビングにかけられた時計を見上げると、時計の針はまもなく22時の深夜帯に入ることを示していた。
22時。
いつもなら特に何も意味をなさない時間だが、今日だけは違った。
私は愛莉が寝ていることをこっそり確かめると、玄関の近くで腰を下ろしてそのときを待つ。
私が住んでいる部屋は、築三十年の木造アパートの二階。
しっかりと手入れはされているものの、防音性は高くなく──たとえば、玄関の近くで待っていれば、誰かが二階へと上がってくる音は自然と聞こえてくる。
誰を待っているのか。
当然、それはお隣さん──堀越くんしかいない。
ここ最近、私はこうして彼を待ち伏せをしていた。
朝、家から出てくるタイミングで。帰ってくるタイミングで。
といっても、毎日というわけでもない。
私もたまたま外に用事があるときだけだ。
ストーカーめいたことをしているのは、わかっている。それでも、私は確認しなければいけないことがあった。
──それは……好き、だからでしょ?
詩葉から示唆された可能性。
最初それを考えてしまったとき、私は嬉しかったのだと思う。
多分、それは久しぶりだったからだ。
新卒で今の仕事に就いたときは、仕事に集中するために意図的に恋愛を排除した。
そして今は、愛莉がいるから誰も近寄ってこない。子連れに見えるのだろう。私は愛莉と一緒にいることを選んだのだから不満はないのだが、免疫という意味では下がっていたのだと思う。
だからこそ、嬉しくて。
ただ、それは踏み込んではいけない道なのは理解していた。
だって、今の私にそんな余裕はないから。
私の気持ちがどうとかそれ以前に、今の私には時間も、労力も、何もあげられるものがないから。私は愛莉のことで頭がいっぱいで、恋愛に時間を使えないから。
だから、もし詩葉の推測通りなら、私はその芽を潰さなければいけなくて。
……とはいえ、詩葉の勘違いなら、私はイタいやつだ。
既に充分イタいやつかもしれないけど。
お隣さんが私のことを好きかもなんて思って、探りを入れている時点でかなりヤバいやつだ。
ああもうっ! これもそれも、詩葉があんなこと言うからよ!
「……なんて言っても仕方ないわよね」
やると決めたのだ。
それなら、やるしかない。
私は気合をいれるために頬を両手でぱちんと叩く。
──と。
ぎしっ、と。木造アパートに備え付けの階段が静かに鳴り響いた。
ぴったり22時ぐらい。
もちろん別の住人の可能性もあるが、家に入られたらさすがに追いかけられない。
私は靴を履くと、さりげなく玄関の扉を開いて。
「ん……水瀬、か?」
予測通り、堀越くんが階段を登り切ったところだった。
怪訝そうに眉をひそめられる。
しかし、ここで怖気付いてもいられない。
もう、この調査をはじめて一週間近くは経つ。いつまでもかかりなるわけにもいかないし、毎回タイミング擦れ違ってはさすがに怪しまれる。
だから、今日ここで勝負を決めよう。
私は早鐘を打つ鼓動を意識しないようにして、自然を装いながら口を開く。
「堀越くん、今帰り? 偶然ね」
「あ、ああっ。ま、まあな。み、水瀬は……どこかに出かけるのか?」
「ちょっと、近くのコンビニにね。買わなきゃいけないものを思い出したから。あっ、そうだ。ちょうど、君と話したかったことが──」
あるの。
私はそう紡ぐつもりだった。
だが、私は最後まで言葉を口にすることはできなかった。
堀越くんの後ろから、一人の女性が現れたからだ。
「へー、ここが堀越さんの家ですか?」
可愛らしい女の子。お酒が飲んできたのだろうか。頬はほんのりと赤くなっており、堀越くんとの距離も何だか凄く近そうで。
「……………………え」
早速プランが瓦解し、私は呆然と声を漏らしたのだった。
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次回は、10/23(日) 18:00更新予定です。
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