第13話


 少し、昔の話をしよう。



 俺が子供の頃、家には「おかえり」がなかった。

 シングルマザーだったのだ。母はいつも仕事で出かけていて、俺が学校から帰ってくる頃には家にいなかった。


 それが、不幸だと思ったことは一度もない。

 物心ついたときにはそれが当たり前で、運動会などで他所の家にはお父さんがいるんだな、と思うぐらいだ。こっ恥ずかしい話であるが、母親は俺に愛情を注いでくれていたのだと思う。


 だが、母親にとってはそれが当たり前ではないようだった。


 ──ごめんね、京也。


 それが口癖で、いつも俺に対して謝っていたと思う。

 幾つもの仕事を掛け持ちして学校のイベントに行けなかったとき、地域のお祭りに行けなかったとき、母親はずっと謝っていた。


 だけれど、その瞬間、俺もまた心の中で謝っていたのを今でも覚えている。


 ──ごめんね。


 それが、何に対する謝罪だったのか。

 最近までずっとずっと忘れていた。




◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 幸いにも、土曜日は晴れた。


 俺は神社の石段の前で待っていた。ここから徒歩で十分ちょっとで花火大会の会場だ。神社は地元では有名な待ち合わせのスポットで、花火大会に向かっているであろう高校生や家族連れが多く行き交っている。


 服装としては、浴衣を着ている人たちもいれば、俺のように着飾っていない人たちもいる。ちなみに、俺の格好といえば、白のシャツに黒のジーパン。シンプルな装いだ。


 と。


「お待たせ」

「今日はお願いします、堀越さん!」


 美女と美幼女が人混みのなかから現れた。


 美女──つまりは、水瀬は浴衣を身に纏っていた。

 無垢な白を基調とした生地に、百合が淡い水色で描かれている。一転して帯は黒く、腰の細さが強調される。小物としては小さな巾着が一つ。随分と身軽そうだ。印象としては、まさに和風美人といった感じ。


 一方で、美幼女ならぬ愛莉も浴衣を着ていた。

 ただ水瀬とは系統が異なる。淡い桃色に、たくさんの赤の花柄模様。髪型はお団子。おそらく水瀬にしてもらったのだろう。

 そして、二人とも下駄を履いていた。かこん、と下駄の心地よい足音が鳴り響く。この音を聞くと、お祭りに来たんだなと思うのだから不思議なものだ。


 水瀬はそばまでやってくると、小声で言ってくる。


「ごめん、今日は。絶対に後で借りは返すから」

「それはいいって言っただろ」

「そういうわけにはいかないでしょ。……で、会議の件だけど」

「ああ、水瀬がリモートで会議に出ている間、俺が愛莉を見ておけばいいんだろ?」

「ごめん、お願い」


 水瀬が小さく頭を下げる。


 そう。水瀬がここにいる理由は、何も会議が終わったからではない。

 花火大会中に抜け出して、リモート会議に参加しようとしているのだ。


 それこそが、俺が提案したことであった。


 リモート会議であるならば、別に家の中でなくても外出先で参加しても構わないはずだ。幸運なことに、水瀬は特段発言する機会がない会議らしい。であれば、花火大会の会場先でも参加することはできる。


 ただ──水瀬一人であるならば、そうも簡単に行かない。


 水瀬は会議の音声を聞いているだけとはいえ、同時に愛莉を見ることはできないからだ。

 だから、俺は彼女に言ったのだ。

 水瀬が会議に参加している間なら、俺が愛莉と一緒にいるよ、と。

 結果として、俺は水瀬と愛莉と一緒に花火大会に向かっているわけだった。


 俺がそんな回想をしていると、愛莉は両腕を広げて浴衣を見せびらかすようにしながら小さく首を傾げる。


「あの、堀越さん。どうですか? 可愛いですか?」

「ああ、可愛いよ。似合ってる似合ってる」

「本当に思ってますか?」

「思ってる思ってる」


 ややぞんざいに返してしまうものの、嘘偽りなく愛莉の浴衣姿は可愛らしかった。実際、同年代と思わしき小学生男子は擦れ違うたびにちらちらと振り返っている。


 俺の返答を受けて、愛莉はぱぁっと天使のような笑顔を浮かべた。

 だが、直後、その笑顔が小悪魔じみたものに変貌し。


「じゃあ、彩ちゃんも可愛いですか?」

「……………………………………………………」


 おいこら小学生。

 何考えてやがる。


 水瀬はというと、小さく溜息を吐くと愛莉の腕を引っ張り。


「こら、愛莉。変なこと言っちゃ駄目でしょ? 堀越くん困ってるじゃない」

「ええー、でも彩ちゃん聞きたくない? あんなにお洒落頑張ってたのに」

「……別に堀越くんのために頑張ってたわけじゃないから」

「あんなに、可愛い浴衣を選ぶのに迷ってたのに?」

「…………久々だったから、恥ずかしくない格好をするのに時間がかかっただけ。それが最低限の礼儀でしょ?」


 そう言われたら、脳死で無難な格好を選んでしまった俺の立場がないのだが。


 一方で、愛莉は何かを期待するような眼差しをこちらに向けていた。

 その視線の圧に押し負けて、俺は渋々と口を開く。


「水瀬も、浴衣似合ってるよ」

「ありがと、堀越くん」


 作りめいた完璧な微笑をうかべる水瀬。

 さすが役者が違う。社交辞令をわかっている。

 だが、愛莉は「可愛い」という言葉が引き出せなかったのか、不満げな表情をつくる。


「……堀越さん、つまんないです」


 悪かったな、つまらなくて。

 だが、大人になるとはそういうことだ。

 薄っぺらい言葉を言い合って、表面上だけ取り繕う。

 それができる者が、大人と呼ばれるようになるのだから。











 じゃあ、会議に行ってくるね。

 水瀬はそう言い残してどこかに消えて行った。おそらく近くのカフェなど集中できる空間に行くのだろう。


 そして、その間、愛莉を楽しませるのが俺の使命だ。

 と思っていたが、水瀬が視界から消えた後、愛莉は開口一番爆弾をぶっ込んできた。


「あの、堀越さんって彩ちゃんのこと好きじゃないんですか?」

「………………」


 ませてるなぁ。


 俺が小学三年生のときに、恋愛のことなんて考えていただろうか。

 もっと単純なことばかり考えていた気がする。

 逆に小学三年生の恋愛事情が気になって、俺は訊ねてみる。


「愛莉は好きな人とかもういるのか?」

「はい、いますよ? ジュエンくんです!」


 まさかの韓国のボーイズグループだった。


 韓国の男性アイドルに詳しいわけではないが、そんな俺でも知ってるぐらい有名なグループだ。世界を股にかけて活躍しているグループでもある。

 そっか、最近の子たちは外国のアイドルなのか。ぐろーばるだなぁ。俺なんて英語もさっぱりわからないのに。


「愛莉は同級生の男子とかは気になったりしないんだな」

「だって、同級生は子供っぽいんですもん。みんな言ってますよ?」


 怖っ。

 女子は精神的な成長は早いというが、それにしても、である。

 そうか、子供っぽいか……きっと、俺の世代でも言われたんだろうなぁ。

 女子高生のときは大学生の男が、女子大生のときには社会人の男が人気という噂も聞いたことがある。案外とそういうものなのかもしれない。


「というか、誤魔化されませんからねっ! 今は彩ちゃんとの話をしているんです!」


 (>0<)みたいな顔をして、怒ってるポーズを取る愛莉。

 頬なんてぷくーっと膨れてしまっている。


「堀越さんは彩ちゃんのことが好きなんですか? それをまず教えてください!」

「知ってどうするんだ?」

「彩ちゃんと上手くいくように協力してあげます!」


 ふんす、と鼻息荒く肯定する愛莉。

 協力、ね。いったいどんなことをするつもりなのだろうか。

 少し気になったので、追加で訊ねてみる。


「協力って……具体的には何をするんだ?」

「堀越さんの良いところを毎日さりげなくお家で言います! これで隣のクラスのみっちゃんも付き合えたんですよ?」

「マジか、すごいな」

「はい、サブリミナル作戦です!」


 洗脳じゃねぇか。


 それにしても、サブリミナル効果なんてよく知ってるな。

 さすが、水瀬が賢いというだけのことはある。


「ちなみに、俺の良いところって何て言うつもりなんだ?」

「えっと……その……えっと……………………………………堀越さん、お金持ってます?」

「…………」


 初手からお金頼みだった。


 え? 俺、良いところないの? ありもしない財産でも持ってないと、アピールポイントないの? 悲しすぎない?


「だ、大丈夫です! お金があればモテますよ? 友達も安定して稼いでくれるお金持ちがいい言ってました!」

「嫌すぎる、その小学三年生の会話……」


 しっかりと現実を見据えていた。

 そりゃ、将来のなりたい職業がYouTuberと言う同級生男子とは相容れないかもしれない。

 だけど。


「なんで、そんなに俺と水瀬をくっつけたいんだ?」


 どれだけ訊ねても、それだけがわからず繰り返して聞いてみた。

 ただ、恋愛トークが好きだから聞いているようにも思えない。

 俺の言葉に、愛莉は困ったように微笑する。

 だけれど、俺が見つめ続けていると、愛莉はやがて消え入るような声で。


「……だって、彩ちゃん、ずっとお仕事から早く帰ってくるんだもん」

「それじゃ駄目なのか?」

「だ、駄目じゃありませんっ。駄目じゃないですけど……」






「彩ちゃん、本当はもっと遊びたいんじゃないのかなって……そう、思うんです」





 どこか泣き出しそうな声。

 それは、、と愛莉が考えているのは丸わかりで。


「愛莉、それは違うぞ」


 俺は思わず声をかけた。

 大人として、これだけは言わなければいけないと思った。


「水瀬がそんなこと考えてるわけないだろ。水瀬が早く帰ってるのは、愛莉のせいなんかじゃない。それが好きだからやってるんだ」

「……はい、そうですね。彩ちゃんはそんなこと思いませんよね」


 俺の言葉に、愛莉は寂しそうに笑った。

 その表情から、俺の言葉が響いているかどうかなんて推察するまでもなかった。

 出会ったりばかりで、他人で、お隣さんで。

 そして、薄っぺらい言葉ばかり使う「大人」が信用されるわけもないのだから。


「堀越さん、行きましょ? まずはどこから行きますか!」


 愛莉は天使のような完璧な笑顔を浮かべる。

 もう、その心のうちを見せてはくれなかった。




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次回は、9/28(水) 19時に更新予定です。

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