第10話
「堀越さん、お邪魔します!」
ぺこり、と。
愛莉はうちの玄関で元気よくお辞儀した。
愛莉の目は、きらきらと輝いていた。
うちの家のインテリアなどがよっぽど新鮮に映るのか、ふぇーっと楽しそうに見ている。そんなに面白いものはないんだけどな。
俺の家は、黒と白を基調とした家具ばかりだ。
物だってかなり少ない。元々、多趣味ではないし、好きな漫画なども今の時代では電子書籍として購入することができる。物を置く必要がないのだ。
第一、物が増えれば掃除が面倒臭くなるしな。
それでも、愛莉にとっては珍しいのか意気込んで訊ねてくる。
「あのっ、堀越さん色々見てもいいですか?」
「愛莉、それは後でね。先にお風呂入りましょ、明日も早いんだし」
そこで口を挟んだのは、後から家に入ってきた水瀬だった。
水瀬は小さなトートバッグを肩から下げていた。バッグは大きく膨らんでいる。バッグからは化粧品やタオル、それにドライヤーが顔を覗かせている。きっと、愛莉との二人分を入れているのだろう。
水瀬の言葉に、愛莉は可愛いぱっちりとした目で見上げてくる。
「じゃあ、堀越さん。お風呂のあとで見てもいいですか?」
「ああ、俺はいつでもいいよ。面白いものなんてないと思うけどな」
「じゃ、愛莉さきにお風呂に行ってて。私は後から行くから。多分、うちと使い方も一緒だから大丈夫でしょ?」
「うんっ」
愛莉は元気よく頷くと、よっぽど早く部屋の見学したいのか浴室の方に向かっていく。
別の部屋とはいえ、アパートも間取りも同じだ。おそらく、浴室の場所も把握しているのだろう。
一方で、水瀬は愛莉を見送ったあと、申し訳なさそうに表情を一転させた。
「……ごめん、堀越くん。迷惑かけちゃって」
「別に迷惑なんかじゃない。ただ風呂を貸すだけだろ」
「それは……そうかもしれないけど」
「それに水瀬の家が風呂が壊れたんだ。なら、仕方ない」
それが、水瀬が俺に「お風呂を貸してほしい」と頼んできた理由だった。
水瀬がお風呂が壊れていることに気づいたのは、ついさっきだったらしい。
すぐに大家さんに電話してみたが、業者を呼ぶには時間が遅く、修理は明日になったようだった。
そのため、少なくとも今日は、入浴を別で済ませなければいけないのだが──
実は、この辺りは銭湯の類は一つもない。
もちろん、電車に乗ればその限りではないが、この暗くなった時間帯に愛莉を連れていくのは避けたいのだろう。
実際のところ、聞いたわけではないので真意はわからないが。
「ありがと、そう言ってもらえると助かる」
俺がフォローすると、水瀬はふんわりと口元を緩めた。
それはお風呂を貸してほしいとお願いしてきてからの、初めての彼女の笑顔で。
されど、次の瞬間には、いつものすまし顔に戻っていた。
ついで、長い睫毛をぱちくりとさせながら、端正な顔を近づけてくると、何故か小声でおずおずと訊ねてくる。
「ところで……その、君、本当に大丈夫なの? 私から頼んでおいて今更だけど、後で怒られたりしない?」
「怒られるって……誰にだ?」
「ほら、それは彼女とか」
窺うように顔を覗き込んでくる水瀬。
彼女の言葉があまりにも意外で、俺は呆然とした後、何とか言葉を紡ぎ出す。
「いや……そもそも彼女がいないから大丈夫だ。家族もほとんど来ないしな」
「へぇ、そうなんだ。意外」
「第一、彼女がいたら『寂しい』とか喚くわけないだろ」
「それもそっか」
俺が酔っ払いながら嘆いたことを思い出したのか、水瀬はくすくすと笑った。
「でも、なら良かったわ。急に浮気を疑われることもないわけだし」
「──君に彼女がいなくて、安心したわ」
水瀬がどこか揶揄うような口調とともに、にこっと微笑する。
一瞬その意味を取り違えかけて、固まってしまうが……自意識過剰もいいところだ。もう28歳にもなってるのに何やってるんだか。
「だけど、この借りは絶対に返すから」
「借りって」
「堀越くん、私に何かしてほしいことない?」
「別にお風呂を貸すだけなんだから、そんなに気負わなくても……」
「今ならちょっとサービスするけど?」
「言ってること愛莉と同じじゃねぇか」
これまで水瀬と愛莉の間に共通点はあまり見つけられてこなかったが、今、確信した。
やっぱり、この二人は親子だ。
「それじゃお風呂借りるわね」
ちらりと、愛莉が消えた方向に見ながら切り出してくる水瀬。
きっと、愛莉が心配なのだろう。
しかし、彼女はこちらに向き直ると、指でとんとんと俺の肩を突いてくる。
「でも、私にしてほしいことは考えておいて。借りはつくりたくないから。これは君とか関係なく、誰にでも借りはつくりたくないの」
「……わかったよ」
一瞬、冗談かとも思ったが、水瀬の視線は真剣そのものだった。
何がそこまで水瀬にそうさせるのかはわからないが、それが彼女の意思なら尊重するしかない。
「じゃ、ごめん。改めてだけど、お風呂借りるわね」
言って、水瀬は浴室の方へと消えていく。
水瀬の姿が視界から消えると同時に、俺は気づかれない程度に小さく溜息をついた。
まったく……高校時代に好きだったアイドルが家にやってきて、お風呂を貸してほしいと言ってくるなんて。
正直、心臓に悪い。
だが、今更ではあるが──
「……どう思ってるんだろうな、俺は」
ぽつりと呟く。
俺は誰にでも優しいわけではなく、お人好しでもない。
ということは、親切にすることでやはり何かを期待してしまっているのだろうか。
自分では、何か起きるわけがないと諦観したポーズを見せておきながら、心の奥底では実は何かを望んでいるのだろうか。
だとしたら、とんだ偽善だ。
「……こんなもん、夜に考えるもんじゃないな」
すぐに答えが出るわけがない疑問に、頭のなかが埋め尽くされそうになる。
俺は頭をがしがしと掻きながら、酒で現実逃避するために冷蔵庫へと向かった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「……私、どう思ってるんだろ」
「ん? 彩ちゃん、何か言った?」
「う、ううん。なんでもないわよ」
堀越くんの家のお風呂。
私は愛莉の髪をシャワーで洗ってあげながら、慌てて笑顔をつくった。
愛莉の髪についた泡を、丁寧に洗い流す。
まだまだ幼いからか肌はぷるんぷるんで、髪もさらさらだ。
浴室の鏡には、愛莉がバスチェアに座ったまま、ぎゅーっと目を瞑っている姿が映っていた。
お人形のようで、されどどこかあどけないその姿は、幼い頃の姉と瓜二つだ。
「はい、終わり。ちゃんと拭いてね、愛莉」
「ありがと、彩ちゃんっ」
愛莉はお礼とともに天使のような笑顔を浮かべると、ぱたぱたと浴室の外に出ていく。
私は笑顔で見送って、浴室で一人きりになった後。
「……ほんと、どう思ってんだろ」
もう一度、自分自身に問いかけた。
何を、と言われば、もちろん堀越くんのことだ。
我ながら、なかなか勇気がいる決断をしたと思う。
もちろん、仕方ない理由は幾つもあった。
明日の朝が早いこと。愛莉を夜に連れ回したくないこと。
でも、だからって、久しぶりに再会した同級生にお風呂を貸してほしい、と頼み込むだろうか。
「……ま、堀越くんは信用できるし」
ボディソープで身体を洗いながら、ぽつりと呟く。
だが、結局のところそれが全てのような気がした。
堀越くんは信用できる。
それが、私のなかの彼の印象だった。
────水瀬、大丈夫か。
不意に記憶が蘇る。
高校の教室。
夕暮れ。
堀越くんが覚えているかわからないが、私の世界が何もかも壊れ切ったと思い込み、絶望に初めて溺れたとあのとき。彼は優しく手を差し伸べてくれた。
多分、彼は大したことをしたと思っていないはずだ。
私は、私に何があったか、彼に説明していないから。
だけど、あのときから、私の視線は彼を追っかけるようになった。
高校生活のなかで、話したことはあまりない。
いつも教室のなかで擦れ違っているだけで、交わることはない。
それでも、授業中、後ろの席から彼の背中を見るようになった。視線が合うと、さりげなく明後日の方向を見ることも度々あった。友達からは、自然すぎて相手は絶対に気づかないと思うよ、と言われたその技で、だ。
そんな相手と十年ぶりに再会した。
だからこそ、自分自身に問いかけてしまう。
彼のことをどう思っているのだろう、と。
当時も──そして、今も。
何もかもわからない。
ただ、唯一、私がわかっていることといえば。
「……ほんと、相変わらずお人好しよね」
私の声は何故か嬉しそうに上擦っていた。
私はお風呂からあがると、脱衣所で持参してきたタオルで身体を拭いていた。
手早く、されど丁寧に。借りている身であるため、時間もかけられない。
そうして、私は衣服を身につけようとしたところで。
「あ、下着」
新しいものを持ってきていないことに気づいた。
「…………はぁ」
何となくテンションがさがって、私は小さく溜息をついた。
家が近くなのですぐに取りに行けるし、元々着ていたものがある。
そのため、問題はないのだが、この妙な抜け具合に嫌気が差してしまう。まあ、昔からこうなのだけど。
「……仕方ない、わよね」
私はぶつぶつと不平不満を口にしながら、元々着ていた衣類を探して──
「…………え?」
唖然と声を漏らす。
元々、今日はトートバッグを堀越くんの家に持ち込んでいた。
そのトートバッグに、元々着用していた衣類をまとめて入れていたのだが……そのトートバッグがどこにも見当たらない。
いや。
多分、愛莉が持っていってくれたのだ。気を利かしてくれて。その証拠に、愛莉は丁寧に私用のバスタオルや入浴後のシャツなどは残していってくれている。
つまり、まとめとると、やっぱり私の下着はここにはないということで。
「…………………………」
私は脱衣所で裸のまま、神妙な顔で立ち尽くしてしまった。
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次回は、9/19(月) 更新予定です。
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