第9話
「……ふーん、そういうことがあったんだ」
スーパーでの一幕があった後。
俺は、水瀬と愛莉について近所の公園にきていた。
早く退勤できたおかげか、まだ夕方といえる時刻だ。
しかし、日が傾きかけており、あと数十分もすれば真っ暗になるだろう。
そんな中、愛莉は友達と公園で楽しそうに遊んでいた。公園の近くを通っていたときに友達に誘われたのだ。俺と水瀬は公園にあるベンチに腰掛けて、その光景を眺めていた。
とはいえ、別に俺が公園にいる必要はない。
だが、水瀬に「ちょっと話を聞かせて」と言われて彼女たちに付き合っているのだった。
水瀬から聞いたところによると、どうやら愛莉はスーパーに一人でいたわけではなく、一緒に買い物に来ているなかで一時的に別行動を取っていただけのようだった。
そして、今。
先程の件について、俺は水瀬に説明していたところだった。
「ということは、愛莉には、その……まだ私の昔のことを話していないのね?」
「ああ、そうだけど……」
いったいどうしたんだ?
隣を見る。
すると、水瀬は何かを思案するように指で腕をとんとんと突いていた。
水瀬は仕事終わりだったのか、スーツ姿だった。
グレーのジャケット。品のある長さのタイトスカート。
黒タイツに包まれた太腿はすらっとスカートから伸び、足は艶かしく組まれている。
水瀬が凝り固まった身体をほぐすようにうーんと腕を伸ばすと、ジャケットの奥に潜んでいた柔らかそうな膨らみが強調される。
俺が目を逸らした同時に、水瀬は息を吐き出してぽつりと呟くように言った。
「なら、いいの。愛莉に何も言ってないなら」
「なんか言っちゃいけないことでもあったか?」
「あ、あるでしょそれは! ほら──」
水瀬がばっとこちらを向くと、ベンチが狭かったせいかお互いの顔が予想以上に近づいた。
視線が交錯する。
ぱちくりと彼女の長いまつげが瞬かれ、宝石のような瞳で覗き込まれる。ふんわりと良い匂いが漂うのは気のせいだろうか。
高校の頃であれば、慌てていたと思う。
だが、今はあれから十年も経った大人同士だ。時には相手の好意すらビジネスに利用する汚い社会で生きていれば、必然とやり過ごす方法は身についていく。
それは、水瀬の方も同じようだった。
特段何かの感情を顔に出すことなく、仕切り直すように──されど、相手を傷つけない範囲で──自然に距離を取りながら。
「……とにかく。高校時代のこと言ってないならいいの。特に、料理のやつとか」
「そんなに嫌なのかよ」
「当たり前でしょ」
愚問、とでも言いたげに、むっとする水瀬。
それは、いつかの思い出とまったく同じような表情で。
だけれど、理由だけは恐らくあのときとは違った。
「──だって、愛莉を不安にしたら駄目だから。何かの拍子で、お弁当とか……遠慮しちゃうかもしれないし」
あの子、しっかりしてるから。
水瀬は焦点が合っていない目で遠くを見つめながら、消えるような声で呟く。
それは、まるで心の声が漏れたように本音を吐露しているみたいで。
「ごめん、ちょっと愚痴ちゃった。忘れて」
されど、数瞬後には、水瀬は嘘臭さがまったくない完璧な笑顔に戻っていた。
「よし、じゃあ帰ろっか! 愛莉―! 帰るわよー!」
水瀬はベンチから立ち上がると、愛莉に向かってぶんぶんと手を振る。
そこにはもう、先程の発言について問い返せる雰囲気はなかった。
まあ、聞き返すなってことなんだろうが。
相談する間柄でもなく、だけれど、ただのお隣さんというには少しだけ近くて。
それが、俺と水瀬の関係だ。
つい口にしてしまいたくなる想いもあるだろうが、それについては掘り下げず、触れない。きっとそれが正解なのだろう。
俺が視線を前方へと向けると、愛莉がちょうど友達と別れの挨拶をしているところだった。
程なくしてこちらに駆け寄ってくる。
ずっと公園で遊んでいたにもかかわらず、元気いっぱいだ。子供ってすげぇな。
水瀬は全速力で走ってきた愛莉を笑顔とともに受け止めると、タオルで愛莉の汚れた顔を拭う。愛情に満ちたその顔つきは、母親のそれだ。
「たっぷり汗掻いたわね。大丈夫? 喉乾いてない? 何か飲んで帰ろっか」
「え、いいの?」
「当たり前でしょ。そこの自動販売機ならなんでもいいわよ」
「彩ちゃんありがと! えっと……おじさんも一緒に飲みますか?」
「え」
急に話題を振られ、答えに窮する。
だが、答えるより早く、水瀬は口元を少し緩めつつも怒っているポーズをつくり。
「こらっ、愛莉。堀越くんをおじさんって言っちゃ駄目でしょ。ちゃんと名前があるんだし、まだおじさんって年齢でもないんだから」
「えーっと……じゃあ、ほり……堀越さん?」
可愛らしく、こてんと首を傾げながら窺ってくる愛莉。
その振る舞いは、将来は男を手玉に取りなそうなほどあざとい。
というか、よく見れば、さっきまで愛莉が遊んでいた友達のなかにはしっかり男子もいる。その男子は、明らかに愛莉に好意を持っていた。え、何故わかってるかって? さっき別れたにもかかわらず、熱っぽい視線でずっとこっちをチラチラ見てるからだよ。
「ああ、それでいいよ。俺は……今更だけど、愛莉って呼んでもいいか?」
「はい! 愛莉って呼んでください!」
にぱーっと可愛い笑顔で頷く愛莉。……うん、確かにこんな可愛い子が同級生にいたら好きになるのもわかる気がする。
「それで、えーっと……堀越さんは一緒に飲みますか?」
「あ、ああ、そうだな。せっかくだから一緒に飲もうかな」
「じゃあ、彩ちゃん、愛莉がみんなのジュース買ってきてもいい?」
「いいわよ、届かなかったら言って。私が押してあげるから」
「うん! あ……でも、堀越さんは何が好きなんですか?」
大きいぱっちりとした目で、上目遣いに覗き込んでくる愛莉。
ほんと、いちいち仕草が可愛い。
さっきも言ったかもしれないが、今だけは自分がロリコンではなかったことに感謝したいぐらいだ。
俺は平然とした気持ちとともに、愛莉の質問に答える。
「特に好き嫌いはないから、愛莉が好きに選んだものでいいよ」
「え、えーっと……」
正直に言えば、好き嫌いはある。
だが、この際、何でもいいというのも事実だった。自動販売機に飲めないぐらい不味いものなんて早々置いてないだろうしな。
しかし、愛莉にとっては逆に指定されない方が困るらしい。
愛莉はおろおろと助けを求めるように、水瀬の顔を窺う。
水瀬は苦笑しながら。
「堀越くんがこう言ってるんだから、なんでもいいんじゃない?」
「で、でも──」
「なら、あれとかいいんじゃない?」
水瀬は微笑のまま愛莉の目線まで腰を下ろした後、腕を伸ばした。その指の先には自動販売機のケースに並べられた一本のサンプル。
水瀬はその缶ジュースを指差しながら言う。
「──あのオレンジジュース、堀越くんが好きなやつだから。だから、きっと喜んでくれるんじゃない?」
「うん! 彩ちゃん、ありがと!」
愛莉は勢いよく頷くと、水瀬から渡された小銭を大事そうに握ったまま自動販売機へと走っていく。
しかし、俺は唖然とせざるを得なかった。
だって、あのジュースは確かに俺が高校時代によく飲んでいたもので──。
「……あ、あれ、ごめん。君が好きなジュースってあれじゃなかったっけ?」
俺が何もリアクションしなかったことを誤解したのか、水瀬は申し訳なさそうに眉を曲げた。
されど、俺は依然として言葉を紡げなかった。
だって有り得ないだろ?
十年前、俺と水瀬はほとんど接点はなかった。
なのに、俺が好きだったものを今でも覚えているなんて、
しばしの間の後。俺がようやく口に出せたのは、こんな皮肉めいた言葉だった。
「……よく覚えてたな、俺の好きなジュースなんて。名前は忘れてたのに」
「それは、ごめんってば」
俺のわかりやすい皮肉に、水瀬は微笑みながら謝る。
「でも、君のジュースは覚えてたよ」
「へぇ、そりゃなんで?」
「え、だってそれは──」
言いながら。
くるりと艶やかな髪を靡かせながら、水瀬はこちらを振り向いた。
風でふんわりと乱れた髪。彼女はそれを片手で押さえながら、真っ直ぐと俺の目を見つめた。
そうして、水瀬は高校時代のようにどこかクールな微笑とともに告げる。
「──だって、私、高校のとき君のことよく見てたもの」
でないと、十年ぶりに会ってあんなにすぐ気づかないってば。
それだけ言うと、水瀬は背中を向けて愛莉の方へと歩み寄っていく。
それ以上、さっきの発言にかんして言及はない。
それでも──俺の心を揺さぶるには、十分すぎるぐらい十分で。
──だって、何年も経ってるんですよ?
──もしかして、好きな人が自分のことを全然覚えてくれてなかったら……自分だけ覚えていたらなんか嫌というか。
──そのひとの中に私がいなかったことを突きつけられるのが怖いというか……。
確かにそれはその通りだろう。
自分だけ覚えていれば。自分だけが大事にしている思い出だったら。それは、きっと虚しい。それは間違いないと思う。
だけれど、自分でさえ言ったかも覚えていない思い出を、相手が覚えていたとしたら。
それは、どんな意味を持つのだろう。
俺は、その問いを満足させるだけの「答え」を持ち合わせていなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「愛莉、買えたー?」
「うん! 買えた!」
公園。
私は堀越くんに背を向けてながら声をかけると、愛莉は一目散にこちらにやってきていた。
その小さな腕の中には、缶が三つ。
一つはスポーツドリンク。これは愛莉のものだろう。最近、愛莉はスポーツドリンクにハマっているからだ。
もう一つは、オレンジジュース。これは堀越くんのものだろう。
そうして、最後の一つは──
「……おしるこ?」
見間違いようもない。
愛莉が抱えているのは、おしるこの缶だった。しかも、私が好きなやつだ。
だけど、あの自動販売機にはおしるこはなかったはずなのだが──
そんな私の考えを見透かしたように、愛莉は天使のような笑顔とともにおしるこを手渡してくる。
「はい、彩ちゃんにプレゼント! 今日もおつかれさま!」
「え……えっと、これ、私に?」
「うん、さっきのスーパーでこっそりと買ってたの。彩ちゃん、最近お仕事頑張ってるでしょ?」
ぺろりと舌を出して、悪戯っ子のような笑みをつくる愛莉。
企みが成功したからか、どこか得意げだ。
愛莉にはお小遣いを渡している。
さっきのスーパーの会計時には、目を離すタイミングはあった。
何より、もう愛莉は一人で買い物することだって簡単にできる。
だから、当然、愛莉がサプライズをすること自体はできるのだが──
私は口元を緩めながら、愛莉の頭をよしよしと撫でる。
「……もう、愛莉。そのお小遣いは、愛莉が好きなものにために使ってほしかったのに」
「ちゃんと使ってるよ? 彩ちゃんのこと大好きだもん」
言いながら、愛莉がぎゅーっと抱きついてくる。
ああもう本当に可愛い。私も愛莉を優しく抱きしめると、嬉しさのあまり持ち上げようとして──
と。
愛莉は抱きつきながら顔をあげて覗き込んでくると、不思議そうにこてんと首を傾げ。
「彩ちゃん、どうしたの?」
「え?」
「また顔が赤いよ? やっぱりおしるこよりアクエリがいい?」
ほら、と愛莉が差し出してきたのはスマートフォンだった。
といっても、子供でも簡単に使えるようにつくられたものだ。
私は日中帯は仕事で家に遅く帰るときなんかもある。そのときのためなどの連絡用として渡しているのだが──
スマホの画面に映った、自分の表情は羞恥に煽られそうなほど恥ずかしいものだった。
だって、それはまるで、恋を────みたいな表情で。
「………………ううん、大丈夫」
私はその感情を心の奥底に押さえ込むと、口角をあげて微笑む。
「愛莉にプレゼントされたのがとっても嬉しかったの。本当にありがとね、愛莉」
「──大好きだよ」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「……じゃあ、また」
「またです、堀越さん!」
「ああ、またな」
木造アパート前。
俺は水瀬と愛莉に別れの挨拶をすると、自宅へと帰った。
うちの木造アパートは決して防音性が高いとはいえない。玄関で靴を脱いでいると、隣の家からは賑やかな声と、愛莉と思われる足音がばたばたと響く。
ひとによってはそれが不快になるのだろうが、俺にとっては何故か微笑ましく思えてしまう。
それにしても、
……また、か。
俺は部屋で着替えたり、テレビをぼんやりと眺めながら思案する。
お隣さんなのだから決して変な言葉ではないのだが、妙な気分だ。
当然、これまでお隣さんやご近所さんと交流はなかった。
だというのに、今はそのお隣さんがあの水瀬で、こうして喋ることもあるなど。
高校時代には考えもしなかったことだ。
とはいえ、これ以上何かあるわけでもはずだ。
確かに、かつて好きだった高校時代の同級生がお隣さんになった。
それでも、お隣さんはお隣さんというだけで────
と。
家に帰ってから、一時間程度経った頃。
「…………ん?」
不意に、インターホンが鳴り響いた。
いったい誰だろうか?
俺が玄関の扉をあけると、そこに立っていたのは水瀬だった。
水瀬は普段着に戻っていた。
白のTシャツ。淡い色のジーンズ。以前に見た私服姿とほとんど同じだ。
だが、何故か視線をそわそわとさせながら、唇をもにょもにょとしている。しきりに腕も擦っており、明らかに何かあったのが丸わかりだった。
なかなか切り出さない水瀬を見て、俺は眉をひそめる。
「……どうしたんだ、水瀬?」
「えっと、その……君にこんなことを頼むのは、申し訳ないなって思うんだけど」
「……何かあったのか?」
あの水瀬が、俺にお願いになんて想像もつかない。
いったい何があったんだ?
俺が問うと、水瀬は何かを覚悟したような表情で端正な顔を上げた。
水瀬は自分の身体を掻き抱くように腕を回すと、むにゅっと薄いTシャツの向こうにある柔らかそうな膨らみが強調される。
やがて意を決した面持ちとともに、彼女は告げる。
「その……なんか私の家のお風呂が壊れたみたいで」
「…………もしよかったら、君の家のお風呂を貸してくれない?」
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次回は、9/18(日) 更新予定です。
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