第8話


 都内に出勤していると、嫌でも朝のラッシュに巻き込まれる。

 俺が毎朝利用している総武線は混雑率190%近く。

 だいたい本来想定の二倍近く乗車している。どうやって計算しているのかは知らないが、乗り過ぎじゃない? そりゃ寿司詰めにもなるわ。


 そんなときに大事になるのは、心を殺して無心になること。

「俺は荷物、だから押し込まれても仕方ない」と心の中で念じながら目を閉じれば、幾分か気分はマシになる。ちなみに乗車率は上がっても下がることはほとんどなく、ずっとこれ。そろそろ荷物から人間に戻りたい。


 そして、もう一つ大事なこと。

 それは痴漢対策だ。

 痴漢に間違われないようにリュックを抱えるように持ち、両手は挙げて手すりを掴む。

 この囚人のようなポーズが朝のラッシュ時間には必須だ。


 すべては誤解されないようにするため。


 現代社会では一つの誤解が命取りになることがある。それは、何も電車に限ったことではない。普段の振る舞い、SNSでのつぶやき、会社での会話、その全てだ。

 そして、誤解された場合にはそれを解くのは困難だ。

 だから、そもそも誤解されないように振る舞う必要があるのだが。







「……おじさん誰ですか? どうして愛莉のこと知ってるんですか?」




 スーパーのお菓子コーナー。

 俺に対して、その小学生は警戒心を露わにしたまま、今まさにランドセルについた防犯ブザーの紐を引っこ抜こうとしていた。


 その構えは、まるで武士の居合。今から斬り合いでも始まりそうだ。

 実際の斬り合いと違うのは、ここが道場などではなくスーパーであること。

 同じところは、一撃で相手を死に追いやる可能性があることだ。


 この小学生が抜刀、もとい防犯ブザーの紐を抜いただけで俺の社会人人生は終わってしまう。


 なんなら、近所のおばさまたちがひそひそとした声とともに訝しげな視線を向けていることを考慮すると、小学生が抜刀する前に俺は通報されて決着がつきそうだ。強すぎるだろ、その剣術。水の呼吸なんて目じゃない。


 何故、こんなことになったのか。

 話は十分前に遡る。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 俺の食事事情はというと、自炊と外食が半々ぐらいだ。

 生活に余裕があれば自炊はやるし、なければやらない。とはいえ、自炊をすると月の食費がぐっと押さえられるから、なるべくしなきゃいけないのだが。


 作るものは適当。

 一人暮らし用に小分けされた野菜盛り合わせなんかを買って、適当に肉と炒めることもあれば、一度にたくさん作っておいて冷蔵して、ちびちび食べることもある。

 ちなみに、冬はほとんど鍋だ。野菜がたっぷり食べられるだけではなく、調理も簡単なので、現状では最適解だと思う。


 そういうわけで、幸いにも早く退勤できた今日は、近所のスーパーに立ち寄っていた。


 さて、今日は何にしようか。

 牛肉には手が出ないから、豚バラあたりか。豚丼でもつくれば数日は冷蔵でも日持ちするし、調理も結構楽──

 

 と、そこで。

 

 俺の目の前を、小学生がてとてと横切っていった。

 可愛らしいランドセルを背負う、天使のような女の子だ。

 だが、その小学生には見覚えがあった。


「……愛莉?」


 水瀬が一人娘として紹介してくれた、あの女の子だ。

 顔を合わせたことはあれ以降ほとんどなく、水瀬と一緒に歩いているところを時折見かけるだけだが、間違いはないはずだ。

 しかし、


 ……一人、か?


 愛莉の後から、誰かがついてくることはなかった。

 しばらく見てても、愛莉一人だけだ。

 もしかして、迷子……じゃないよな?


「……仕方ないか」


 おつかい、って可能性もあるだろうが、ここで見逃して、実は行方不明だったなんてことが後で判明したら目も当てられない。

 第一、今となっては小学校三年生が一人でおつかいできる年齢かも、ピンとこない。多分、できるとは思うんだけどな。


 ただ、その賭けに乗りたいとは思わない。

 それならば、ここで声ぐらいはかけておくべきだろう。

 俺の心の平穏のためにも。水瀬に介抱された恩もあるわけだしな。


「よっ、愛莉」


 俺は愛莉に声をかけると、目線を合わせるためにしゃがんだ。

 可愛らしい顔がこちらに向けられる。

 そして、不思議そうにまんまるとした目をぱちくりとすると。




「……おじさん誰ですか? どうして愛莉のこと知ってるんですか?」




 と、冒頭に戻るわけだった。

 ちなみに、知らないおじさんに声をかけられた愛莉の行動は早かった。

 すぐさまランドセルにつけられた防犯ブザーの紐を小さな手で掴んで、臨戦態勢に入る。その動きの滑らかさはまるで訓練された兵士のそれだ。完全に敵扱いじゃねぇか。


 それにしても、おじさん、か。


 これぐら小さい子供からすれば、当然「おじさん」に部類に入るのは理解できるのだが直接言われるとやはりショックだ。

 自分から言う分にはまったく問題ないんだが、なんでだろうな。そして、何度か顔を合わせているのだが、まったく覚えられていないのも地味にショックだ。

 

 だから、まずは『知らないおじさん』という誤解だけは解いておかねばならない。


 俺自身の社会人生活のためにも。周囲の視線が既に痛いし……。

 俺はなるべく優しい声音で喋りかける。


「愛莉、おじさんは知らないおじさんじゃないぞ。ほら、時々アパートの前で会うだろ?」

「知らないおじさんはみんな、そう言うんですよね? 彩ちゃんがそう言ってました」

「そ、そっか。なら……そうだ。おじさん、その彩ちゃんとも友達なんだ。おじさんの話を聞いたことないか? 隣に住んでるんだけど」

「知らないおじさんはみんな、そう言うんですよね? 彩ちゃんが言ってました」


 言うわけないだろ、どんなおじさんを想定してるんだよ。怖すぎるだろ。


 そう突っ込みたい気分だったが、ここで大声を出して更に警戒させたら本末転倒だ。

 しかし、愛莉は尚も警戒したように怪訝な視線を向けてきながら。


「第一、彩ちゃんみたいな格好いいひとが、おじさんみたいな不潔なひとと友達なはずがありません!」

「不潔って……」

「おひげがぼーぼーじゃないですか!」


 それは、夕方なんだから許してほしい。

 だが……これはいったいどうすればいいんだ? 

 周囲のおばさまたちもそろそろ通報しそうな雰囲気を醸し出してきたし、本気で何とかしないとヤバいぞ。


 と。


 俺は愛莉が手に大事そうに持っているそれに気づくと、思わず言葉を投げかける。


「あっ、愛莉が持ってるそれって……もしかして、水瀬……彩ちゃんのためか?」

「えっ?」

「だから、そのおしるこだよ。彩ちゃんのために買おうとしてるんじゃないか?」


 愛莉がしっかりと握りしめていたのは、おしるこの缶だった。

 俺が高校時代に奢ってもらったそれとまったく同じものだ。

 ただのスーパーにこれが置いてあるもんだな。最近は、自動販売機ですら見かける機会は少なくなってきていたのに。


 俺が思わず懐かしがっていると、愛莉は目をぱちくりとさせて。


「え、えっ、どうして彩ちゃんの好きなものを知ってるんですか? も、もしかして、本当に……?」

「言っただろ、彩ちゃんの友達だって」

「す、すみませんでした!」


 ぺこりと勢いよく頭を下げる愛莉。

 きっと、とても素直で良い子なのだろう。

 再び上げた顔には、申し訳なさそうな感情がありありと出ていた。


 ついで、愛莉は独り言を呟くように。


「こんなパッとしないおじさんがほんとうに彩ちゃんの友達なんて……絶対に怪しいひとだと思った……」


 きっと、とても素直で良い子なのだろう。

 愛莉は俺を疑っていたことを隠そうともしなかった。……そのせいで、今、俺は泣きそうなのだが。別に自分がパッとしていると思ったことはないが、小学生に言われるのは別次元の辛さがある。


 それにしても、水瀬は愛莉のことをポロッと「しっかりしている」と言っていたが、本当にしっかりしていないか? 今時の小学校中学年ってこんな感じなの? 大人すぎない?


「あ、あのっ」

「あ、ああ……どうしたんだ、愛莉?」


 顔を上げると、愛莉が目をキラキラ輝かせてこちらを見ていた。

 さっきとは打って変わって、好意的な視線だ。

 いったいどうしたんだろうか?

 俺が不思議そうにしていると、愛莉は胸の前で可愛らしく拳を握り。


「あ、あのっ、おじさんは彩ちゃんの友達なんですよね? と、ということは、彩ちゃんの昔のこととか知ってますか?」

「知ってるけど……」


 というか、昔しか知らないのだが。

 だが、俺が腰を下ろしたままそう答えると、愛莉は唇がくっつきそうなほど、がばっと顔を近づけて。


「な、なら、彩ちゃんのこと教えてください! 愛莉、彩ちゃんみたいな格好いい大人になりたいんです!」

「そう言われてもな……」

「今なら、おじさんのお願いも聞いてあげますよ?」

「あのな。そういう問題じゃなくて、こういうことは勝手に喋っちゃ駄目というか──」

「わかりました。特別にちょっとサービスもしちゃいます!」

「何言ってんだ、お前は!」


 何故か発言が危なく聞こえるのは、俺の心が汚いせいだろうか。

 多分、肩たたきとかそういうことを言っているのだと思うが。

 まったく、もし俺がロリコンだったらどうするつもりだったんだ。もちろん、俺はロリコンなんかではないので、心揺れ動くことはないのだが。


 しかし──俺は逡巡した後に嘆息すると、彼女のお願いに了承する。


「……わかったよ、愛莉。特別に彩ちゃんの昔のこと教えてやる」

「え……おじさん、そんなに愛莉からサービスされたいんですか?」

「違ぇよ!」


 なんて危ないことを言いやがる、この小学生!

 周囲のおばさまから誤解されたらどうするんだ!


「違う違う、そうじゃなくて……普通に愛莉のお願いを聞くよって言ってるんだよ。水瀬が昔とんでもない料理をつくっていたことも、俺が知る限り全部話す。ただ……」

「ただ?」

「まずは、彩ちゃんと合流してからな。そっちが先だ」


 何があったかわからないが、いま、愛莉は一人だ。

 ならば、愛莉と水瀬を先に合わせるのが先だ。水瀬の昔話を話すつもりは毛頭ないくせに、こんな風に約束するのはやや良心は痛むが……仕方ない。


 だけれど、


 愛莉は再び目をぱちくりすると、後ろを指差す。


「えっと……彩ちゃんならいますよ?」

「は?」

「だから、彩ちゃんならいます。……おじさんの後ろに、ほんの少し前から」

「…………え?」


 おそるおそる振り返る。

 すると、愛莉の宣言通り、水瀬がにこやかで完璧な笑顔を顔に貼りつけた状態で立っていて──


「ねぇ、堀越くん。私は全然大丈夫なんだけど……一応、私の、『何』を喋ろうとしていたか教えてもらっていい?」



 明らかに怒っていた。



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次回は、9/17(土) 19時更新予定です。

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