第5話

 隣に高校時代の元同級生が引っ越してきたのを知ってから一週間が経った。

 だが、交流という交流はあれ以降一回もなかった。

 

 朝に出社するとき、水瀬と小さな女の子(確か愛莉)が出かけていく光景を見かけるぐらいだ。


 女の子は淡い色のランドセルを背負っていたから、やはり小学生だったのだろう。

 傷が少ないランドセルから考えると、おそらく低学年か中学年なのだと思う。


 一方で、水瀬の旦那については一向に見かけることがなかった。

 生活習慣が違うのかもしれない。

 決して珍しくない話だ。

 

 それに、俺だって彼女たちが出かける時間帯を狙って出社しているわけではないし、そんなことばかり気にしているわけにはいかない。

 高校生や大学生ならともかく、サラリーマンなら毎日働き続けなければならないのだから。







 そうして、一週間が経った。


 体感的には水瀬と出会ったのが昨日のようだ。

 それぐらい、社会人の時間の過ぎ方が早い。気がついたら、定年迎えてるんじゃないか。

 

 高校時代だってつい数年前ぐらいの感覚だ。

 精神的な面はあの頃からほとんど何も変わっていない。そして、毎年入ってくる新入社員が生まれた年を知って毎年小さな絶望を味わう。

 

 なんと言っても、2000年代生まれが社会人になったのはつい最近のこと。……きっと令和生まれが入ってきて絶望するのも、すぐなんだろうなぁ。


 そういうわけで、俺は金曜の夜に自宅のベランダで缶ビールを飲みながら晩酌していた。


 冬にはやってられないが、初夏の時期には涼しい風が心地よい。

 冷房もずっとつけていれば電気代が馬鹿にならない。

 こうした細かい節約が、なんだかんだ大切だ。

 

 ちなみに、今日は最終週の金曜日だからプレミアムフライデーだ。

 とはいえ、覚えているひとなんてほとんどいないだろう。

 どこに行ったんだろうな、プレミアムフライデー。俺は好きだったのに。会社では一切採用されなかったが。ちなみにサービス業に携わってるひとにとっては、プレミアムどころかただの地獄だ。


 と、俺がベランダの手すりに体重を預けながら黄昏ていると。


「よっ」


 水瀬がいつの間にか隣のベランダで同じように黄昏ていた。

 格好は白いTシャツに、淡いジーンズという前に見た服装と同じ。

 その手には炭酸水がはいったペットボトルが握られていた。何十年も続く有名な炭酸水のロゴが、ビニールに描かれているやつだ。


「堀越くんも晩酌?」

「まあな。水瀬は……それ、晩酌なのか?」


 実は炭酸水じゃなくて酒なのか?


「ううん。ただの炭酸水。でも、気分は晩酌だから晩酌って呼んでるだけ」

「そうか」

「愛莉と暮らすようになってから、お酒はあんまり飲まなくなったから」


 いつ何があるかわからないからね、と当たり前のように言う水瀬。

 その言葉には妙な引っかかりは覚えるものの、想像は難くなかった。


 俺には自分の子供がいたことはないが、小さな子供にいつ何時なにがあるかわからない不安を抱くのは理解できる。

 あらゆることに対応するために、自然と飲酒の機会は減っていくのだろう。

 もちろん、生活環境や人それぞれだとは思うが。


「でも、あの水瀬が親なんてな」


 そんな言葉が何故かポロリと漏れた。

 すかさず、彼女は冗談めかしつつもジトっとした目を向けてくる。


「なに? 私が親だとおかしい?」

「いや、そういうわけじゃないけど」


 俺たちぐらいの年齢になると、親であることは珍しくとも何ともない。28歳とはそういう年齢だ。

 しかし、水瀬彩奈が親といわれて真っ先に浮かぶのは。


「……ほら、水瀬って……その、ずぼらだっただろ」


 そう。学校一の美人。陸上部のエース。誰にもでもフレンドリーで、神聖不可侵なアイドルだった彼女の唯一の弱点はそれだった。


 これは学内では有名な話ではなかったが、水瀬と仲が良いやつはだいたい知っていた。

 俺が知っているのは、偶然にも知る機会があったからだ。


「別に。ずぼらでも親はできるから」


 闇夜でもはっきりほどわかるほど、水瀬の頬は朱色が差し込まれていた。


「まあな。でも、水瀬、料理凄い苦手だっただろ」

「そ、そうだったっけ?」

「家庭科の授業で、ガス漏らしてること気づかずに火を点けて爆発しかけたり」

「そ、そう……だったっけ?」

「卵を電子レンジで爆発させたこともあったな」

「そ、そう……?」

「時短テクとかで、鶏肉を電子レンジで爆発させたこともあっただろ」

「君、なんでそんなに覚えてるのよ」

「毎回爆発させたら嫌でも覚えるだろ」


 む、と水瀬は不満そうにジト目で睨んでくる。

 俺はそれを無視をしながら、缶に口をつけながら。


「……それに、家庭科は同じ班だったし。口封じもされたしな」


 ──ジュース奢るから。だから、絶対に誰も言わないで。

 水瀬からそんな風に念押しされたのも合わせて、しっかり覚えている。


 とはいえ、水瀬と話すまで忘れかけていたエピソードだが。

 しかし、水瀬は翌週に完璧には学習してきた。

 週を重ねるごとに、水瀬の失敗は徐々になくなっていき、最終的には家庭科の教師に褒められていた気がする。さすがの負けず嫌いだ。


「……はぁ、最悪。なんか高校時代の黒歴史掘り返されてる気分」


 水瀬は不貞腐れたような顔をして、炭酸水を煽った。


「それはお互いさまだろ。でも、もう克服したんだな。料理は絶対にできる気がしないって、高校のときに言ってたのに」

「よく覚えてるわね、そんなこと」

「あの水瀬が弱音を吐くとは思ってなかったからな」


 珍しく弱気だったから印象的だった。


「まあ、そうね。今も弱音吐くの苦手だし」


 水瀬は隠し事を探られたように困ったように笑っていた。


「でも、ずっと愛莉を一人で育てていかなくちゃいけないから、そうも言ってられなくて。気がついたら少しはできるようになってたかな」

「そっか……え、一人?」


 思わず口にしてしまう。

 対して、水瀬は己の失言を咎めるように顔をしかめていた。

 しかし、一拍の間の後、すぐに表情を戻し。


「そう、一人」

 と、静かに頷く。


「そっか」

 俺は深入りしなかった。


 元同級生の事情。気にならないといえば嘘になるが、誰だって深入りされたくないことの一つや二つある。なら、自分から聞くつもりはなかった。


 一方で、水瀬は僅かに目を見開いて目をぱちくりしていた。

 やがて、ぽつりと。


「……君、聞かないんだ」

「聞いてもいいのか?」

「ううん、あんまり知らないひとには聞いて欲しくない」


 水瀬ははっきりと断言した。

 彼女がこんな風に拒絶の意思を見せたのは高校のときにもなかったかもしれない。


 水瀬といえば、誰にもフレンドリーで。逆に言えば、誰とも敵にならないように振る舞っていたやつだ。

 だから、面と向かって壁を見せてくるのは初めてだった。

 だけれど──


「でも、堀越くんにならいいかな。別に隠すことでもないし」


 それに今はお隣さんだしね、と付け加える水瀬。

 彼女の口元は優しそうに笑っていた。

 そうして、水瀬は愛莉とのことについて語り始めたのだった。

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