第3話
高校生の頃、片思いしていたクラスメイトがいた。
それが、
幸か不幸か、水瀬は学年全体で人気がある女子だった。
美人なのはもちろん、陸上部所属でエース。
そのストイックさは学校では誰もが知るぐらい有名だった。なんでも、彼女に告白した男子が「私との練習に一ヶ月ついてこられたら」と水瀬に条件を出されて、一週間でギブアップしたという伝説があるぐらいだ。
性格はというと、男子女子分け隔てなく接するタイプだった。
とはいえ、誰とでも仲良くなるというわけではなく、数名の女子以外は絶妙に一定の距離を保っていた。
みんなから好かれているが、簡単には手は出せない神聖不可侵の学校のアイドル。
見た目は美人で冷めてそうだが、勝負事にはとことんこだわる負けず嫌い。
それこそが、俺から見た『水瀬彩奈』という女子だった。
一方で、当時の俺はクラス内で静かに本を読んでるようなやつだった。
だが、そんな俺にも、水瀬は話しかけてきたのは良く覚えている。
「堀越くんもその本、読んでるんだ」
「え? 堀越くん、テストの点数高くない? どんな勉強方法してるの?」
「今回のテストは、君には絶対に負けないから。負けず嫌いすぎる? 別にいいでしょ」
片や、学校一の人気者。
片や、クラス内ですら目立たないやつ。
俺と水瀬は同じ学校に通ってこそいたが、住む世界が違った。
直接会話したことも、連絡を取り合ったこともかなり少ない。
基本的に、俺はクラスの隅っこから、教壇周辺にいた賑やかな彼女のグループを眺めているだけ。
それでも、当時、優しく話しかけてくれる彼女に、俺は確かに惹かれていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「…………?」
目を覚ますと、見覚えがない部屋だった。
掛け布団を持ち上げて上半身だけ起こすと、枕元にあった眼鏡をかける。
布団の上から辺りを見回すが、やはり俺の家ではなかった。
六畳ほどの洋室。
家具は一つも置かれておらず、ダンボールが部屋の端っこに幾つも積み上げられている。開封作業中だったのか、カッターが放置されたままだ。
部屋自体は若干見覚えがある気もするが、こんなに殺風景ではない。
スマホを見ると、朝の六時だった。
すっかり寝てしまっていたらしい。
だが、なんでこんなところにいるんだ?
ズキズキと痛む頭を押さえながら目頭をマッサージしていると、昨日の深夜の出来事が徐々に蘇ってくる。
そうだ。昨日は確かお客さんを接待した後、職場に戻り報告書をほんの少し修正し、終電で帰り、アパートの前で吐いて──
「大丈夫?」
いつの間にか、扉が開かれていた。
その隣には、黒髪のクール系美女がお盆を持って立っていた。
切れ長の目。長いまつ毛。化粧はナチュラルで、髪は飾り気のないゴムで、ポニーテールになっている。アクセサリーの類も何もつけられていない。
服装はTシャツに、淡い色のジーンズという組み合わせ。
動きやすさのためにか、徹底的にシンプルにされた格好だ。
それでも、様になるだからさすがとも言うべきか。
しかし、明るい蛍光灯のもと改めて見るが……間違いない。
高校時代の同級生──水瀬彩奈だ。
「はい、お水。喉、乾いてるでしょ」
「あ、ああ……ありがと」
水瀬は隣に膝をつくと、水が入ったグラスを渡してくる。
おそるおそる口の中に含むと、冷たい水が五臓六腑に染み渡った。
美味い。
普通の水だとは思うが、酒でダメージを受けた胃にはちょうどいい。
「……で。改めてだけど、堀越くんでいいんだよね? 同じクラスだった堀越くん」
水瀬は興味深そうに視線を向けてきながら、そう切り出してきた。
「昨日も少し話したけど、君、酔っ払ってたみたいだったから」
「ああ、堀越であってるよ。三年三組の」
「堀越耕平くん、だっけ?」
「京也だよ」
それは少年ジャンプの先生だ。
「そっか、ごめん。私、名前覚えるの苦手だから」
気を悪くしたらごめん、と謝ってくる水瀬。
だが、十年ぶりに出会った同級生なんてそんなものだろう。
それに、水瀬と俺は深い関係あったわけでもない。ただのクラスメイトだ。
むしろ、水瀬が下の名前を覚えていた方が驚きだ。
「ちなみに、私のことは覚えてる?」
「水瀬、だろ」
「下の名前は?」
「彩奈だろ」
思わず即答する。
そして水瀬がびっくりしたように口を開けてみるのを見て、即座に後悔した。
「堀越くん、覚えてくれてたんだ?」
「…………まあ、水瀬は有名人だったから」
誤魔化すために言ったが、別にこれは嘘じゃない。
実際、俺たちの学年で水瀬のことを知らないやつはいなかっただろう。
美人で、格好良くて、そして俺みたいなやつにもフレンドリーで。彼女に惹かれないやつはいなかったと思う。
「でも、こんな偶然あるのね。なんか久々に同級生に会って懐かしくなっちゃった。堀越くんとは同窓会以外で会うことなんてもうないと思ってたし」
「俺もだよ」
なんなら、俺は同窓会にも行くつもりはなかったので、一生会うことはないと思っていたぐらいだ。
「そういえば、ここどこなんだ?」
どこか見覚えがありつつも、知らない殺風景な部屋。
喉まで答えが出かかっているような気がするが、目覚めたばかりだからか、その答えにはなかなか辿り着かない。
「……もしかして昨日のこと覚えてないの?」
水瀬は半分呆れつつ、おそるおそる訊ねてきた。
「一応、君、私と喋ってた気がするんだけど」
「悪い、昨日のことはあんまり」
改めてそう言われれば、昨日の夜に水瀬と多少は会話したような気もするが、肝心なことは何も覚えていない。
「じゃあ、あれもやっぱり無意識だったんだ」
「あれ?」
「色々言ってたわよ。仕事辛いーとか、上司辞めろーとか」
「う……」
「あとは、家で一人で寂しいーとか」
「頼むから忘れてくれ」
「家でアレクサとずっと会話してるって、ほんと?」
「頼むから忘れてくれ!」
「君、さすがに酔いすぎでしょ」
よっぽど面白かったのか、堪えきれないようにくすくす笑う水瀬。
なんで、こんな歳にもなって黒歴史をつくらなきゃいけないんだ。
よりにもよって昔好きだった女相手に。
だ、だけど、家電と喋るってみんなやってるんじゃないの? 家で寂しいときによく話しかけたりするよな? 最近のやつって応答してくれるし。
「でも、いいんじゃない?」
水瀬は壁に背を預けて座ると、うーんと背筋を伸ばした。
薄いTシャツが柔らかそうな二つの膨らみの形を強調する。
目のやり場に困り視線を逸らすと、フローリングしか映っていない視界のなかで彼女の優しい声が耳朶を打つ。
「二十八年近く生きてると、飲まなきゃやってられないときもあるし。溜め込むよりは全然良いと思うわ」
その言葉は、水瀬自身にも何かあったからなのか。
妙に実感があった声音だった。
「でも、ほどほどにね。さすがの私たちの年齢で飲み過ぎってのは、ちょっとね」
「肝に銘じておくよ」
接待だったとはいえ、二度とあんなに飲むものか。
「で、脱線しちゃったけど……ここは私の家」
水瀬は仕切り直すように言ってから、そう教えてくれた。
「言っておくけど、君自身にも了解取ってるから。あのまま、外に放り出したままにするわけにはいかなかったし。まあ、君はなんにも覚えてないみたいだけど」
「悪かったよ、それは」
それにしても……水瀬の家か。
薄々疑っていたが、やっぱりそうか。
部屋がダンボールだらけだったり、殺風景であることに違和感を覚えるものの、水瀬がそう言うなら疑う余地もない。
高校時代に好きだった女の家に、十年ぶりに再会して上がりこむのは妙な気分だが。
だけれど、ここが水瀬の家とわかった以上、長居するわけにもいかない。
「色々迷惑かけて悪かった。すぐに出ていくから」
「身体、もう大丈夫なの?」
「ああ、大丈夫だと思う」
二日酔いで頭がずきずきするが、歩くことぐらいはできるはずだ。
問題は、水瀬の家が俺の家からどれだけ離れているか。
幸いにも、今日は土曜日。
仕事はないし、多少時間がかかっても支障はない。
一刻も早く腹に何か入れて、布団に戻って眠りたい気分ではあるが、そこは我慢だ。
だが──
不意に鳴る、ぐ〜と間抜けな音。
発信源は俺の腹だった。
「……えっと」
水瀬は迷う素振りを見せたあと、苦笑いしつつ言う。
「せっかくなら、うちで朝ごはん食べていけば? ちょうど準備してたところだから」
==============================
次回は、9/6 20時更新予定です。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます