第2話
社会人をやっていて最も虚しい瞬間の一つは、終電で帰宅するときだ。
当然、終電で帰れているだけでマシな方ではあるとはわかっているが。
「……疲れてるな、俺」
最終電車の座席は、ほんのり温かった。
電車内はガラ空きで、同類のサラリーマンたちがぽつぽつと間隔を空けて座っている。
対面の窓ガラスには、顔色が悪そうな男の顔が映っていた。
天然パーマでややもっさりした髪型。悪い目つきを隠すような眼鏡。酔っ払って今にも吐きそうな顔をしているサラリーマンの姿がそこにはあった。
まあ、俺なんだけど。
視線を下げると、「アカバシステム」という会社のロゴとともに「
朦朧とした意識とともに、慌てて通勤用のリュックに仕舞う。
どうやら、会社からずっと付けた状態で帰宅していたみたいだ。
個人情報全開で、セキュリティも何もあったもんじゃないが。
……やっぱ、疲れてるんだろうな。
なにせ、この数日は激動だった。
まずお客さん先に納品した機器が故障したことから始まり、徹夜で報告書を書き上げ、上司に詰められた後は、お客さんに「誠意を見せろ」と言われて本社まで出向。
景色がよい上層階の会議室で頭を下げつつ、散々怒鳴られ、最後には「今後ともご贔屓に」と上司とともにお客さんを接待だ。
しかも、上司とは違って、俺みたいな下っ端は接待が終わった後も、酒が入ったまま職場に戻って報告書を直す必要なんかもある。
そうして出来上がったのが、今の俺だ。
「…………うぷっ」
不意に込み上がってきた嘔吐感に、慌てて口を抑える。
既に最寄り駅には到着し、自宅までの帰路の途中だった。
俺が住んでいる街は、千葉県の江戸川近くにある街だ。
中学生ぐらいから住んでいる地元で、高校のときには自転車で通っていた。
だが、不幸にも、ここから現在の自宅である築三十年のアパートまでの間にはコンビニすら一つもない。
ということは、最低でも自宅まで我慢しなければいけないということだ。
こんなときに、自宅で誰か待っていれば。
社会人生活をしていると、唐突にそんな虚しい妄想をすることがしばしばある。
多分、高校や大学生の同級生たちが、狙ったかのようにSNSに続々と披露宴の写真を挙げていることも原因の一端だろう。
中学生の同級生に至っては子供がいるやつだっている。
数年前は「へぇ、あいつが」と驚きもあったが、今はもうない。
それが、二十八歳社会人の現実だ。
一方で、俺はというと、結婚相手どころか彼女もいない。
そもそも、仕事ばかりで出会いの場すらない。
じゃあ、「職場で見つければいいだろ」と大学の同級生から言われるが、はっきり言って無茶だ。
入社当初はそんな考えもアリかと思っていたが、社内恋愛で別れた先輩職員を見て考えが変わった。
こっちも気を遣わなきゃいけないし、仕事がやりにくすぎる。社内恋愛をするなら、せめて部署が違うところしてほしい。
そんな俺が最後に女の子と付き合ったのは大学生の頃。
それも、一ヶ月で別れた。
原因は覚えてないが、お互いに一時的に盛り上がった関係性だったからだろう。
それより前には、高校生の頃に少しだけ仲がよかった同級生がいたが、それはノーカウントだ。あれは付き合ってすらない。
でも、その高校生のときが恋愛に最も積極的だったかもしれない。
片思いの相手は、学年全体でもトップクラスで可愛いといわれる同級生だった。
あのときは席が彼女の隣になったり、メールをもらっただけで一喜一憂していた気がする。
たかがメールであんなに感情が揺れ動かされるなんて、今では信じられない話だ。まあ、上司から「この案件よろしくな!」とメールで無茶振りされたときには、イラッとするのだが。
特に納期が一週間もない絶賛炎上中のプロジェクトのヘルプなど、突然入れないでほしい。明らかに死地じゃねぇか。死ねってか。
話が脱線した。
つまり、まとめると、周囲が結婚していくなか、俺は相も変わらずおひとりさまで仕事ばかりというわけで。
……なんのために生きてんだろうな。
別に、誰かと添い遂げる人生だけを肯定しているわけではない。
幸せの形はいくらでもあるだろう。
だけど、俺に限って言えば、誰もいない暗い家に足を踏み入れたときに、背筋が寒くなるような孤独感に包まれるときがある。
そんなときにふと思うのだ。
ああ、「おかえり」が欲しいなと。
「……女々しすぎるな」
アルコールが徐々に抜けてきたからだろうか。
思考がぐちゃぐちゃで、後ろ向きなことばかり考える。
不味い、寒気すらしてきた。
「────」
気がつけば、俺は自宅のアパートの前で嘔吐していた。
鼻の奥でつんとした匂いが充満する。同時に情けなさと惨めさがごちゃ混ぜになって、足元から崩れ落ちそうになり────
「大丈夫ですか?」
背中が摩られた。
温かい手だった。
優しい女性の声とともに上下にゆっくり撫でられ、身体を巡っていた気持ち悪さが抜けていく。
「これ、どうぞ」
一頻り吐き出した後、ティッシュが差し出された。
俺はそのティッシュで口を拭う。
その頃には嘔吐感はなくなっていた。
「……すみません、ありがとうございました」
しかし、いったい誰だろうか。
このアパートの住人はだいたい顔見知りだが、この声は聞いたことがない。
俺は冷静になりつつある思考とともに顔を上げ。
「…………え?」
「…………え?」
いや、ちょっと待て。嘘だろ?
瞬きを何回もするが、目の前の光景は変わらない。
相手も俺に気づいたのか、同じようにぱちくりしている。
最後に見たのは高校の卒業式。
その頃から比べると、ぐっと大人びている。
こんな僅か数秒で確信できるはずがない。
だが、わかった。
何故か、彼女であるとわかってしまった。
「……もしかして、
「……ということは、やっぱり堀越くん?」
電灯の寒々しい光が点滅する。
酒に酔っぱらって嘔吐、という人生のなかで最高クラスに情けない瞬間に。
自宅のアパート前で、俺は高校時代に片想いをしていた彼女に再会した。
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次回は、9/5更新予定です。
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