この気持ちを忘れるために

潮珱夕凪

この気持ちを忘れるために

 朝、カレーパンを温めて食べる。だってカレーパンを食べていた君の素朴な笑顔が忘れられないから。


 昼、グミを買う。だって君が好きでよく食べていたグミだから。これを食べれば君の感じた味をなぞれる。


 夜、十一時半ぴったりに寝る。だって君はその時間に決まって寝ていたから。そうすれば私は君を合法的に思い描きながら寝れる。


 ああ、こう考えていると、自分の存在とか人生とかすべてが馬鹿馬鹿しく感じる。私、海崎美夏かいざきみなつの行動一つ一つの動機すべてが「君」だ。一人だと何もできない。いつも君の幻影を追って生きている。君のことを忘れようとしても無駄だった。私の一挙手一投足が君に結びついてしまい、気が付いたら頬を涙が一筋、二筋と伝っている。


 このままでは私がだめになってしまう。


 私たちの家から、君の暮らしていた気配を残したまま、君は死んだ。


 それはあまりにも突然のことだった。前置きはなくても、無言の事後報告はあったのが悔やまれる。どう悔めばいいのか分からないのにさ。


 電気が消えた、狭くて暗い部屋。硬くて黒ずんだソファーに一人座る私の横顔を、カーテンの隙間から漏れ出る街灯だけが照らしていた。


 何も感じない。本当につらいときは、人間何も感じないものだ。でも、何も感じないからこそ自分が今傷ついていると分かってしまう。自分の感情を抑えて、堪えて、隠して、無視をするのにも限界が来る。


 置いてある抱き枕を手元に寄せるなり、私は彼に涙をなすりつけ始めた。抱き枕を、強く、きつく抱く。「痛いよ、苦しいよ」そんな彼の声が聞こえた気がする。だから、もっと強く、きつく。彼の形が変わって戻らなくなってしまうぐらいに。


 この痛みを分かってほしい。受け止めてほしい。彼と私がコミュニケーションをとれないことは分かるのに、どうしてこんなことをしてしまうのだろう。理由もなく彼を傷つけてしまう私がすごく嫌いだ、大っ嫌いだ。救われようのない私は、ひたすら彼に涙や、ぐちゃぐちゃになった感情すべてをぶつけていた。


 ―――彼が死ななかったら良かったのに。


 私のたった一つの願い。もう叶わないのはわかる。でも―――


 この上ない「悲しみ」が私を思考停止させているのか。私の指は“もし”の世界を見ることができるアプリ「コンティニュー」のアイコンへと導かれていった。


 ―――もし彼が死なないでいてくれたら。生きていてくれたら。


 彼が生きている世界を見ても、虚しさが募るだけなのは分かる。分かっていて今、触れようとしている。私が仮に幸せでも、その未来は永久に叶うことがないし、仮に不幸せでも、君とのきれいな思い出に傷が入るかもしれないだけだ。でも、なんで。


 私は君がいる世界を見たい。君をまだ感じていたい。まだ干渉させてほしい。もう少しでいいから、君の人生に関わっていたい。そのためにあとひと時でも時間が欲しい。


 アプリが立ち上がる。注意事項に軽く目を通す。

「当アプリをご利用いただいても、あなたの過去や未来が変わることは一切ありません。」


 ―――分かってる。


「当アプリはパラレルワールド、すなわちあなた方の人生の“もし~だったら”という、別の分かれ道を見るためだけのものです。あなた方の現実とは、今後一切関わりはありません。」


 ―――分かってるって。


 下までスクロールして、チェックボックスにタップし、同意する。画面が次に切り替わる。アドバイザーに電話できる画面だ。アドバイザーに電話することで、“もし”の世界、パラレルワールドを目にすることができるらしい。すぐさま「電話をかける」ボタンに触れる。


「プルルルル・・・」


 聞こえるのは呼び出し音と私の強い鼓動だけ。生きている彼をもう一度見ることができるかもしれない、という興奮と緊張と幸せが私の鼓動を速めていた。電話がつながるまでの時間はとても長く感じられた。


「コンティニューの専任アドバイザーの川野です。お電話ありがとうございます。今回は、どのようなご用件でしょうか。」


 深呼吸する。そして息を吸う。

谷窪祥たにくぼしょうが死ななかった世界を見せてください。私、海崎美夏の大切な彼氏なんです。」


 言っていて頭がおかしくなりそう。これは倫理的に大丈夫なのか。「見せてください」と言っている自分が嫌になるし怖い。迷いでいっぱいになっていると、アドバイザーの川野さんの声がした。


「わかりました。お調べしますのでしばらくお待ちください。」


 川野さんがそう言うと、場違いに楽しげな保留の音楽が電話口から流れてきた。

 三分ぐらい経っただろうか。音楽が切れ、川野さんの声が聞こえてきた。


「依頼人のあなたは海崎美夏さん、二十四歳。三日前に亡くなった谷窪祥さんと同棲していた。お間違いないですか?」

「はい。」


「五分以内に映像の手配をいたしますので、それまでVRゴーグルなどをご準備してお待ちください。それでは。」

 そう言って電話は切られた。


 VRゴーグル。引き出しの一番手前に入っていた。君は絶景をVRでよくこれを着けて眺めてたよね。


 ―――いつかいっしょに行けたらいいね。


 耳がまだ君の声を覚えていて、離して忘れてくれない。それと同時に優しく微笑むあの笑顔が思い出されてしまう。


 あと三分間、この感情の渦に耐えないといけない。感情を殺して、淡々とゴーグルの中にスマホを入れ、装着する。君が着けていたゴーグルを今日初めて着けるのはなんだか感慨深い。君がいた、という事実に改めて触れて、胸がいっぱいになって涙が溢れそうだ。


 私はソファーに深く腰掛け、その時をただじっと待つ。


 映像が流れ始めた。美夏と祥くんが二人でケーキに向かい合わせで座っている。ケーキの上の薄い板のチョコレートをじっと目を凝らしてみると、「みなつ二十五さいおめでとう!」と書いてある。


 ―――そっか。一か月後は私の誕生日だ。


 悲しむのに必死で、今まで忘れていた。君が生きていれば二人で大切な日を祝えたんだ。そう思うと胸がゆっくりとしぼんでいくのが分かる。


 美夏と祥くんはバースデーソングを歌い出す。控えめで、溶けて消えてしまいそうな美夏の歌声に、祥くんの堂々とした歌声が対比されている。でも不思議とよく馴染んでいて、「唯一無二」と表現すべきかもしれない。


 歌い終わると、美夏は大きく息を吸って、ろうそくを吹き消した。一息でろうそくが全部消えたのが何とも見ていて心地よい。その時だ。祥くんが彼自身の背中に手を回したのが見えた。


「美夏」


 短くそう呼び、彼は小さな白い箱を開いて、彼女の方に手を伸ばす。


「二十五歳の誕生日おめでとう。生まれてきてくれてありがとう。これは僕の気持ち。美夏に永遠の愛を誓います。僕と結婚してくれませんか。」


 私は息を呑んだ。指輪に向かって伸ばした手は、空気さえ掴むことができないという現実に引き戻される。違う違う、映像に集中しないと。


 美夏の涙は彼女の頬をゆっくりと濡らし始める。そして、小さく頷く。頷くだけだと伝わらないから、言葉にする。伝えようとする。


「もちろん。祥くんのことを愛しています。」


 そこで映像は終わった。見終わった後、私は大泣きに泣いていた。久しぶりに、美しいものに触れた。君が死んでいなければ、とか、生きていれば、とか思うのはやめにしよう。君が死んだという事実は変えられないけど、私が君に愛されていたという事実もそれと同時に変えようがない。その真実に気づけてよかった。


 たっぷりと余韻に浸ったあと、思い出を心の奥底にしまうように、VRゴーグルを元の引き出しにしまう。すると、見覚えのある白い小箱が目についた。私の目がかっと見開かれた。


「祥くん・・・」


 反射的に声が漏れ出た。久しぶりに呼んだ名前。


 小箱を両手で包み、胸の前に持ってくる。肌が祥くんと私の鼓動をはっきりと感じている。目を瞑れば、目の前に祥くんの気配が蘇る。大好きな人がいてくれている気がする。この気持ちは消化しないと前に進めない。だから、せめて、今。これで最後だから。


 目を瞑ったまま、静かに小箱を口元に近づける。柔らかな唇に、硬い小箱が触れる。また涙が筋になっては流れ、私の皮膚を濡らして伝う。その瞬間、君の姿が、笑顔が、言葉が、走馬灯のようによぎっては消えていく。


 その間も、星明かりは微かに私を照らし、私の心を温め続けていた。

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