パピヨン

増田朋美

パピヨン

9月になったというのに暑い日だった。なんでこんなに暑いんだろうと思われるくらい暑い。こんな暑さの中、どこかに出かけるというのも、返って酷なのではないかと思われる。そうなると、ご飯を作るのも何だか面倒くさいという気がしてしまう気がしてしまう。よほど料理好きな人でなければ、ご飯を食べるというのも、面倒くさくなって、買ったもので済ませるとか、どこかのレストランに行って食べてこようとか、なるんだろう。

それが出来るのは、健康で元気な人に限られるのは、あまり知られていない。ましてや、病人にとっては、こんな暑さでは、疲れ果てて余計に辛くなってしまうのかもしれない。

「おーい、ご飯だぜ。今日は、冷たいパスタにしたよ。今日はそんなに辛くは無いし、細いカペリーニだから、食べられるよ。」

なんて言いながら、杉ちゃんが四畳半にやってきた。ふすまを勢いよく開けると、中には由紀子さんがいて、一生懸命水穂さんの背中を擦っていた。

水穂さんは、疲れてしまったらしくまた咳き込んでいた。

「あーあ、またやったのね。また頓服を飲んで休むことになるのかな。ほら、これのみな。」

と、杉ちゃんは水穂さんに、水のみを渡した。水穂さんはそれを受け取って、中身を飲み干した。由紀子が、急いで水穂さんの口元を拭いてあげると、いつもどおりにちり紙が真っ赤になった。

それと同時に。

「こんにちは、ちょっと聞きたいことがあってこさせてもらったわ。ちょっと、教えてちょうだいよ。右城くんも、杉ちゃんも。」

と、玄関先で声がした。

「おう、何だ。今、お取り込み中なんだ。なにかようでもあるのかな?」

杉ちゃんがでかい声でそういうと、

「ようならあるわよ。なければこんな暑い日に、わざわざ来たりしないわよ。ほら、ここなら、着物のことなら何でも教えてくれるから、中にはいって。」

と、言いながらやってきたのは、浜島咲だった。それと同時に、可愛らしい感じの女性が一人やってきた。咲も彼女も、色無地の着物を着ている。単衣の綸子の着物である。もう九月も過ぎてしまったので、絽はきてはいけないとか、苑子さんがそういったのだと思われる。こんな暑い中に、いくら単衣とはいえ、着物を着てお稽古に行くなんてちょっと厳しすぎるのではないかと、杉ちゃんも由紀子も思ったのだった。

「はあ、ふたりとも、綸子でよく光る生地の着物を着るんだな。こんな暑い中ちゃんと長襦袢も着て、すごいじゃないか。厳しい指導なんだねえ。」

杉ちゃんがそう言うと、

「まあね。この時期はいつだってこうよ。綸子の色無地が、一番理想的だって、苑子さんがよく言うから。色無地は、お稽古ごとには理想的なんですって。それで、みんな色無地を着ているんだけど、彼女が今日苑子さんにひどく叱られてたから。なんで怒られなきゃいけないのか、わかんないから、理由を聞きに着たのよ。ちゃんと柄の無い色無地だし、綸子の生地でもあるし。彼女、上條祐実さんの着物、どこが悪いか教えてやってちょうだいよ。それとも、帯の結び方が悪かったのかしら?普通に、一重太鼓しているけど?」

と、咲は早口に言った。

「まあ落ち着けよはまじさん。えーとねえ、まずはじめに、着物の柄というか地紋がまずいんだ。地紋に蝶がついている。この着物は、ひまわりが地紋になっていて、ひまわりだけなら問題ないんだが、蝶がついていると、縁起が悪いということで、特に商売やっている人は、蝶柄を嫌う。」

杉ちゃんがそう言うと、

「蝶柄のどこが行けないのんでしょうか?なぜ、縁起が悪いのか教えてください。私、ちゃんとお琴を習いたくて、弟子入りしたんですから。」

と、上條祐実さんが言った。

「そうだねえ、上條さん。蝶は日本では不吉な印というか、蝶は、短命なので黄泉の国の使いとか、まっすぐ飛ばないので、意思が弱いとか、そういう事を、言われてしまう可能性があるんだよ。」

杉ちゃんが解説すると、

「そういえば、平将門が反乱を起こしたとき、京の都に蝶の大群が押し寄せて、大変なことになったと文献で知りました。」

と、水穂さんが、静かに言った。

「お前さんは、はやくねろ。薬が回って、自動的に眠れるんだから。」

そう言われるよりも早く、水穂さんは薬が回ったのか、ウトウト眠ってしまったようである。由紀子が急いで布団をかけてあげた。

「まあそういうことだから、お琴教室では、蝶柄は使えないよ。きっと縁起が悪いと思われて叱られたんだと思うよ。もし、可能であれば、縁起の良い、柄のオンパレードの御所解文様とか、そういうのを買ってみると良いよ。このお着物は、別の用事のときに着用すると良いよ。」

杉ちゃんはにこやかに解説した。

「そうですか。ありがとうございます。それでは、御所解文様とは、どういうものでしょうか?その柄を、柄の無い色無地に、どうやって使うんですか?」

上條さんは、すぐに杉ちゃんに言った。

「だからねえ、地紋というのは、染めて入れる柄ではなく、布を織ったとき、織りだされる柄のことだ。着物の格というのは、作るときにどれだけ手間がかかるかということで決まる。つまり、大掛かりな細かい柄の染め物であったり、織るときに細かい柄を織りだしたりすることだ。それが着物全体にびっしりはいっているかにより、格が高くなる。それだけ手間がかかっているということだからね。京小紋より江戸小紋が格が高いのは、どちらも同じ柄を繰り返して入れているのは共通だが、江戸小紋の方が細かくて、遠目からだと色無地に見えるというトリックを使っているからだと言うことによる。」

杉ちゃんが、そう解説すると、上條祐実さんは、一生懸命、手帳にメモをしていた。

「随分熱心に勉強してるんですね。」

由紀子が、そう言うと、

「はい。私、免状目指しているんです。おとなになってから始めたけど、ちゃんと資格を取りたいって思ってて。そのためには、ちゃんと叱られないで、着物を着こなして行きたいと思いますので。だから、出来る限り理想の着物を着て行きたいと思うのですが、ちっとも苑子さんに首を縦に降って貰えなくて。」

と、上條さんは決断をこめて言った。

「なるほど。そんなふうに真剣に習いたい気持ちがあるんなら、ついでに縁起の悪い柄としてよく挙げられる柄を教えよう。蝶ばかりではなく、椿や桜なども、縁起が悪いとして、結婚式とか、お稽古ごとでは禁止されることがある。桜は散る、椿は花ごと落ちてしまうので、縁起が悪いとされるんだ。」

杉ちゃんがそう言うと、上條さんは桜と椿も、縁起が悪いので使用禁止と、しっかり手帳に書いた。

「ありがとうございます。今日は良いこと教えていただきました。これで、お稽古に蝶柄の着物を着ては行けないと言われた理由がやっとはっきりしました。とても嬉しいです。これからは縁起の悪い柄を着ないように気をつけます。」

「はいはい。着物は、ルールが多いので、気をつけて着てね。難しいと思うけど、着物を深く知ると楽しいよ。着物はリサイクルで安く手に入る時代だし。だから、色々試してみて、着物を楽しんでください。」

熱心にいう上條さんに、杉ちゃんはにこやかに言った。

「なにか、参考になる本があるといいですね。ちょっと着物の疑問点が湧いたら、直ぐ調べられるような本が。なにか、お稽古ごとの着物とか、そういう参考書は無いものでしょうか?着物の初心者の方なら、そういう本があってもいいと思うけど。インターネットで調べるという手もありますが、情報が多すぎて返ってわからないでしょう。」

と、由紀子が言った。由紀子にしてみれば、早く帰ってもらいたかった。水穂さんを休ませてやりたかったのだ。いくら、着物のことで知りたいことがあったのだとしてもアポイントも入れずにやってきて、長話をしている咲や上條という女性が、ちょっと嫌だったのだ。

「そうねえ。あたしもその手があると思ってね。本屋をぐるぐる回ったのよ。だけど、苑子さんが言う、理想の着物の本は、どこにも売ってなかったの。フォーマル着物の専門書で探してみたけど、そうなると振袖のこととか、訪問着の事ばっかりで、色無地の着こなしとか、格っていう順位の決め方が、良くわからないままで終わっちゃったのよね。結婚式とか、お茶会用の着物の本は、色々あるけど、お琴教室に着物を着ていくという設定で、着物についての本はどこにも無いのよ。」

咲がすぐに言った。

「ああ、そうかも知れないね。今は着物のルールもなかなか緩和されているから、今どきそんな綸子が理想的で、小さな柄がびっしりはいっているやつが一番だなんて主張するお琴教室はどこにも無いよ。歌舞伎座で一等席と二等席で着物を変えることだって、知っている人は少ないんじゃないの?」

杉ちゃんがそう言うと、咲もそうそうと言って頷いた。

「そういうわけだから、口で言われたのを覚えるしか無いのよ。だから、参考になる本なんてどこにもない。誰かお琴を習っている人が、ウェブサイトで着物のことを書いてくれればいいけれど、探しても見つからないわよ。あーあ、全くなあ。あたしも、そういう着物の本があればほしいくらい。」

咲がそういう事を言うのだから、多分、資料がどこにもないのだろう。

「まあねえ、今の時代は、着物を着るだけで礼装っぽく見えちゃうからさ。着物で一重太鼓すれば、もうオッケーだという人も多いからな。何の着物をどこへ着ていくかは、あまり、重要じゃないかもしれないね。振袖や、留め袖以外なら、何でもいいっていう場所や本の方が多いだろう。掃除じゃなくて、色無地をちゃんと着たい、江戸小紋をちゃんと着たい、そういう人をターゲットにした本は、今の時代、皆無と言っても良いぞ。」

杉ちゃんがそれについて付け加えた。まあ確かに、着物は現在着ようと言う人が少ないから、ルールに絞られてしまうと、余計に着る人がいなくなってしまうということで、それでルールを緩和させているからな。それに和洋折衷コーデなるものも流行っているし。そういう時代のなかで、正当に着物を着ようなんて言う人は、むしろ、少数民族と言えるかもしれないぞ。だからねえ、そういう人向けの本というのは、なかなか無いと思うぞ。」

杉ちゃんが、咲の話に言った。

「そうなると、昔の本であれば、そういう事が載っているのかしら?」

不意に由紀子が、そう発言した。

「うーんそうねえ。あたしも、それを狙って図書館に言ってみたんだけどねえ。そういう本は、どこにも無いわよ。きっと大正から昭和くらいの本でないと、載ってないってことじゃないかしら。それに、大正とか昭和では、着物を着るのがまだ当たり前で、ルールブックがなくても教えてくれる人が周りにいっぱいいたし。」

と、咲はすぐに由紀子の発言を打ち消した。

「それなら、古本屋さんへ行ってみたらどうかしら?図書館においていないような珍しい本が、すごい安い値段で入手出来る事ができるって聞いたわよ。」

由紀子は、東京に住んでいた頃を思い出しながら言った。確かに神保町の古本屋にいけば、本は大量にある。

「そうねえ。この富士市にあるかしらねえ。古本屋なんて。ここは神保町とは違うし。」

と、咲はため息を着いた。

「わたし、検索してみる。富士市内に古本屋さんがあるかもしれないじゃない。」

由紀子はスマートフォンを出して、富士市古本屋と検索をかけてみた。確かに神保町のように、古本屋が連立している場所は無いが、でも、中島というところに、個人商店の古本屋が見つかった。店の名前は、パピヨン。変な名前の店だけど、読み終わった本を買い取りますとホームページに書いてあったので、古本屋であることは間違いない。

「えーと、中島だけど、車でいけば30分程度のところに古本屋があるわ。そこへ行ってみたらどうかしら。こういうところなら、着物の昔の本が売っているかも。」

由紀子は、地図を指差した。

「どうもありがとう。じゃあ、それなら、わたしちゃんとお礼しますから、そこまで車を走らせていただけませんか?私、運転免許を持っていないんです。」

すると、いきなり上條祐実さんがそんな事を言いだした。

「ああ、それがいい。由紀子さんお願いしても良い?善は急げだし、早く本を買って、ちゃんと着物のことを勉強して、これからはちゃんと着物を着られるようにしていけばいいよ。」

杉ちゃんに言われて、由紀子は嫌な顔をした。

「私からもお願い。ちょうど今日は用事があるのよ。それなら由紀子さんにちょっと運転してもらって、連れて行ってもらってよ。由紀子さんお願いします。」

咲にまで言われてしまったら、由紀子は行くしかなかった。

「支度をしてまいります。」

と言って由紀子は、カバンを取った。そして、

「じゃあ、上條さん行きましょう。」

と、嫌な気持ちを押し殺して、上條祐実さんに言った。二人は、立ち上がって、製鉄所の玄関を出た。由紀子の車は、ポンコツの軽自動車ではあるけれど、一応カーナビをつなげるようになっていたから、電話番号を検索して、そのパピヨンという店にいってみた。

その店はブックオフのような大きな店ではなく、普通の個人商店より少し大きな感じの店である。しかし、売っているほんの数は、今どきの言葉を借りれば、半端ないという言葉がよく当てはまり、売りだなの上に大量に本を置かれていた。

「はい、いらっしゃいませ。初めてのお客様ですね。なにか、本がご入用ですか?」

と、レジ代わりのそろばんの前に、一人のおじさんがいて、二人に声をかけた。

「それとも本の買い取りとかそういうものですか?」

「いえ、それではありません。こちらに着物の本はないかどうか、お伺いに来ました。」

由紀子がそう言うと、上條さんの方は、夢中な顔をして、本を探し始めた。

「お宅のような店は、本を買い取って販売していると思うんですが、その中に着物の本がはいっていませんでしょうか?出来る限り、古い本がほしいのです。できれば、大正から昭和の始めくらいに、出版された本が良いのです。着物で、お琴教室に行くときの、着物に着いて載っている本が良いのです。」

由紀子は事情を説明した。上條さん、挨拶ぐらいしなよと思ったが、一生懸命上條さんは本を開いて中身を確かめて、これにも載ってないか、あれにも載ってないかと言いながら、いちいち本を片付けていた。

「着物の本が必要なの?」

おじさんに言われても上條さんは、答えない。だから由紀子が答えるしかなかった。

「はい。彼女お琴教室に通っているそうですが、そのときに着ていく着物について、記述されている本を探しているんです。」

と、由紀子は、急いでいう。

「はいはい。それでは、この本はいかがですか?かなり昔に出版された本ですが、かなり参考になるかもしれませんよ。」

おじさんは、売りだなから一冊の本を取り出した。由紀子は上條さんに本が見つかったわよ、とそっと声をかけた。

「この本なんだけどねえ。ある著者が着物についてのエッセイを12本載せている本なんだが、お琴教室にきていく着物という章がありますよ。」

おじさんが上條さんに本を見せた。確かに大変古い本で、文字が文語体で書かれているくらい古いが、ちゃんとお琴教室には色無地で行くようにという記述があった。それによると、楽器より派手にしないという意味で、演奏者は色無地を着る事が義務付けられているらしいのだ。そんな事、由紀子も知らなかった。上條さんは、その本をしげしげと眺めた。

「たった一章だけですけれど、お琴教室のことに着いて記述がありますね。ありがとうございます。じゃあ、この本買ってもよろしいでしょうか?お幾らですか?」

と、上條さんが言った。おじさんは、

「どうせ、売れる見込みが無いので、500円で結構です。」

と、にこやかに笑った。

「ありがとうございます!」

上條さんは、500円をおじさんに渡した。

「じゃあ領収書はいりますか?」

上條さんはハイと答える。おじさんは、領収書を取り出して、本代500円と書き込んだ。そして、それを丁寧に上條さんに渡した。上條さんは、それと本をにこやかに笑って受け取った。

「ありがとうございました。とても嬉しいです。やっと参考になる本が見つかりました。」

上條さんがとてもうれしそうなのを見て、由紀子は、なんだか気持ちが変わった。彼女は、店にはいっても挨拶もしないで、一生懸命本を探していたところを見ると、相当悩んでいたのだろう。

「良かったですね。上條さん。」

とりあえずそれだけ言って、由紀子は、店を出た。上條さんもありがとうございましたと丁寧に言って、店を出た。そして、由紀子と上條さんは、また軽自動車に乗る。咲から、彼女を自宅まで送り届けるように言われていた由紀子は、住所を教えてくれといったが、上條さんは、富士駅が近いので、そこでおろしてくれれば大丈夫と言った。富士駅は由紀子も知っていたから、帰りは、カーナビの設定をしなかった。とりあえず、由紀子は車のエンジンを掛けて、富士駅へ向かった。

「ねえどうして、お琴教室に行こうと思ったんですか?そんなに一生懸命着物のルールを守ろうとして。」

と、由紀子は上條さんに聞いている。

「あたしは大学を出てから、就職するところがなくなってしまって、それでどこかに自分の居場所を見つけたいって思って、それでお琴を習い始めたんです。それで、頑張って、師範免許とか、そういうものも目指したいと思ったんです。」

と、上條さんは、にこやかに笑って、由紀子に言った。純粋な顔をした彼女は、その顔に嘘は無いということがわかった。それを見て由紀子は、今日は彼女を古本屋パピヨンに連れて行って上げて良かったのかなと考え直した。そしてこれからもあの店へ連れて行ってあげられたら、良いのになと思った。

外はもう暗くなっていた。少しずつ秋に近づいてきているんだということがわかる空模様だった。



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パピヨン 増田朋美 @masubuchi4996

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