第44話乙女は惚気、姫と盗人は黙る
六月一日の午後四時。日が傾き、白い太陽に橙色の光りが混ざる時間。アネモネは三日ぶりに教会へと帰ってきた。
本日は大変な一日だった。愚妃の計画では午前中に国王であり父でもあるムスカリへと報告を終えて正午をすぎたころに教会へと向かおうと思っていたのだ。だというのに、男爵であるサルビア・グラジオがアネモネを朝食に誘った。これで朝の八時から一時間ほどが経った。これで帰宅できると思ったが、ツユクサがもっと話をしたいと我が儘を言い出した。だが、最初を思えばずいぶんと積極的に話しかけてきてくれたことに感動を覚えてついつい話し込み、果てには屋敷の案内兼探索をして時刻は十一時。お城に戻って十二時。ここまでは良かった。
お城で昼食を食べた。その時にどのような事が起きたのかを事細かに説明させられた。ツユクサとの仲が半月ほどは良くなかったことでも耳に入ったのだろう。どのような経緯で仲を深めることが出来たのかや、途中でスズラン・グラジオがクレームを手紙で入れてきたこともムスカリに聞かれた。だから、懇切丁寧にかつ正直に、それはもう、その時ばかりは誰よりも清い心を以って説明した。母から口が汚いとたしなめられたのはご愛敬だ。ここでだいたい午後の一時半を回った頃だろう。
さて、昼食を食べ終えた後はなんと、報告書なるものを書かされた。どこで誰にどのようなことをどのように教えましたと何故あんなにも長ったらしく書かなければならないのか。しかし、案外簡単に書くことが出来た。これで午後二時。
そしたら、今度はグラジオ家に向けて手紙を書けと言われた。報告書をまとめる時に一緒に言えよと思った。これで十分。スズランへの思いがないと王直々に言われたため、書き直してさらに十分。まだ幼い妹が駆け寄ってきたため、遊んでやり、四十分。報酬を王からもらうために大広間にドレスに着替えて向かい、さらに着替えて合計して三十分。時間としては午後三時三十分。やっとの思いで帰路につくことが出来た。
アネモネは伸びをして石畳の上を歩いて行く。何かを成した達成感と自分の力で得た報酬である十六万エル。これらを手にしたアネモネの気分は最高潮に達しており、緑の草花があまりにも綺麗に見える。
無意識に綻びてしまう顔を叩き、しかし笑い声まで溢れだしてくる。今にもスキップをしてしまいそうだ。上機嫌も上機嫌。アネモネは浮かれながら教会の玄関の扉を開いた。
「ただいま! 帰って来たわよ」
快活にそう叫ぶ。エントランスにいた子供たちがおかえりと言葉を返してくれる。リリィほど信頼はされていないから群れを成して子供たちが近付いて来ないことを少々残念に思う。だが、それでも有頂天になっている愚妃は笑顔を湛えながらとりあえず水を飲みに行こうと廊下に続くドアを開いた。
さして長くない廊下を抜け、食堂へと通じているドアに手をかけたとき、話し声が聞こえた。そっと耳を傾けると、声の主はリリィだとわかる。そして、時折小さな声で相槌を打っている人もいる。こちらはクリスだろう。リリィが話に耽るとは珍しい。いつもは子供たちの相手をしてとても忙しそうにしているのに、今はマシンガンとまでは行かないが、言葉が留まることを知らないようだ。
何といえばいいのか。リリィは自分から話題を振ってくることは多いのだが、そのどれもが教会や人のためを思っての相談などがほとんどだ。その時の声の調子はよく物事を捉え、人のことを第一に考えているからか静かな印象を受ける。しかし、今の彼女の声はどうだろうか。まるで、キラキラとしたものを見つけ、それを共有したがっている純粋な少女のようだ。年齢を考えれば年相応なのだが、今までの印象とまったく違うことから、アネモネは何があったのか疑問が湧いてくる。まぁ、とりあえず入らないことには始まらないからアネモネはドアを開いた。
「ただいま。今帰ったわ」
キッチンにいたのは予想通り、クリスとリリィだった。二人はアネモネを見ておかえりと言葉をかける。
「アネモネちゃん、お仕事どうだったの?」
「そうねえ、私個人としては最高の終わり方が出来たと思っているわ」
「さっすがアネモネちゃんだね!」
どうしたのだろう。やはり、いつも以上に彼女のテンションが高い気がする。人のことをよく見て話題は相手にとって重要な事、とここまではいつものリリィなのだが、声が三オクターブほど高く、さらに子供のように、ひいては年相応の晴れ晴れとした笑顔をこちらへと向けてくる。いつもはお淑やかに花園に水を撒いている姿が似合いそうな彼女がだ。
「ねぇ、アネモネちゃん、聞いて聞いて?」
さらに、いつもは消極的な彼女から自分の話を聞いてほしいとは。これは何かがあった予感がする。
「どうしたの?」
アネモネはキッチンへと向かいながら尋ねる。アネモネがコップを取り出している間、リリィは蕩けているのかとでも思うほどにだらしない声を上げていた。そして、愚妃がコップに水を注ぎ始めたとき、リリィは喋った。
「それがねぇ、今日ねぇ、私ねぇ、運命の人に出会っちゃったのぉ」
その時、アネモネの手からコップが落ちた。木製のコップがいやに大きな音を立てて落ちたなと思った。
「アネモネちゃん?」
返事がなかったからだろう、リリィが愚妃を呼んだ。そのため、アネモネは気を取り直してコップを拾った。
「大丈夫よ。コップを落としちゃっただけ」
「そう? 良かった。それでね、その人とはね、占い屋さんの人から聞いたとおりに出会えたの」
アネモネはまたコップを落としてしまった。再度リリィから声をかけられるが、大丈夫だと言葉を返す。
「私がね、車道に出ちゃってね、引かれそうになっちゃったところをその人が助けてくれたの! それで心配だって言って私を教会まで送ってくれたの。本っ当に優しくてね、土曜日にデートしないかって誘われちゃった」
興奮してリリィは甲高い声を上げる。嬉しそうでなによりだ。アネモネは食堂とキッチンが隔てられていて助かったと思った。今のアネモネの、もう何とも言い難い、ただただ、リリィの夢を壊したくないから、口を固く結んで我慢をしているこの顔は、クリスがみたら共感してくれるだろう。
「……そ、う、とてもいい人なのね。それで、名前とかは聞いたのかしら?」
「うん。アサガオ・チェリーさん。歳は十五歳なんだって。一歳しか違わないのにすごく大人びていてかっこいいの!」
純粋な少女の言葉があまりにも心に響く。響くというか、責任として重くのしかかっているような感覚だ。我慢できずにアネモネはリリィに言った。
「それって……ううん。そういえば、エントランスで皆が遊びたがっていたわよ。行ってあげたらどうかしら」
「そうなの? わかった。それじゃあ、行ってくるね」
純粋な少女はスキップしながら部屋を後にした。
部屋に残ったのはアネモネとクリスである。二人は胃もたれでもしたかのように唇を真一文字に結んでいる。数秒後、アネモネは重い口を開いた。
「ねぇ、クリス。貴方、大丈夫かしら?」
「……大丈夫」
かろうじて返事があった。良かった。彼は無事なようだ。
「……一応、聞きたいんだけど、占いをしたその日に運命の人なんかに会えると思う?」
「占い自体はよくわからないけど、聞いた感じ、将来の予想みたいなもんだろ? それを踏まえると、まずありえないな」
「やっぱり、そうよね。あと、占いの理解はそれでだいたいあっているわ。それじゃあ、リリィの会った人はまず間違いなく……」
「さくらだな」
「さくらね」
二人は声がそろったことに思わず笑い、その後、同時に重いため息をついた。そして、まったく同じことを思った。どうしよう、と。
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