第42話坊ちゃんは見送り、姫は戻る
喜ばしいことに、アネモネの咆哮のような泣き声に家中の人がよってきた。最初にやってきたのは父、次いで兄。二人は絶句していた。まぁ、そりゃそうだよね。昨日、ものすごく立派だった人が今、子供みたいにギャン泣きしているのだから。
ちなみに助けを求めたら、真っ青な顔の父が、どこに行ってもついて行くから安心しろ、と言ってきた。この親父、僕がアネモネさんに粗相をして泣かせたと思っている。それで牢獄とか嫌だって。
何とかアネモネから解放されたのは午前九時ごろだ。二時間以上、抱きつかれていたから参ったものだ。しかし、泣き止んだ瞬間にアネモネさんがいきなり行儀よく謝るものだから、状況をうまく理解できなかった。僕、父、兄、そして執事やメイドの方々も呆気にとられて開いた口が閉じなかった。そんな僕たちを首を傾げながらアネモネさんは見ていたけれど、僕からしてみればアネモネさんの切り替えの速さのほうが驚きだ。
そして現在、時刻は午前十時。だいたい八時ごろにはアネモネさんは馬車に乗っていたから二時間も遅刻だ。だというのに、すまし顔で焦る様子もなく玄関に来たから、彼女の噂は間違いではなかったことがわかった。流石はじゃじゃ馬姫だ。
「それでは、お世話になりましたわ」
アネモネさんは茶色のワンピースをつまみ、足を引いてお辞儀する。
見送るのは僕と執事、メイドだ。僕たちは頭を軽く下げた。いつもは家族全員が玄関に赴くのだが、父は仕事があるようで来れず、兄はその手伝いだろう。母が来ないのは……きっと二人の間で何かがあったからだと思う。しかし、言っては悪いが、母がいないから何も苦しくない。
「また明日、楽しみにしています」
僕は純粋に気持ちを吐露した。そしたら、アネモネさんは何故か悲しそうに笑った。
「ええ、私も楽しみよ。でも、私はクビになってしまったわ。だから、もう今日で終わり。申し訳ないけどね」
今、何といっただろうか。クビになった? アネモネさんが?
僕は冗談だろうと笑ってしまったが、当の本人は表情を変えない。ということは真実なのだろう。
「え、な、なんでですか。もしかして、僕のせいですか?」
「いいえ、これは私のミスよ。ちょっと、貴方のお母様に失礼なことを言ってしまったのよ」
そんな、と悔しさが言葉として出てきた。これは絶対に昨日、僕が食卓から逃げたからアネモネさんが我慢できなかったに決まっている。僕のせいではないか、と罪悪感が背中にもたれかかってくる。
だが、アネモネは気にしていなかった。
「別にいいじゃない。私は確かに仕事をすることが目的できたけれど、最終的に目的が変わってそれは達成できたから、満足して帰れるわ」
アネモネさんは笑顔だった。何だか、納得がいかない。こんなに僕に親身になってくださった方なのに、こんな終わり方は嫌だった。何か、もっと話がしていたかった。今頃だけど。だから、僕は話しかけた。
「アネモネさん、最後に聞いてもいいですか?」
「ええ、何かしら」
真剣な僕の瞳が笑顔のアネモネさんを映した。
「母様はアネモネさんはたったの一年で様々な稽古を完璧にこなせるようになった。でも、その後すぐにじゃじゃ馬姫とか、ぐ、愚妃とかと呼ばれるようになったと言っていました。どうして、ですか?」
僕の質問はあまりにも抽象的だった。だから、アネモネさんが目を丸くして、怒っているような顔をして考え込んでしまったのは仕方がないのかもしれない。しかし、十秒ほど考え込んだアネモネさんの表情は諦めたような、受け入れてしまったような顔だった。口元は笑っている。だから、余計に悲壮感があった。
「そうねぇ、おじいちゃんの死を感慨もなく受け止める皆の顔が嫌いになったから、かしらね」
せっかく、アネモネさんが答えてくれたのに、僕は何も言えなかった。しかし、さして気にしていないアネモネさんは振り返って玄関に向かおうとする。
「まぁ、わからなくていいことよ。稽古、頑張りなさいね」
アネモネさんは最後の最後まで笑顔だった。僕は、大きなものを背負ってしまった小さな背中を見た。持つものがここにいる誰よりも多いのに、その背中は綺麗だった。
「ありがとうございました。また、会いましょう!」
僕は叫ぶように伝えた。アネモネさんは右手をひらひらと振った。
「ええ、またね」
アネモネさんは馬車に乗る。走り出した馬車を僕は最後まで見送った。僕は、誰よりも尊敬してしまう人を、目標を見つけた。
話は少々変わるが、アネモネを実際に雇ったのはグラジオ男爵だ。ツユクサの母であるスズランではない。つまり、翌日の午前十時。
「さて、始めましょうか」
「はい!」
早すぎる再開を喜ぶ二人は笑顔で向き合った。
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