第41話姫と坊ちゃんの胸の内
やってしまった、やってしまった! まったく、無能はどちらだと愚妃は頭を抱えながら廊下を駆ける。現状を考えると、こみ上げる思いを我慢して残り一週間、講師として働くことが自分の未来にとっても、そしてなによりもツユクサにとっても正解だったのだ。何も言わなければあのゴミの言葉は気にするなと声をかけることができた。彼の心の傷も、完璧ではないが癒すことも出来たはずだ。私は、失敗したのだ。虚しくなるだけの喧嘩をして。
だだっ広い屋敷が嫌になるほど時間が惜しい。早く行かなくては。だが、行ってどうするのか。何ができるのか。出来る事をするのだ。何ができるのかがわからなくても行くことが正しいのだと思う。しかし、なにになる。無様な姿を晒した自分が彼になんて言葉をかければいいのか。
知らないわよ。
あれこれと心配事を頭に浮かべてはポジティブに考え、それを繰り返すうちにツユクサの部屋の前にたどり着いた。気が動転しているアネモネは半狂乱に鍵のかかったドアを弄る。何だか、ツユクサの隣にいてあげなくてはいけないような気がしたのだ。だが、いけない。ドアを何度も叩いてツユクサを呼ぶ。
「ツユクサ、大丈夫よ。私がついているわ! だから、怖がる必要なんてないのよ」
何故この言葉を選んだのか。何一つ理解できない。彼が何に怖がっているのかなんて知らないし、私がついていても問題は解決できるわけではないのだ。だけど、言わなくては。言葉をかけなくてはならないのだろうと感じた。
「だから、部屋に入れて頂戴。確かに、私のせいで貴方は責められてしまった。私を信じたくないのはわかるわ。でも、たった一瞬だけ、少しでいいから、私を信じて頂戴!」
だが、扉は開かなかった。もう、何を言えばいいのかわからない。わからないわよ。数秒程扉の前で俯くことしか出来なかった。
「信じて、どうするんですか?」
扉の向こうから声が聞こえた。震える声、それは不安、自信の喪失、自暴自棄、全てが集約しているのだとわかる。信じてどうするのかだって。私が聞きたいわよ。だから、言葉が詰まった。
「もう、何も出来ないんですよ。僕はどうしようもないんですよ! だから、何をしようと、何を信じようと意味なんてないんです。ううん、意味なんてなかったんですよ」
「そんなことは」
ないとは言えなかった。
「貴方にできることは……ないです」
ツユクサは言った。だから、アネモネの心の硝子は砕けた。愚妃は喪失感により、膝から崩れる。ドアにおでこをつけ、それでも諦めたくない思いが口を閉じることをさせない。
「ごめん、なさい」
だけど、愚妃の口から出てきた言葉は愚かにも意味がないと認める、否定を肯定してしまう言葉だった。もう、何もできる気がしなかった。
一日が経った。時刻は午前六時半。ツユクサは目が覚めた。虚無感が体に纏わりつく。何もしたくない。だが、目が腫れて何か気になる。口の中も気持ち悪い。
泣いたからか、少しは楽になったため、洗面台に行こうと考える。顔を洗い、歯を磨いたら、部屋に戻って寝よう。きっと、明日のことを考えて、不安になるのだろう。だが、きっとそれに安心するのだろう。
起き上がって部屋を出る。長い廊下に差し込む朝日が白く、気持ちのいい朝なのだと思う。憂鬱に、活力を絞りながら一歩一歩を踏み出して歩く。
思えば、自分はアネモネを傷つけてしまったのだろう。最悪な気分だ。昨日、あの場から逃げたことよりも、日々、アネモネとの会話を上手くつなげることが出来なくて悩んでいる時よりも、なによりも、なによりも、最悪だ。吐きそうだ。昨日の必死な声を聞いて、前みたいに否定してしまって、でも気にせずにまた笑いかけてくれるのだろうと確信のない期待に安心して。そして全てが壊れてしまって。
自分が醜くてたまらない。この、誰もいない廊下に安心してしまって、角を曲がれば誰かが来てしまうのではないかと怖がって。もう、どうでもいいや。きっと、この不安も恐怖も、なくなってくれるから。全部忘れてしまえたらな。
ツユクサは深いため息をついて、洗面台に向かった。余談だが、この屋敷の洗面台は男女兼用だ。トイレの隣に部屋があり、そこにはポンプと幾つかの小さな桶がある。この部屋は屋敷に一つだけではないから、客室から離れたこの部屋に来る人はツユクサと家族くらいしかいない。
つまり、ツユクサが部屋を訪れたとき、目の前に客人がいれば驚くわけで。それがもし、昨日傷つけてしまった姫であったならば、呆気にとられてしまうわけで。ツユクサが部屋に入ると同時に、後光に照らされながら歯を磨く、寝ぼけた顔のアネモネの横顔が目に映った。ずっと、映っていた。
「え?」
驚きは言葉にもならない声として出され、それが彼女の耳元まで届いてしまう。彼女は目元を擦りながら、こちらを向いた。嫌な顔をされるのだろうと思った。罵倒されるのだろうと思った。ツユクサの予想はある意味正しかった。
彼女は気まずそうに目線を合わせながら、変な笑みを浮かべて口を開いた。
「あら、おはよう」
彼女にしては珍しく、弱弱しくてはっきりとしない挨拶。弱った別の生き物を見ているようだ。
だから、ツユクサは逃げようと体を反転させた。こんな風に彼女を変えてしまったのは自分であり、それだというのに、何故か自分の目の前にいる。はっきり言って、怖かった。
「ま、待って!」
弱弱しいのに、意志がこもった声。彼女の声に反応して、ツユクサの体が固まる。振り返る勇気はない。だって、何を言われるのかわからないから。彼女が何を思っているのかわからないから。お前のせいだと罵倒しに来たのかもしれないから。腹いせに殺されるとも思った。彼女はそんな人ではないとわかっている。だが、怖いのだ。
だからかはわからないが、自分を否定する言葉よりも彼女を突き放すような言葉が口から出ていた。
「な、なんでわざわざここまで来たんですか。客室から遠いじゃないですか。僕に文句を言うためだけに来たんですか?」
「そ、そんなわけが」
「いいですよ、正直に言っても。僕は貴方に何を言われようと文句の一つも言えないようなことをしたんです。でも、そんなことのためだけにここまで来ないでくださいよ」
ツユクサは体が震えているのだと自分でもわかった。あんなに優しかった彼女に、何故こんな感情を抱くのか。会話もろくにできない自分にいつも話しかけてくれた彼女には感謝してもしきれないのに。何だか、自分がどうしようもない奴に思えて嫌だった。
後ろでは何をしているのだろう。彼女は何を思い、どんな目で自分を見ているのだろう。それを考えるだけで頭が痛くて、視界が真っ黒に染まっていく。どうしてこんなことになってしまったのか。どうして自分はこんなに愚かなのか。きっと、母の言っていたことは現実となる。そんな自分は何をやっても意味などないのだろう。そう思った。
ふと、足音がした。後ろにいる彼女が自分のすぐ傍まで近付いてきたのだ。何をするのか、何をされるのか。不安だった。そんな時、衣擦れ音がした。何の音かと気になった時には、肩には何かが載っていて、横を誰かの腕が通っていく。その腕は、ツユクサを抱くように組まれていた。
誰かが、いや、彼女が自分を後ろから抱きしめている。何故かわからない。罵倒されるというのに、何故、暖かさを感じる彼女に抱かれているのだろう。怖かった。それだというのに、心臓はゆっくりと動いている。何故かはわからなかった。だから、彼女が不意に耳元で言った言葉は予想外のものであり、それがツユクサを救った。
「知ってる? 城下町にはね、いつも窓から顔を出して大声で叫んでいる人がいるのよ」
「……何の話、ですか?」
「どうでもいい話」
アネモネは小さく息を吸ってまたどうでもいい話をした。
「いつも野菜を買いに大通りの八百屋に行くの。そこの店主はいつも快活な声で最高に輝いて見える笑顔を皆に振りまいているの。格好よくないかしら?」
「え、ええ、格好いいです」
「私の親友にリリィって子がいるんだけど、彼女は借金取りに追われて娼館で働いていたの。今は借金なんてないけど、それを二か月もよ。すごくはないかしら?」
「……ええ、すごいです」
「私の親友にクリサンセマムっていう子がいるの。長い名前はさておいて、彼は人から物を盗んで生活していたの。でも、改心して今は清く真っ当に働いているわ。偉いでしょ?」
「確かに偉いです。でも、それがなんなんですか」
不安だった。これを聞いて自分の何を見ているのかが気になってしまって、落ち着かなかった。だから、聞いた。そしたら、彼女はなんて言ったと思う?
「ごめんなさい、話していないと不安なの。貴方が私のせいで嫌な思いをして、それで貴方が私を見限ってしまうんじゃないかって。怖かったの。貴方に怖がる必要はないなんて言ったのに、それは自分を安心させるための言葉だったのね。本当に、自分勝手でごめんなさい」
アネモネの胸の内を聞き、ツユクサは驚いた。だって、自分と全く同じ心情で緊張なんて言葉が生ぬるい程の恐怖が今、体全身を蝕んでいるというのに、彼女は、自分に会いに来たのだ。それって、何だか、自分が酷く惨めじゃないかと、坊ちゃんは思った。
「なんで、僕なんか放っておいても……」
言いかけてやめた。理由は、泣いている声が聞こえたからだ。声を押し殺すような泣き方。そして、ツユクサの言葉に答えようと口を開いては、嗚咽して言葉を詰まらせて。本当に、僕が惨めじゃないかという思いがこみ上げてくる。だから、僕は謝った。
「ごめんなさい。僕なんかのために、ここまでしてくださって……僕もアネモネさんみたいに、不安だったんです。誰も、僕を受け止めてはくれなかったから。だから、アネモネさんが近くにいて、何度も話しかけてきてくれて。こんな嬉しくて、幸せなことなんかなかったですよ」
だから、とツユクサは続けた。
「僕は、アネモネさんを嫌いになんか、なりませんし、なれるわけがないじゃないですか」
僕は、涙を流した。そして、初めてアネモネさんと笑顔で話すことが出来たような気がする。
アネモネさんの腕に力がこもる。少し苦しいのに、それが気持ちよくて、心地よくて、今までどこにいても感じることができなかった安らぎが全身から湧いてくるようだ。
アネモネは安心して、ツユクサの肩に顔をうずめた。
さて、真面目な話に水を差したくないが、坊ちゃんの背中を愚妃は抱いている。それも力強く。それでは、二分の一成人している彼が背中に押し付けられている柔らかいものに思うものとは果たして。
「あの、アネモネさん、背中にあたっているんですけど」
恥じらいであった。すっごい鼓動が速い。恐怖なんかよりも心地がいいくせして超苦しくなるような感覚。アネモネは聞こえているのだろうか。いいや聞こえていない。足から力が抜けて僕たちは床に腰を下ろす。アネモネさんは今、顔を上げた。かと思うと子供のように大声を出して泣き始めてしまった。
「うえぇぇぇぇぇぇぇぇ! よがっだぁぁっぁぁぁぁっぁ!」
「アネモネさん? アネモネさん!?」
頼りになる姉のような存在だったから、すごく驚いたツユクサであった。
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