第40話坊ちゃんは逃げ、姫は嫌う
それから十六日が経った。時刻は午後の七時。夕食の時間だ。今日はグラジオ男爵に招かれる形でディナーとなるため、アネモネは嫌々ドレスを着る。こんなこともあろうかと、母が持たせていたのだ。面倒だからと断ったのだが、馬車に無理やり押し込まれた。アネモネからすれば不運であったが、今の状況を考えると幸いなのだろう。母には感謝したくないが。明日は休みだから、リリィたちに愚痴を聞いて貰おう。
執事が食堂へと通じるドアを開く。広い食堂の中心には長いテーブルがある。教会のものと比べるとやはり綺麗で高価なテーブルの上には五人分の食器がある。他にも絢爛な椅子やシャンデリア、左の壁には絵画が飾られている。反対側には花園が覗く窓がある。
既にツユクサ、兄、母が席に着いていた。執事に案内され、グラジオ男爵が座る端の席の隣、窓側に座る。間もなくしてグラジオ男爵が暖炉を背に椅子に座る。
「待たせてしまいました。申し訳ありません、アネモネ様」
「いいえ、グラジオ男爵のなさる仕事を考えると、謝罪することなどありませんわ。それに、私は講師として雇われている立場です。こうしてお食事に招いていただき、光栄ですわ」
「こ、光栄なんて、そんな」
男爵は咳ばらいをして食事を促した。夕食はローストビーフのようだ。肉は久しぶりに食べる。城でもそれほど多くは口にしていないことに加え、教会では質素なスープばかりを食べていた。そんなアネモネにローストビーフはたまらない。食欲を誘う香辛料と肉汁の香りに我慢できず、だがマナーを守ってナイフとフォークを手に取る。ナイフで切り、フォークに刺して口に運ぶ。噛み応えのある肉の触感に堪らず、ほっぺが落ちてしまいそうだ。
「料理が口にあったようでなによりです」
男爵がアネモネの様子を見て言う。アネモネはもう少し肉の美味しさを堪能したかったが、何も言わないのは失礼であるため、嚥下して口を開く。
「えぇ、とても美味しいですわ。お肉なんて、久しぶりに口にしたんですもの」
談笑を交えつつ食事をする。城にいる時はさほど多くは家族と食事をしていなかったため、新鮮に感じる。
「そういえば、ツユクサの稽古はどうですかな。順調に進んでおりますか?」
談笑をするなら当たり前、この話題が出るだろうと思っていた。だが、焦ることなどない。なにせ、順調も順調、現状は汽車が敷かれたレールの上を行くのと同じようなものだ。
「えぇ、何一つ問題はありませんわ。ツユクサ様は真面目に稽古事をなさって下さいます。今後の成長が楽しみですわ」
「……今後の成長とは?」
訝しむような男爵の視線。横目にツユクサを見たが、手が震えていた。これからのことを考えると上手くなるのかが心配なのかもしれない。まぁ、基礎だけで本当にいいのかといった具合の心境だろうか。どうせ人生はありったけの暇な時間が内包されている。数年ほど練習すれば大丈夫だ。
「私が稽古をつけるのはたったの一か月のみ。私が教えられるのはそれこそ根底を担う基礎だけですわ。けれど、なによりもその基礎こそが大切なのです。私はその基礎こそをツユクサ様に教えていますわ。そして今後、私が指導者でなくなったとしても、成長が止まらぬよう、さらに上達できるよう、様々なことを教えていますわ」
愚妃は自信満々に言い切った。アネモネの言葉に男爵は気圧される。やはり、自信は説得を後押ししてくれる。少々時間がかかってしまうということを了承させた上で長い間を見守ってほしいと暗に伝えることは出来た。これで懸念はなくなった。失敗する未来が見えない。アネモネは将来を思い、余裕の笑みを作った。要は調子に乗ってしまったのだ。だから、突然の出来事の想定をすることが出来なかった。
「本当に大丈夫なんでしょうか」
言葉を発したのは誰か。男爵か、それとも兄か。違う。ツユクサの母だ。
「どうしたのでしょう、スズラン様。何か、懸念がございまして?」
「えぇ、大ありです」
こちらもまたきっぱりと言った。自信とは説得を後押ししてくれる。本当に成すのだろうという思いを自信は引っ張ってくれる。だが、逆に不安も説得を後押ししてくれる。本当に成すのだろうかという思いを不安は誘う。先の見えない未来に抱く感情はこの二つで間違いない。どちらも人を惹き付けてしまうが故に
「ツユクサが稽古を始めたのは一年前からです。しかし、現状を見ていただければわかるでしょうが、ツユクサは下手なままなのです。そんな愚息が上手くなる姿は想像ができませんわ」
アネモネは失態を晒してしまった。
「その心配は無用と言ってもいいでしょう。ツユクサ様が上手になれなかった理由は基礎ができていなかったからですわ。どんなことでも土台は重要でしょう。それを不安定なままに練習をさせていても上手くできるわけがないのです。上手くできるのはそれこそ天才と呼ばれる方々のみでしょう。土台さえしっかりと整っていればツユクサ様もいずれは一流と呼ばれる方となるでしょう」
「あら、アネモネ様は楽器の演奏はもちろん。ダンスや勉学もこなす一流、つまりは天才だと窺っておりました。そんな貴方が時間を必要としているのですね」
アネモネは首を傾げた。何を言っているのかよくわからない。上達するために時間を要するのは必然だろう。だというのに、天才に時間は必要ないなんて、意味がわからない。
「……どういうことでしょうか?」
「アネモネ様は楽器の演奏やダンス、勉学に礼節、様々なことをマスターしておられると伺いましたわ。だいたい五年間も習い事をなされていると聞きましたが、真面目に稽古をし始めたのは十一歳になった頃だと伺っていますわ。聞くにも堪えないような演奏をしていたと噂されていたアネモネ様が誰の心にも響くような音色を鳴らすと噂されるようになったのはその後、たったの一年後のこと。身勝手なじゃじゃ馬姫と噂されたのはそのさらに三か月後。私の勘で申しますが、その真面目に行っていた一年間以外は何もやっていないに等しかったのではないでしょうか。私が言いたいのは、ツユクサよりも多くの習い事をなさっていたアネモネ様に愚息を天才にして欲しいということですわ」
真剣な表情をするスズランに困惑する。何を言っているのだろう。理解しにくいことを言っているが、どうも彼女の剣幕が言葉に意味不明の説得力を帯びさせている。ようやく動き出した男爵と兄がスズランを止めようと動く。だが、止まる気はないと彼女の態度が表している。
「先ほども言いましたが、土台さえしっかりしていればツユクサ様は一流になれますわ。後は時間を有して毎日こつこつと鍛錬を積むだけですわ」
「ですから、それで本当に足りるとは思えないのです。一年もかけたというのに何一つ上達しなかった愚息が社会に出る残りの時間で上手くはなりませんわ。ツユクサが社交界で失敗をする想像をするだけで夜も眠れませんわ」
何故か、納得出来た。ツユクサが失敗をすることにではない。恐ろしいほど早く講師の仕事が舞ってきたことや、男爵の責めるような口調。点と点をつなげれば、始まりに来るのはスズランの不安と真剣な面持ちではなかろうか。
「ツユクサの兄を見てください。とても良く出来ているでしょう。彼になら何一つ心配を感じませんわ。けれど、ツユクサはあまりにも駄目。メイドと執事に貴方たちを監視させていたのですが、上達していると言っておりました。だから、一度聴きに行ってみました。そしたら、なんですか、あれは。人に聴かせられるレベルではないではありませんか」
さらにわかった。兄と比べていたのは、男爵ではない。彼女だ。スズランの方だったのだ。本を読んでいても兄は……と言っていたから勘違いをしていた。油断をしていた。非常にまずい。話の収集がつかないことにより、ツユクサが家族から責められ続けるのだ。
こっそりとツユクサを見ればやはり俯いていた。あの時と一緒だ。
「この話はやめにしましょう。食後に話せることですから、今は食事と談笑を楽しむことのほうが重要だと思いますわ」
男爵も兄も頷く。二人ともアネモネに賛同してくれる。だが、スズランは首を横に振る。
「いいえ、息子の話以上に重要なことはありませんわ。まず、その愚息がいったいいつになったら上手くなるのかをしっかりと伝えてもらわなくては……」
「だから、そんなことは今でなくても説明できますわ」
「今でなくてはいけません。ツユクサは貴方のプロセスを理解してその道を歩まなくてはならないのです」
「納得していないのはスズラン様だけですわ。なら、食後に二人で」
「なぜ他が納得していると思っているのよ。少なくとも、ツユクサが今の話を聞いただけで理解しているとは思えませんわ」
なんて面倒くさい人なんだ。話を理解している以前に、この話に興味を持っているのはこの女性だけではないか。流石に、もうツユクサも限界ではないのか。だって、将来の不安をこうして意味もなく長々と引き延ばされているのだ。このままでは埒が明かない。
「私が前から方針を決め、それについての説明はすでにツユクサ様に行っています。ツユクサ様もそれに頷いてくれましたわ」
「貴方が無理やりに押し付けたのではないのですか? そんなことで愚息が上手くなるとは思えません」
アネモネは舌打ちを我慢した。
「どの口が……ツユクサ様は優秀ですわ。それに、自分で考えて動くことが出来ます。そんな彼を愚息などと見下すのはやめて欲しいのですけど」
「論点がずれていますわ。私はツユクサの将来のことを話しているの。それと、こんな愚息が優秀なわけがないでしょう? 話を聞かずにいつも俯いていて、貴方はツユクサが自分で考えられるとおっしゃっていたけど、逃げる事しかしないではないですか。そんな息子は愚息と呼ばれて当然なのです。愚息は愚かなことしかしないから、愚息と呼ばれるもの。貴方だってわかるでしょう、愚妃と呼ばれているのですから。愚か者は愚か者、貴方にも変わる機会を私は与えて上げているというのに。やはり、間違えたのかしら。愚息の足を引っ張るのは同じく愚か者。なら、ツユクサが愚かという言葉から抜けることなんてない。愚息は愚息らしく、日々を愚か者として生きる意外に道はないのでしょうね」
はっきりと、人には見えない彼女は言い切った。
その瞬間、ガタンと音がした。机が何かにぶつかり、上にある食器類が震えた音だ。思わず隣を見る。隣にいた、堪える日々しか送ってこなかった坊ちゃんの唇は震えていた。そして、ツユクサは逃げた。
アネモネは席を立ち、ツユクサを呼ぶが振り向かない。同じように、スズランも彼の名前を叫ぶが止まらない。その様子に、怪物はため息をついた。
「まったく、これだから愚息は駄目なんです。もっと礼儀をわきまえなくてはならないというのに」
そう、怪物は口にした。低くて、不安と確信のこもった口調。彼女の言葉に、何故か首肯してしまうこの部屋の者たちは重くて持ちあがらない何かを心臓に置かれたような緊張を覚えた。
そんな、王宮以上に厳粛な装いをしている部屋の雰囲気の中、アネモネはゆっくりとスズランに目を向けた。瞳に映るのは誰よりも知的な皮を被った怪物。手にはナイフとフォークを持ち、あまりにも綺麗に見えるだけのマナーで食事をしている。目には悲哀、それから不安。今でもわからないのだが、彼女は何を悲しみ、何を不安に思っているのだろうか。
彼のことを理解して声をかけることが出来なかったのは誰か。彼女だ。スズランだ。全てをぶち壊したのは誰か。彼女だ。他の誰でもない。何もかもをクズ箱に放られた。ゴミのくせしてゴミを生成したのだ、このクズは。人の気持ちを、感情をなんだと思っているのだろう。何もわからないで、何もしてあげられないで、何も何も何も、何も……。
「愚息なんて放っておきなさい。席に戻って食事と談笑をすることが重要なんでしょう」
怪物はさも、愚妃の願いを聞いて上げたかのように、気を使ったかのようにそう言った。
私は、こんなことがこの先で起こるはずもないだろうと生き続けた。そんな人生に終幕を。もう、どうでもいい。私は、人生で二回目、久方ぶりに他人のために怒りを覚えた。
短く息を吸い、長く息を吐く。その間に起こったことは何もない。静寂が世界を包んでいる。私は、面倒臭くなった。
「グラジオ男爵。それから、お二方とツユクサ様と食事を出来たこと、誠に光栄でかつ、良い時間を過ごさせていただきましたわ」
「あら、残してしまうのですか?」
勿体ないとでも言いたいのだろうか。まぁ、どうでもいいか。
「えぇ、せっかくの豪華な食事はお城にいたとしても数多く経験するわけではありませんわ。食べたいのは山々ですけれど、話の中心となるツユクサがいないくては意味もないでしょう」
「確かにそうですわね」
「最後に、スズラン様に伝えたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
「えぇ、私もぜひ聞きたいですわ」
怪物は馬鹿を見る目をしていた。
初めての仕事は失敗か、とアネモネはフッと笑った。
「最初にありがとうと。貴方が理不尽を強いなければ、私は今のままだった。仕事もいただけたことには感謝がつきませんわ。次に良い仕事だったと。あまりにもたくさんの経験をすることが出来ましたわ。そして、最後に」
アネモネは中腰だった背筋を伸ばし、最高の笑顔を向けた。
「貴方がいるべき場所は豚小屋よ、ゴミ」
怒りのこもった声はこの部屋にいる者たちの耳に確かに届いた。アネモネの言葉を聞いたスズランは瞠目した。それが、その間抜けと表現しても足りないほど阿呆な顔に、愚妃はお腹を抱えて笑ってしまった。
愚妃の笑い声を遮って、怪物は怒鳴った。
「な、人に向かって何をいっているのよ!」
「人の心を踏みにじる天才的な社会のゴミが行くところは豚小屋よ。理解できるかしら? できないでしょうね。小さいどころか入っているかも疑わしいその頭では、協調性は皆無と言えるし、なによりも人に同情することすらできないのでしょう。あぁ、可哀そうだわ。実に可哀そうで実に不愉快だわ。私の目に映るだけで死を宣告してしまいそうなほどに。豚小屋にいい医者がいるわ。彼の薬は一級品よ。更生したとか嘘をついて孫が出来ても足を洗わなかった同類のクズだけれど」
「なんてことを。私はツユクサを思って頑張って」
「どこがよ。未来の彼のようなまがい物を見てツユクサを責めただけでしょう? 何も価値がないその幻想に騙されて馬鹿みたいに信じ切って。本当に救えないクズね。豚小屋にいるよりも豚の餌になったほうがまだ有意義ではないかしら。あぁ、それだと駄目だわ。貴方という名の病原菌に侵される者がいるというだけで吐き気がするわ。唯一貴方がしたことで誇れることは私をこの屋敷に呼んだことだけだわ。よく一ミリグラムもないであろう脳みそで考えられたものだわ。褒めてあげる。だから、この成功を糧に地べたを這いつくばるのね。それでは、失礼するわ」
アネモネはドレスをつまんで足を後ろに引く。小さくお辞儀をして廊下へ続くドアへと走って向かった。愚妃がドアを開いた時、スズランは怒鳴った。
「少しは更生したと国王殿下から聞いたわ。でも、そんなことはなかったのね、愚妃。クビよ!」
アネモネは血走った瞳をスズランに向けた。愚妃は口を開き、たった一言だけ告げる。
「無のうが喋っているわ」
そして、ドアの向こうへと消えていった。
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