第39話姫は飛び込み、坊ちゃんは続く
廊下を駆けてツユクサを追う。しかし、屋敷が広いことが災いしてすぐに見失ってしまった。仕方がなく廊下を歩いて屋敷内を探し回ることにした。
執事とメイドに坊ちゃんの行方を伺う。すると、皆親切に答えてくれたから、時間はかかったものの、見つけることができた。廊下の角を曲がると長い廊下にツユクサが立っている。大きな窓から夕焼けの赤い日差しが彼を差していた。
坊ちゃんの心に甚大な被害を与えた言い合いをわざわざ彼の目の前で行ってしまったことを反省しつつも、彼の心に寄り添わなくてはならない。きっと、今は憔悴してしまった精神を癒せず、やり場のない鬱憤を溜めこんでしまっているだろう。だから、アネモネはそれを聞かなくてはならない。講師として。
アネモネはツユクサに歩み寄る。だが、坊ちゃんは気づかない。何故か、彼の目には何も映っていないような気がした。
彼の目の前には豪華な装飾のなされた壺がある。少しだけ嫌な予感がした。歩くペースを上げる。坊ちゃんは壺にそっと手を載せた。だから、走った。ツユクサが手に力をこめる。きっと、高いであろう壺は斜めに傾き、アネモネはツユクサの手を押さえた。
「何をしているの?」
鋭い目つきで愚妃は問う。その目はツユクサを逃さない。アネモネは気づいたのだが、ここはグラジオ男爵の部屋の前だ。部屋の前におかれた豪華な壺。綺麗な赤いバラが飾られているそれは、男爵のお気に入りなのだと誰でもわかる。それを彼は壊そうとしたのだ。
ツユクサはアネモネの顔を覗く。当たり前だが、怖い顔の彼女がいる。すぐに俯いて壺から手を離した。アネモネも彼から手を退ける。
「アネモネ様、ツユクサ!」
二人を呼ぶ声が聞こえた。誰であろうグラジオ男爵だ。スラっとした体系の男爵はすぐにこちらへと追いつく。だから、男爵が来る前にツユクサはこの場を後にした。男爵は何度も彼を呼び止めようとするが、坊ちゃんは聞かない。
「まったく。大丈夫でしたか、アネモネ様」
「えぇ、心配には及びませんわ。何も起こらなかったので」
「そうですか、それは良かった。けれど、あいつは私の部屋の前まで来て何をしようとしていたのでしょう。は、まさか、この壺を割ろうと!」
「ええ、サルビア様の大切な壺を割ろうとしていましたわ。けれど、それだけ我慢できなかったのでしょう。私とサルビア様の会話がツユクサ様を傷つけてしまったのです。だから、講師である私の責任でもありますわ。罰を下すというのなら、どうか私にも下してください」
アネモネは申し訳ありません、と謝った。まさか、姫が自分の頭を下げてまで息子をかばうとは思わないグラジオ男爵は面食らい、頭を上げるように頼んだ。それでも、アネモネは頭を下げ続けた。
一日が経った。現在の時刻は午後の三時。ちょうどよく、稽古の一つとしてやっていたダンスが終わり、少々休憩を挟む。前日に問題を起こしてしまったこともあり、午前には彼の母であるスズランが顔を出した。何だか、不安を抱いているような目をしていた。だが、しっかりと問題はない旨を伝えたからか午後は来なかった。
坊ちゃんは愚妃との間に壁があるように感じる。アネモネはさほど問題視していないため、至って普通だ。
「休憩時間があるだけで案外、楽になるものね」
「……僕はあまりですね、楽じゃないです。稽古を習うよりも図書館にこもりたいです」
先ほどからずっとこのような会話を繰り返している。話題をふっても図書室にこもりたいと突き放すように言われる。彼に壁を作っていない愚妃でも流石に意図して避けられているのだとわかる。
「あら、ずっと部屋の中にいたら運動不足になるわよ」
「ダンスやヴァイオリンの稽古だって、ずっと広いだけの部屋の中ですよ」
「そうね、語弊があったわ。運動をしないで部屋にこもっていたら運動不足で走ることさえままならなくなるわよ」
「いいですよ、別に。僕としては困りません」
ツユクサはひねくれた返答をする。なんとも自分勝手な言い分にアネモネはしかし怒りよりも、昔の自分を連想してしまう。昔の自分にはどんな言葉をかければいいのか。昔の自分はどんな言葉をかけて欲しかったのか。自分にその言葉をかけてくれたのは誰なのか。
愚妃は口端を上げた。
「ねぇ、ずっと部屋の中で稽古をしているよりも、時には外に出て走り回りたいとは思わない?」
「……どういうことですか?」
「この部屋は息苦しいってことよ」
坊ちゃんの手を掴む。少し強引に引き、部屋の窓側にある裏庭へと続くドアへと向かう。ツユクサは突然、強く引っ張られて転びそうになり、声を漏らす。それから、不安そうな顔でアネモネを見上げた。
「な、なにするんですか、危ないですよ」
「いいから。せっかくの休みの時間よ? 楽しまなくちゃ損じゃない」
今この時だけ、アネモネは講師であることを忘れた。
裏庭には壁やアーチ状に巻かれた茨とそこから生えるバラがある。暖かい日差しが二人を照らし、バラの壁を隔てている小道を進む。十字に分かれている道を左に行けば、この屋敷の玄関付近にいけそうだ。早速、体を向けて走った。もちろん、ツユクサの手は握っているから彼も走らせる。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ」
「嫌よ! ここは広いのにどこにも行けていないんだから、付き合いなさい」
露骨に嫌そうな顔をしているが、愚妃は気にしない。傍若無人が姫の取り柄なのだ。
しばらく走れば噴水が見えてくる。それは間違いなく玄関に続く道にあったものだ。大通りを抜けた場所にある噴水よりも小さいが、それでも立派だ。城に帰ったらつけてもらおうかとアネモネは思案する。しかし、さらにその奥に道があったことで興味はそちらに移り、さらに加速して走っていく。
小道を進むこと数分後、川と川を跨る橋を見つけた。透明で綺麗な水だ。橋の頂点から見下げて楽しむ。川面に反射したのは、目を輝かせている愚妃と隣には息が絶え絶えの坊ちゃんがいた。
「結構広いのね、この屋敷は」
「まぁ、それなりに」
呼吸を整えながらツユクサが答える。その様子をしり目に、愚妃は二歩下がった。そして、思いっきり駆け出した。橋の端に足がついた瞬間にジャンプする。それほど高くないから、落ちても怪我をする心配は要らない。だが、高さに相応しい恐怖は感じる。いわゆる、絶叫系のアトラクションに乗っているような感覚だ。
川に落ちる。足がすくんで尻もちをついた。腰から下はずぶぬれだ。何ということだろう、愚妃はこれからまだ仕事があるにも関わらず、間抜けにも屋敷に入れないほどに濡れてしまった。だというのに、笑っているのだ。後先を考えない行動があまりにもおかしくて彼女は笑っている。
「面白いわよ! ツユクサも来なさい」
あまつさえ坊ちゃんも誘ってしまった。この二週間で会話という会話をしていない彼女は彼を誘う。
「い、嫌だ」
「なんでよー」
「濡れたらお父様に怒られるから」
「大丈夫よ、これは私の責任だもの。何一つ心配せずに飛んでみなさいよ。楽しいわよ」
ツユクサは逡巡した。飛び込んだその後を考えると怖くてたまらない。坊ちゃんは三歩後ろへ下がった。アネモネは残念そうな顔を作っている。と、彼は走り出した。そして飛んだ。ツユクサは弧を描いて川に落ちる。彼も尻もちを着いたから二人そろってびしょ濡れだ。
愚妃は笑いながらツユクサに手を差し出した。
「どう? 案外、いいものでしょう?」
坊ちゃんはアネモネの手をとって立ち上がり、震えている手を握りしめた。
「……ええ、そうですね」
それから、何分経っただろう。庭をかけて遊んでいた。水を浴びて遊んだ。まだ五月の中旬だから寒いことこの上ない。だが、馬鹿らしくて笑っていた。
現在、川から出て傍の芝の上に座っている。本を読む以外で久しぶりに楽しさを感じたツユクサの顔は綻んでいる。それに喜びを感じながら、愚妃は質問をした。
「ねぇ、聞きたいことがあるんだけど、なんでそんなに稽古事を嫌うのかしら」
ずいぶんと嫌な顔をする。ツユクサはアネモネの質問に顔をしかめながら答えた。
「嫌じゃないですか。無理やり興味もないことをやらされて、さらに兄と比べられるんですよ。やっと終わったと思って本を読んでいてもお前の兄はあーだこーだ。説教しかされません」
「だから、昨日はサルビアさんの部屋に行かなかったのね」
ツユクサは俯いた。責めようと思って話題に上げたわけではないが、坊ちゃんは警戒している。実際に彼よりも迷惑なことをしていたアネモネとしては自分が責めれる立場ではないことを重々承知しているため、何かを言う気もない。
「そうねぇ、私は、稽古が楽しいと感じたのはそれが必要だとわかって、少しでも上達しているのがわかった時の達成感かしら。貴方も今は必要ないけど、いずれはその時がやってくるわ。基礎くらいは覚えておきなさい。そうすれば、時が遅かったとはならないと思うわ」
きっぱりと言い切った彼女の表情は何故か悲しそうだ。哀愁漂う彼女の姿に言葉が詰まった坊ちゃんは考え込むように下を向いた。
「そうですか……まぁ、基礎くらいなら」
「そう。基礎さえ出来れば後はどうでもいいのよ。残り二十日くらいあるのかしら。なら、たくさん練習できるわ。私が講師である間に全てをできる必要はない。だから、残りの時間を目一杯やりましょう」
アネモネは立ち上がり、ツユクサに手を差し伸べる。
「……わかりました。頑張るだけです」
「それでいいのよ。無理をするのは愚か者だけで充分よ。さて」
愚妃は涼し気な笑みを作り、続けて快活に言い放った。
「濡れた服はどうしましょうか」
「今頃ですか」
その後、執事とメイドに選択をお願いして、男爵他二名の家族には気づかれなかった。
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