第38話姫は悩み、坊ちゃんは叱られる

「問題はここからよ」


 クリスに呆れられたが、本題はここからなのだ。これを相談するために今日、教会に帰ってきたと言っても過言ではないのだ。アネモネは口を開き、ため息交じりに悩みを打ち明けた。


「彼、ツユクサは人と接する時の態度があまりにも酷いのよ。私と稽古をしている時はもちろん、この前、メイドと話しているところを見たのだけど、その時には、メイドを怒鳴りつけていたわ。特に何もやっていないのによ」


 メイドは紅茶と菓子をツユクサの兄にでも届けようとしていたらしい。その時、たまたまあのお坊ちゃまがすれ違ったのだが、何が気に障ったのか、怒鳴りつけていた。後でメイドに事情を聞いたが、礼がなってないなど、言いがかりも甚だしい理由で怒られていた。


「メイドからしたらツユクサは畜生よ。これは、問題だとは思わないかしら」


「お前の教育にストレスが溜まっていたんじゃないのか? 機嫌が悪い奴の行動が前と違うなんて当たり前だ」


「それもメイドに聞いたわ。そしたら前々からだって。本当に、まったく。昔の自分を見ているようだわ」


 稽古ごとの技術は抜いてと付け足していう。それから起き上がって顎に手を置いた。


「ねぇ、何かいい案はないかしら。彼の素行をよくするための」


「わざわざそこまでする必要があるのか?」


「私は講師よ。そこまでする義理があるわ。それから、あの子が私の話を聞かないままだとあの子の実力は変わらないわ。なら、変わってもらうしかないじゃない」


 アネモネは欠伸を一つしてキッチンへと向かう。エントランスから出ていった愚妃を心配そうに見ていたリリィはクリスに話しかける。


「ねぇ、アネモネちゃん、相当無理してない?」


「教え子が発狂する程だぞ? 自分に厳しい奴が他人に厳しくしているんだ。アネモネのほうが先に倒れるかもな」


「え? ど、どうにかできないかな」


 二人は悩む。アネモネとツユクサを倒れさせないためには説得する意外にない。無理をせずに、坊ちゃんの事情には踏み込まないで稽古をつけることが最善の終わり方なのだ。だが、愚妃はその結果に満足しない。愚かなことに、自分の手が届くならそれがどんなに遠かろうと、指の爪の先がほんの少しでも届くのならば、掴むまで諦めないのがアネモネという名のじゃじゃ馬姫だ。彼女ならばできるであろうから、諭すことなどできはしないだろう。


 だから、アネモネの友人である二人はより一層頭を悩ませるのだ。人と関係を持つならば話す程度でいい。教会のように家族同然の暮らしをするなら話は別だが、それでも人を救うために動くことなど情が揺れない限りやらない。


 アネモネに助けられた赤の他人であった二人だからこそわかる。きっと、アネモネは止まらないのだろうと。




  休日から三日が経った。現在の時刻は午後の六時。一日にやる最後の習い事であるピアノの練習が終わった。


 クリスから指摘があった休憩時間の有無をさっそく見直し、稽古と稽古の間の時間に一回、昼食後の休憩も入れて計六回、合計二時間の休憩を作った。休息の時間があることで、ツユクサはいくらかの余裕を持つことが出来ているようだ。真面目とは言い難いが、それでも話を聞いてくれるだけ愚妃としてもやりやすい。


「最近よく頑張ってくれて、私としても嬉しいわ。稽古をつけていて、貴方が上手くなっていっているのが手にとるように分かるわ」


「ありがとうございます」


「これから何か予定でもあるの? ないなら、一緒に食事でもどうかしら」


「すみません。お父様から呼ばれているので」


「あら、そうなの。残念だけど、仕方がないわね」


 初日にヴァイオリンを弾いていた部屋、広々としており、ドアがある壁の向かいの壁には一面に窓ガラスがある。他の貴族の屋敷では見ない珍しいものだが、城の大広間にも似たような、それどころかより豪華なものがある。しかし、バラを一望できる庭園へ直接行くためのガラス製のドアがあるため、一度行ってみたいとは思う。


 その一室を俯きながら出ていったツユクサに笑顔を作りながら見送る。その後にアネモネは肩をすくめた。


 教えることに関しては順調といっても過言ではない。だが、コミュニケーションは上手くできているかと問われれば否と返す。稽古が終わればすぐにどこかへと行くツユクサとは会話をする機会はあれど、仲を縮めることができない。


 どうにか出来ないものかと愚妃も部屋を後にする。部屋を掃除しに来た執事にお礼を言うと、初日から合わせて三日ほどは瞠目していた彼も慣れて薄く笑みを作って礼をしてくれる。小さな積み重ねもかかせないなとアネモネは感じた。


 話を戻し、関係を深めるための打開策を考えながら、愚妃は廊下を行く。案を思いついては破棄することを繰り返すこと七度目。二階の図書室についた。愚妃は仕事が終わると、夕食の時間になるまで屋敷を探索する。城と比べればそれまでだが、一家が暮らすには広すぎる家だ。当然、小一時間回るだけでは全てを見られるわけではない。


 図書室のドアを開く。壁一面にある本を見て、城にあった図書室を思い出して懐かしさを覚える。三部屋に隔てられたそこは愚妃にとって落ち着く場所であった。左と右にある部屋にドアがあり、アネモネは左の部屋から入ったから右に向かって順番に部屋を回る予定である。


 薬草などの医薬品に用いられるものが載ってている辞典、グロウガーデンの歴史が綴られている歴史書、一人の人生を一冊の本にまとめた伝記などなど、様々な本がある。


 童心に返ったように目を輝かせ、アネモネは隅から隅まで本を眺める。そして、中央の部屋へ移動する。すると、こちらに背を向ける形で本を読んでいる人物がいた。ツユクサだ。どうやら、父に呼び出されたのは嘘だったようだ。


 棚の影に隠れて坊ちゃんを観察する。アネモネと食事をするのが嫌だったから嘘までついてここにいるのだろう。熱心に本を読むところから察するに、無類の本好きのようだ。


 久しく覚えた悲しみに顔をしかめる。アネモネは肩を落として一冊の本を手に取って図書室を出ようとしたその時であった。右端にある部屋のドアが勢いよく開く。驚愕により震えたのは愚妃だけではない。すぐさま本棚の陰に隠れた。


「ツユクサ、いるのか!」


 声からしてグラジオ男爵だろう。声を荒げていることから察するに激怒している。大きな足音が部屋中に響き、それは隣の部屋へと移動した。動揺してどもっているツユクサに男爵は怒鳴りつけた。


「私はお前を呼んだはずだ。最近の素行やら稽古の進捗やらを聞くために。だというのに、何故来ないのだ! お前は、人の話を無視して何がしたいんだ!」


 どうやら、坊ちゃんが父に呼ばれていたのは本当のことだったようだ。それを承知で無視するなんて、なかなかどうして肝が座っている。


「毎晩毎晩、本を読むこと以外しない。何故勉学の予習も稽古ごとの復習もしない。本ばかり読んでも何ができるわけでもないのだ! 何とか言ったらどうなんだ、何故何も言わない!」


 男爵が叫んでいる。ツユクサの様子が気になって愚妃は陰から覗き込むと、坊ちゃんは俯いて服の袖を力強く握っていた。怖くて言い返せないのか、はたまた自分が悪いから我慢をしているのか。どちらかはわからないが、このまま放っておくわけにもいかない。


「グラジオ男爵、少々、言い過ぎではないでしょうか」


 男爵に声をかけると、怒気が混ざった視線を向けられる。だが、すぐにアネモネだと気づくと自分の失態を隠すように穏やかな声音を作る。


「こ、これはアネモネ様。どうかされましたか?」


「廊下を歩いていたら、怒鳴り声が聞こえまして。喧嘩をしているのなら止めなくてはいけませんから」


 ごくごく自然な理由を述べると、男爵はバツが悪そうにそっぽを向き、しかし正当な理由があるのだと言った。


「ツユクサが、私が呼び出したにも関わらずここで本を読んでいたのです。これが一回ならばまだしも、もう数えられないほど無視をしたのです。それに、こいつは習い事の全てを練習も復習もしないのです。稽古が終われば図書室にこもって本ばかり読んでいる。問題ではありませんか」


 ツユクサのこれまでの行いを語ってくれた。おかげで彼のことも少しはわかった気がする。さて、ここで男爵の言葉に首肯したとしよう。きっと、ツユクサは何もかもが嫌になって自室にこもってしまうのではないだろうか。逆に否定したとしよう。その場合は男爵がアネモネを説得しようとツユクサの悪いところを並びたててしまうかもしれない。なら、どうしようか。この状況を円満に終わらせるためには。アネモネは口を開いた。


「確かにツユクサ様は真面目だとは言い難いですわ」


「そうでしょう。アネモネ様からも言ってやってください」


「けれど、押し付けるのも正しいとは言い難いですわ。確かに、貴族は茶会で人脈を広げることができ、ならば、礼節や時にパーティーでダンスを踊れることは必須になりますわ。勉学だって、地理を学べばこの土地の性質に、歴史を学べば貴族の家系の在り方も学べる。今学んでいることごとくは将来を見据えるととても役に立ちますわ。けれど、どれもこれもが簡単にできるわけがないのです。ましてや、ツユクサ様は十歳ですわ。あまり、無理を押し付けてしまっては、彼がその後に正しい道を歩んでくれるかどうかはわからないでしょう」


 グラジオ男爵は呆気にとられた。愚妃は自分の味方をしてくれると思っていたからだろう。しかし、すぐに気を取り直してアネモネを説得しようとする。愚妃も無理は禁物だという。収拾がつかないことがさらにツユクサを追い込んでしまったのだろう。彼は部屋から出ていってしまった。


 男爵は呼び止めたが、坊ちゃんは聞く耳を持たない。アネモネは慌てて後を追った。

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