第37話姫と坊ちゃんは出会う
廊下にヴァイオリンを奏でる音が聞こえる。何故かところどころ音が途切れているため、上手く引けていないのだろう。廊下を進むごとに演奏は大きくなり、閉まりきっていない扉があることから、そこに演奏している人がいることがわかった。案の定、サルビアから案内されたのは閉まりきっていない扉の部屋だった。
演奏の邪魔にならないように静かに扉を開く。すると、必死にではなく、むしろやけくそにヴァイオリンを弾く少年がいた。あまり上手くない演奏から察するに、彼がツユクサ・グラジオだろう。隣にいる講師であろう男性が手を叩き、演奏を止めるように促した。男性から指導を受ける少年の顔は嫌なことを無理にさせられている子供のようだ。
タイミングを見計らってグラジオ男爵が少年を呼ぶ。心底不愉快そうな顔をした少年が近付いてきた。
「ツユクサ、こちらがお前の新しい講師となってくださる、アネモネ・ブバルディア殿下だ。くれぐれも粗相のないようにな」
予想通り、目の前にいる少年がツユクサ・グラジオであることを確認し、アネモネは一歩前にでた。
「お初にお目にかかりますわ。グロウガーデン王国第一王女、アネモネ・ブバルディアですわ。これから一か月、よろしくお願いしますわ」
アネモネはワンピースをつまんで足を引き、頭を下げる。続いてツユクサも頭を下げた。
「ツユクサ・グラジオです。これからよろしくお願いします」
声は小さかったが、内容は聞き取ることが出来た。アネモネとしてはもっとはきはきと喋ってほしい。
「それでは、アネモネ様。よろしくお願いします」
「えぇ、お任せください」
そういうと、男爵たちは部屋から立ち去る。早速、二人きりになることができたので、被っていた化けの皮を脱ぐことにした。
「さて、改めて挨拶させてもらうわ。私の名前はアネモネ・ブバルディア。一か月貴方の全ての稽古の講師となるから、よろしく頼むわ」
ツユクサはアネモネの挨拶に言葉を返す。
「本当に来たんですね。てっきり、自分よりも下級なものに教えることはないって言ってバックレるかと思っていました」
早々に偏見という名の失礼極まりない言葉を愚妃に浴びせる。アネモネは呆れ顔を作った。
「あのねえ、どんなものでもこの国に住むものはこの国の民よ。優先することはあっても、誰かを蔑ろにする行いを私はしないわ。やっぱり、私の噂は広まっているようね」
「はい。天性のじゃじゃ馬姫であると聞いています」
愚妃は嘘でも否定してほしかったと思ったが、事実である以上、仕方がないとも感じた。姫はため息をつく。
「こればかりは仕様がないわね。まぁ、気を取り直して始めましょう」
「はい、よろしくお願いします」
ツユクサは抑揚なく言った。愚妃は想定していた彼よりも聞き分けが良いことに感心しつつも、先ほどの顔といい、態度といい、あまりいい予感がしなかった。そして、その予感は的中した。
五分後、ツユクサが演奏を終え、手を止める。アネモネは絶句して言葉が出なかった。先ほどは講師がいたせいで下手なのかと思い自由に演奏させてみたが、姫の思い違いだったようだ。
根本的な原因なのだが、基礎が出来ていなかった。姿勢が悪い。弦を上手く弾けていない。ヴァイオリンの稽古は最近始めたのだろうか。まだ形になっていない。このような状態であの講師は彼に曲を弾かせたのかと思うと、呆れてしまった。
「ねぇ、貴方はヴァイオリンを弾き始めてどのくらいたったの?」
「……一年ほどでしょうか」
「……嘘でしょ?」
「本当です」
アネモネは眩暈を起こした。彼は一年と言った。一年間も練習をしているのに、あのような状態だったのだ。頭が痛くなる。だが、彼を見ていると、昔の自分を想起する。あの、弾くことすらままならなかった昔の自分と彼を重ねると、一つ一つに呆れて話をするのは嫌いだった講師と自分が同じになってしまうから、ツユクサのためを思って教えることにした。
私を馬鹿にしたあの講師のようには絶対にならない。そう、アネモネは決心した。
「その結果、どうなったんだ?」
「発狂して自室に引きこもったわ」
七日が経ち、休日である日曜日の朝。アネモネはクリスとリリィに事の経緯を話した。久々に帰った教会のエントランスで愚妃はベンチに仰向けになって右腕で目元を覆い、その横にリリィ、向かいのベンチにクリスがいた。当然だが、二人の顔は引きつっていた。
「えーと、具体的には何をさせたの?」
「時間いっぱいになるまで基礎練習をさせたわ。他も上手くはなかったから同じ。昨日もやったから六日間ね。そしたら、昨日のお昼過ぎに叫んで走って逃げていったわ。流石に、心配になって彼の部屋に行ったのよ。そしたら、もう嫌だって。やりたくないって言い出したわ」
アネモネはため息をついた。疲れもあってか、重く感じるため息だ。愚妃の様子を見た二人は互いに目線を合わせて頷いた。
「でも、初めてのお仕事なんでしょ? アネモネちゃんはよく頑張ったよ。人に教えるのが難しかっただけだよ」
「それはそうなんだけど、もっと頑張ればもっと上手く教えることが出来たのよ、きっと。だから、明日からは一挙手一投足も見逃さないで彼に教えていこうと思っているの」
「いや、それは危ないだろ」
少年の言葉にアネモネは反応する。右腕を寄せてクリスの顔を見る。
「どうしてよ」
「よく考えてみろ。発狂したってことは嫌だったってこと、よほどのストレスがあったってことだぞ。お前が言ったことはさらに厳しくするってことと同義だ。なら、危ないだろ」
「でも、それは私が教えるのが下手だったからでしょう? 今日一日、対策を練って上手く教える算段をつけるわ」
アネモネは起き上がる。疲れからか少しやつれているように見える。だから、クリスは止めた。
「一回休め。それから、よく考えてみろ。お前とあいつは違う。お前が努力したことをそっくりそのままそいつにやらせても同じ結果にはならないぞ」
愚妃は盗人だった少年を見る。真剣な表情で言っていたものだから、彼の言葉は聞かなければまた同じことが起こりそうだ。アネモネはまた仰向けに寝た。
「じゃあ、どうしろって言うのよ」
吐息交じりに愚妃は言い、足をバタバタと暴れさせた。リリィは困った顔を作り、無理に笑顔を作った。
「アネモネちゃん、落ち着いて。例えば、相手が楽しくなるような遊びとか、彼からやりたくなるような状況を作るとかそういう簡単なものでいいの」
「……遊びたいのは山々だけど、それは、サボっているのと同じじゃないかしら?」
「えーと、遊びっていっても、あれだよ、鬼ごっこみたいにルールを設けるだけだよ。ただ走るよりもルールと目標を作ればやる気が出るじゃない」
「ああ、それはいい考えね。目的もなくやらせるのは間違いだものね」
「……なぁ、一つ聞いてもいいか?」
クリスは言った。アネモネの発言に何かしら勘づいたことがあったのだ。当たり前だからこの質問は馬鹿だと揶揄されるかもしれない。だが、もしも勘があたっていたらツユクサはさらに追い込まれることとなるだろう。
「えぇ、何かしら?」
だから、尋ねた。
「休憩は何分とっているんだ?」
「休憩? とっていないわよ」
この日をもって、ツユクサの発狂問題は解決した。
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