第26話そして、少年は姿を消した
時間は進んで昼下がり。少年は目を覚ました。目を覚ましたのは父が寝ていたベッドの上だ。体を起こし奥を見ると、テーブルに突っ伏す形で眠っているドレス姿の母がいた。
昨晩、息を引き取ったネリネをローズと共に運び、家の隣に墓を作った。瓦礫が散乱しているそこを手と石を使って穴を掘った。日が昇ってきた頃に父を埋めることができたため、そのまま疲れて気絶するように二人は寝たのだ。
少年は割れた窓から外を覗き、今が医師と名乗る男性と会う時間だと気づく。かったるいとは思いつつも、現状とこれまで父のために薬を無償と行っても差し支えない形で譲って貰った感謝を伝えなくてはならないのだ。それが、恩人に対する礼儀だとクリスは思っている。
普段着と比べると肌が露出している母に毛布をかけ、少年は出かけた。
クリスの足音が遠のき、聞こえなくなった頃、ローズは立ち上がってタンスに向かった。その目には光りがなく、現実が辛くて堪らないとでも言うかのようである。
タンスを開き、奥をまさぐる。取り出したのは父が飲んでいた薬だ。それも、大量にある。
粉薬が包まれた紙をテーブルに持っていき、ローズは呟いた。
「ごめんなさい、クリス。私は、あの人がいないともう駄目なの。許さなくてもいいわ。親失格だとはわかっているんだもの」
ローズは薬を飲んだ。
クリスはいつもの場所に店を開いた。人通りが多く、作った小物を邪魔だと足蹴にするような輩もいる。
だが、辛抱強く待つこと数分、件の男性の姿が見えた。毎日、違う靴を履いてきて靴磨きを頼む医者だ。彼は今日は目深に帽子を被っており、表情が良く見えない。
だが、靴を磨くこととは関係がないため、少年は仕事に専念した。
「クリス、親父さんはどうなった?」
いつも通り、男性はそう聞いてくる。質問からして様態を聞いていないことは容易にわかる。
クリスは震えを押さえて口を開いた。
「昨日、死にました。幸せそうでしたよ」
「そうか、それは……よかったな」
男性は肩を上下に揺らしていた。きっと、悲しんでいるのだろうと少年は思う。
「父さんは助からなかったけど、貴方に、グロキシニアさんにお礼だけは言いたくて。父さんのために薬をくれてありがとうございました。きっと、もう会えないかと思いますが、次会った時はちゃんとしたお礼をさせてください」
「あぁ、楽しみに待ってるよ。それにしても、お前も大変だったなぁ。借金を抱える家族のためにこうやって靴磨きをして」
「いえ、そんな大変では」
「いいや、大変だったさ。お前はすごく頑張った。親のために働き、親のために藁を盗んで、親のために俺から薬を貰い続けた。なんてすごいんだ。なんて立派なんだろうなぁ」
「そ、そんなことはないですよ」
こんなに褒められるとは思ってもみなかった。辛いことばかりで今も何を思えば良いのか分からなかった。だが、彼が労いの言葉をかけてくれるから心がほんの少しだけ昂る。しかし、疑問に思ったのだが、なぜ彼は俺が藁を盗んでいることを知っているのだろう。
「あの、なんで俺が」
「ネリネが借金を背負い、それと同時に麻薬に侵された。たった数か月後になぜだか彼は体を思うように動かすことが出来なくなり、代わりにローズが働いて借金を返す日々。お前はこんなちんけな店を開いてたったの数百エルしか稼げもしないところで働いて生活を楽にしようと考えていた。そんな時に、運よく俺と出会えた。そう、運よく、運よくだ!」
沸々と嗄れ声の男性が笑っている。段々と彼が誰ともわからない、怪物になっていくような感覚があった。何を言っているのかよくわからない。彼に話した家庭の事情は、父が病に倒れたが、病院に連れていくほどのお金がないことだけだ。
なぜ、こんなに詳細に理解しているのかがまったくわからない。
「あの、あなたは誰ですか?」
少年は無意識に聞いていた。いつもと顔つきが違うグロキシニアはぎょろりとこちらに目を向けた。
「医者だ、薬好きのな。そうだ、忘れるところだった。これをお前に渡さないとな」
男性は懐から薬が入っている紙を取り出した。少年は習慣となっていた所作で薬を受け取り、すぐに違和感しかない先ほどの出来事について尋ねる。
「あの、なんで薬を? もう父さんはいないのに」
男性の子供のように輝いている目が驚きに染まった。まだわからないのかと言っているように見える。男性はため息をついた。
「あのなぁ、それはお前への贈り物だ。お前は生きたいか?」
怪物のような男性の言葉に雑踏の音が聞こえなくなった。答えなどもう知っている問いに少年は正直に返答をしていた、いいえと。
「なぁ、こんな人生、嫌だろ?」
耳元で囁かれた。
「なんで生きたいんだ?」
答えは出ない。
「辛いだけだろ。暴力なんて嫌だ、家族を気遣うのにも疲れた」
そう、だが、頷けない。
「楽しいかい?」
クリスは
「そんなわけないよなぁ。ならさ」
嗄れ声の怪物は愉悦に浸かるように笑顔で囁いた。
「死んじまおうぜ」
怪物は高笑いをする。当たり前だ、滑稽な話だったのだから。最初から、きっと、はめられていたのだ。父が借金をしたのも、薬に手を染めたのも、病に毒されたのも、母が娼館で働いたのも、俺が怪物と出会ったのも。計画だったのだ。
少年は嗄れ声の怪物に人生を壊された。そして、悟った。壊された人生は元通りに修復することができないのだと。だから、諦めた。
少年は紙を開き、口をつけた。その時に思った。何故、薬がタンスに溜まっていたのだろうと。この薬がもう薬でないことは知っている。じゃあ、なんであんなに大量に残っているんだ?
少年の手から薬が落ちた。焦燥が心臓を早く打った。そして、一目散に家に駆け出していた。
家についた。窓はひび割れ、ドアが壊れている我が家は廃墟も同然の風貌だ。しかし、家族と共に過ごした、誰にも譲りたくない少年の居場所である。
母を呼び、玄関から飛び込む。舞うほこりが陽光に照らされる中、少年は家を見回した。そうすれば、すぐに目に留まる人がいる。
母だ。母のローズだ。未だにテーブルに伏せる形で眠っているようだ。少年は安堵のため息をつく。だが、テーブルの上に折り目のついた紙があることに気がついた。それは、薬を包んでいた紙と似ている、いや、同じものだろう。
少年の息が荒くなった。
「母さん? 母さん」
母を呼ぶ。何度も体を揺すってみた。だというのに、反応がない。ドレス姿の母の顔を覗いた。その顔は青白い笑顔に染まっていた。
「おい、何をしている?」
怪物が家の中へ侵入してきた。彼が目にしたのは笑顔で息をしていないローズと涙を流しているクリスの姿だ。
男性は異変を感じ取り、ローズへと近付いていく。彼女の手首に指を押し当てると、何度も意味がわからないと口にしてクリスを見た。少年も男性を見る。嗄れ声の男性は鬼のようだった。
刹那、クリスは殴られた。何度も殴り、何度も蹴り、壁に打ち付け、さらに暴力を振るった。
「なんで、なんでこうなったんだ! てめぇになんかに用はないんだよ。ローズに、ローズのためにここまでしてやったのに!」
怪物は叫んだ。鬱憤を全て吐き出すために暴力と暴言を振りまいた。
「麻薬に毒を仕込んだのも、毒を薬と言ったのも! なにもかもがローズのための、ローズを俺たちのものにするためだったのに!」
なぜだか、怪物が滑稽に見えた。
「廃人にならねぇで死にやがってよ! 黙って娼館で売りまくって借金を返せばいいものをよ!」
その後も怪物は止まらなかった。少年は無気力に全てを受けた。だから思った。なんでこんなことになったのだろうと。自分のせいなのかと。そうなのかと。違った。
暴力の嵐が過ぎ去り、唾を吐きかけられた。少年を蹴りすぎて膝でも壊れたのだろう、右足を引きずりながらグロキシニアが出ていく。全てが終わった時、少年の心には恨みしか残っていなかった。だから、全てを捨てて、家を出た。
これが、俺の過去だ。
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