第25話少年は見惚れた

 その日の晩、夕食を口にしていたネリネが吐血した。奇跡を信じて、しっかりと薬を飲ませたというのに、これでは父が助からないではないかとクリスは思った。


 四年近くベッドの上で寝たきりの父の姿はあまりにも見ていられなかった。細々とした腕にやつれた顔、その全身が青白くて、まだ三十代前半だというのに髪が白い。


 少年と母は血を吐いた父を見て嘆いた。目元に涙が浮かんで、もう先が長くないことを確かに実感する。だというのに、相も変わらず父は笑顔を作っていた。


「そんな顔をしないでおくれ。僕の死期は僕が一番よく理解している。それまでは笑顔でいて欲しいんだ。僕が最後に見るのが悲しい顔なのは嫌なんだ。皆には無理をさせてしまうけど、どうか頼むよ」


 ネリネはそう言う。でも、できない。無理だ。こんな父を見て、笑顔なんて作ることができる人はいない。だって、愛しているのだ。まだまだ、もっと先の未来で笑ったり喧嘩したりするはずだったのだ。それが普通なのだ。それが当たり前なのだ。それすらできないなんて、理不尽ではないか。


「まだ、死なないでよ」


 涙ながらにクリスは懇願する。父は目元を歪ませたが、我慢して涙を堪え、頷いた。


「あぁ。クリス、お前ももう九歳か。せめて十歳になるまで生きたかったんだけどな」


「不謹慎なこと言うなよ。まだ、死なないんだから」


 この日、クリスは久しぶりに父の隣で寝た。長く、父の温もりを感じていたかったから。




 少年は目が覚めた。まだ、日が上がっていない。それどころかまだ満月が空高くに浮かび上がっている夜だ。星々も今夜ばかりは恐れ多いと姿をくらましている。


 少年は起き上がると、隣に父の姿がないことに気がついた。瀕死の状態の父がベッドで寝ていない。それだけで目が覚めるには充分な内容だった。

 思わず、母の名前も呼ぶが、家の中はしんと静まりかえっている。念のため、家中を探し回る。といっても部屋はこの一室しかないから父も母もいないことなど容易にわかる。


 そこで、ベッドの脇にあったタンスが開いているのが分かった。一段しかない収納スペースには二人の服が綺麗に畳まれて入っている。その奥に、父が飲んでいた薬を包んでいた紙が溜めこまれていることに気がついた。だが、今はどうでもいいから無視をする。


 そんなことよりも両親の行方だ。時計などないが、こんな遅い時間に自分を残してどこかへ行ってしまったのだ。夫婦水入らずの時を過ごしたいのだろうとは直感的にわかるが、それでも家にいてもらわないと少年としては怖い限りである。


 少年は家を飛び出した。扉がない分、外に行くことが容易でいいなどと意味もわからないことを思う。自覚している以上に頭が混乱しているのだろう。だが、クリスは走った。スラム街を走り、大通りを駆け、そして二人を見つけた。場所は噴水広場だ。


 安堵の息を漏らし、声をかけようとした。だが、静寂に包まれたこの明るい夜の中では音を出すこともはばかられるようだ。


 建物の影からゆっくりと登場したのは黒いタキシードに身を包んだ、シルクハットを被ったネリネと真っ赤なドレスをまとい、長く癖のある髪を団子状にまとめたローズだ。

 満月は二人にスポットライトを当て、噴水を流れる水のせせらぎを聞きながら、二人は向かい合った。


「あら、今日は浪漫に焦がれているのかしら。満月だって気づくや否やダンスに誘ってくれるなんて」


「いいや、あの日を思い出しただけさ。走馬灯にしては早いけど、僕たちの出会いを君ともう一回感じたくて」


 ネリネは跪き、真っ直ぐにローズを見た。


「僕と踊ってはくれませんか、マダム?」


「えぇ、喜んで。この夜が終わるまで、存分に楽しみましょう」


 ネリネが差し出した手をローズはとった。ネリネはよっこらせという掛け声とともに膝に手をついて立ち上がる。その姿に女性は笑った。


「もう歳ね。昔はすっくと立つことが出来たのに」


「五年若ければ僕も君みたいに体を動かせたさ」


「えぇ? それじゃあ、今日は私がエスコートしなければならないのかしら」


 色気のある仕草で首を傾げた女性に男性は笑って首を振った。


「ダンスの腕なら、誰にも負けないさ」


 男性はローズの腰に手を回した。対して、女性もネリネの肩に手を置く。


「その言葉が嘘でないと心から祈るばかりね」


 にやけた女性の顔を月光が照らした。男性は余裕を持って微笑んだ。そして、二人は踊りだした。水が流れる音を音楽の代わりとして二人は体を揺らす。ゆったりとしたボックスステップでお互いを見つめ合う。懐かしむような顔をしたローズは男性に話しかけた。


「ねぇ、あの時はどんな音楽が流れていたっけ」


「うん? 確か、テン、テレテレテレテンテンテーン、テン、テレテレテレテンテンテーン」


 うろ覚えなのか、上を見ながら口ずさんだリズムに女性は笑みをこぼす。


「リズムが変よ。正しくはこうよ」


 ローズが鼻歌を歌うと、男性は納得がいかないと顔で表現する。


「同じじゃないか。どこが気に入らないんだい」


「いじわるしたくなっただけよ。相変わらず、いい反応するわね」


 ローズが微笑むと、男性は呆れて、しかし楽しそうに笑った。


「思えば、あの日も君はこんなふうに僕を虐めてきたね。初対面の人とする会話ではないと思ったな」


「なんでよ。私は決めてたんだから。私が何を言ってもちゃんと話してくれる人をね。あの日の舞踏会で踊った人は皆引いていたわ。でも、貴方は違った。紳士に私と会話をしてくれたから貴方に決めたのよ。文句ある?」


「そのおかげで僕は幸せなんだ。君とクリスを不幸にしてしまった僕が言っていい言葉ではないけどね。だから、文句なんてないよ」


 男性の言葉を聞いたローズはため息をついた。


「お店が上手く立ち行かなくなったのは迷惑客が跋扈したから。警察とか裁判所はなぜか聞く耳を持たなかったし、貴方はそのストレスのせいで薬を吸っちゃっただけ。あんなになったのに、私たちを大切にしようと暴力も暴言も吐かなかった貴方は立派よ」


 イライラしているのは隠せてなかったけどねと女性は付け加えて言う。ネリネは苦笑いをして目線を逸らした。


「思えば、あの頃から体を動かすのが難しかったなぁ……あぁ、やめよう、こんな会話。確かに思い出を語るのは面白いけど、もう少し前のことのほうが面白くはないかい?」


「それもそうね。ねえ、あの日の舞踏会にはなんで参加したの? あの頃はまだお店も軌道に乗れてなかったじゃない」


 ネリネはローズの質問に返答する。


「ああ、それは母さんと父さんが口うるさく言ってきたからさ。王様と王妃様が結婚する、いつもは貴族しか入れないお城にいけるのよ、これを逃すなんて勿体ないってさ。息抜きも必要だと思ったんだろうね。一人で行くのは寂しかったけど、君と会えたことを考えると、その寂しさも小さいものだね」


「そうねえ。あれ、権利って言っているけど、ほぼ強制参加だったわよね。それに、たった一日しか参加できないくせに、それ自体は十日も続いたものね。正直言って、飽きていたわ」


「ええ? 一緒に出店を回った時も飽きたって感じてたのかい」


 目を開いて驚きを露にする男性にローズは笑った。


「貴方とお店を回ったの、合計して六日もよ? 私は疲れたっていうのに、貴方は嬉々として研究だ、研究だって歩いて行くんだもの。自由で変わり者だって思ったわ」


「ひどいなぁ。まぁ、お互い様かな。でも、楽しかっただろう?」


 ネリネの言葉に、ローズは頷いた。


「貴方を見てたら、何故だか悪い気はしなかったわね」


「……安心したよ」


 その時、ネリネが足をもつれさせて転びそうになった。慌ててローズが体を支える。ネリネは弱弱しく笑い、荒い呼吸を落ち着かせるために何度も深呼吸をしていた。だが、もう時間なのだろう。ローズに抱きとめられる形で寝ているネリネは薄く微笑んだ。


「やれやれ、もうこんな時間なのか。君たちをおいて行きたくはなかったのになあ。まだ、こんなに早いのになぁ」


 虚ろな目に映っているのは誰なのか。きっと、ローズだけではないのだろう。もう、視界が掠れて全てがぼやけて見える。そんなネリネの頬に水滴が落ちた。噴水の水だろうか。いや、違うことくらい誰でもわかるだろう。


「もうちょっとだけ……いいえ、休める時に休んでおいたほうがいいわ。早く眠ることが心身の若さを保つ秘訣なんだから」


「さすが、美人の言うことは違うねぇ」


 掠れた声で男性は言う。その言葉を聞き、女性が笑ったような気がした。


「おやすみなさい、あなた」


 涙声のローズの言葉に、ネリネは息を吸い、笛のように鳴るその喉で言葉を返した。


「おやすみ、ローズ」


 ネリネの鼓動が止まり、それを悼むように満月は月光で照らした。


 たった数分の出来事に、クリスは息をするのを忘れていた。

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