第11話少女は思い出し、姫はくしゃみをする
あれは、まだ少女が十二歳の時の話だ。
鮮明に頭に焼き付いている、母が永い眠りについてしまった情景。それを思い出し、少女は母の墓の前で泣いた。口元を手で覆い、嗚咽が漏れないように努める。溢れる涙を我慢することはできないから、せめても笑って幸せだよと伝えるように口元は三日月を作った。どうあっても、口を隠している少女の顔は悲しみに歪んでいるように見えてしまうのだが。
「……、行くぞ」
少女の名前を呼んだ男性が母の墓の前に来る。片手に酒が入った瓶を持ち、千鳥足で向かってくるのは少女の父だ。借金を抱えてしまった日から、段々と酒を飲む量は増え、今では朝から晩まで飲んでいる始末だ。墓を祈る際はお酒を飲まないと約束をしたはずなのに、父は守ってくれなかった。こんな時、普通の少女ならどうするのだろうか。約束は守ってと言うのか、はたまた寄り添って優しく叱るのか。
少女は父に何を思っているのか、自分でも分からなかったから、うんとだけ返事をした。
父は瓶に口をつけ、喉を鳴らす。
「お前が死んでから、もう一年が経っちまったよ。お前がいないと、俺はどうすればいいかわからないな」
そう言い、父は瓶を母の墓でひっくり返した。勢いよく落ちるビールは泡が経ち、母の墓を泣かせてしまった。父は軽くなった瓶をまた呷り、内に溜まった言葉にもならない不満を酒臭い息にして吐き出した。それから少女を見る。
「別れの言葉はすんだかい?」
別れというには仰々しい父の言葉に違和感を覚えるも、酔っていて頭がよく回っていないのだろうと少女は考えた。また、うんとだけ言葉を返す。
「そうか。なら、行くぞ」
父は少女の腕を掴み、強引に引っ張って家に帰って行った。
それから数時間がした頃、玄関のドアがノックされた。時間は昼時。来訪者が来てもなんらおかしくない時間ではあるのだが、少女にとっては珍しい。借金をしてから周りにいた友達は皆離れて行ってしまって、誰も少女の家の扉を鳴らしてくれる者はいなくなった。
昔を思い出し、少し気分が高揚した少女は力のない笑みを浮かべてドアを開く。しかし、そこにいたのは少女の友人ではなく、知らない二人の男性であった。誰ともわからない二人組に少女は呆然と視線を向ける。
「あぁ、いらっしゃいましたか」
酒臭い父が二階から降りてきた。父が敬語を使う相手は大抵決まっている。借金取りだ。
渦巻くような曇天を背景に一人の男性が口を開く。
「この子ですか、買って欲しい娘さんというのは」
「えぇ、そうです。名前は……と言います。ほら、挨拶しなさい」
少女は父から無理やり頭を下げさせられた。いきなりの出来事に少女は戸惑う。
「どういうこと? パパ、私をどこかに売っちゃうの?」
父の表情が悲哀に映る。だが、どことなく虚ろな目をしているのは、酔っているからだと思いたい。
「ごめんな。これしか、借金を返す方法がないんだ」
本当にそうなのか? 少女一人を売れば解決する程度の借金なのか? と幼いながらに考えた。
そんな少女の背中を父は押す。とても痛かった。
前に出た少女の手を掴んで借金取りたちは父に目を向ける。
「では、私たちはこれで。今月は免れましたね」
”今月は”免れましたね。
借金取りがそういうものだから、少女は我慢できずに父に向かってとびかかろうとした。だが、慌てて男性が少女の腹に手を回して止める。しかし、構わず少女はもがき、届かない手と足を思いっきり延ばして叫ぶ。
「最低! 卑怯者! 嘘つき! 私を売っても変わらないじゃない。母さんを散々地獄に落としたのに、私もその道を辿れっていうのね。暴力男! 最底辺!」
好き勝手に言う少女に父は憤慨する。思わずとびかかるが、借金取りの男性がかくまってくれる。
「生意気なこと言ってんじゃねえよ! これしかねえんだよ。俺の娘なら、俺のために働けよ阿保が!」
罵声を浴びせる父の声は扉を閉めても聞こえてきた。なんだか、悲しくなってくる。もう、自分の人生は終わってしまったような気がした。いや、実際にそうなのだろう。なんだか、ため息を吐く気力さえない。少女は俯きながら歩いた。借金取りの男性たちは何かを話している。だが、まるで耳に入ってこない。少女は、生きることを諦めてしまったのだろうか。答えはすぐに出た。
鶏を抱えて来る女性がいた。今日はこの女性の家族の誕生日なのだろうと虚ろに推理する。女性とすれ違う時、鶏が少女を見た。そして、大きく翼を羽ばたかせた。雲間から降り注ぐ陽光が少女を照らしてくれたような気がした。
男性は驚いて少女から手を離す。その隙を見て路地裏に逃げ込んだ。追ってくる二つの足音を聞き、それでも諦めずに走り続けた。
あれから、何分、何時間経っただろう。音がしなくなったため、恐る恐るゴミ箱から這い出る。周りには借金取りの姿はない。少女は逃げ切ることが出来たのだ。だが、だからといって行く当てがない。途方にくれた少女は泣きながら路地裏を歩いた。
「どうしたのですか?」
優しく包み込むような声が聞こえた。目元を拭っている少女には声をかけてくれた女性の顔を見ることができない。鼻を啜りながら、少女は答えた。
「か、帰るところが、ないの」
嗚咽を漏らす少女に女性は近付いて頭を撫でた。
「大丈夫ですよ。神は貴方を見捨てなかったですよ。なんせ、私と出会うことが出来たのですから。神は貴方の日頃の行いに報いるため、きっと私を天の使いとして貴方に導いて下さったのです。やはり、神様とは偉大なるお方なのですね」
何を言っているのかは分からなかった。だが、女性が少女との出会いを喜んでいることが伝わってきた。
少女は目を開いた。涙でぼやける彼女の視界には、一人のシスターの姿があった。それに安堵した少女は久しぶりに母を呼んだ。
アネモネはくしゃみをした。
揺れる車窓から入ってくる橙色の陽光が汽車の一室を明るく照らしている。
「どうしたんだい? 風邪でも引いているのかい?」
愚妃を心配したのは話し相手となってくれている老人だ。心配するように覗きこむ老人にアネモネは首を振った。
「へんね。慣れない生活が続いているからかしら。まぁ、そんなことはどうでもいいわ。もっとお話をしましょう」
アネモネの笑顔に老人は微笑んだ。
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