第17話姫、少女と話す

 時刻は午前四時。子供たちは皆眠りにつき、教会内に響く音は布団を擦る布切れ音だけだ。静寂に包まれ、心地の良い時間にリリィは目が覚めた。


 灯り一つない暗い一室。自分が横になっていた場所の感触から、ここが寝室であると理解する。眠りから覚めると、いつもは瞼が閉じてしまいそうなほどの睡魔に襲われるというのに、何故だか、今は心地がいい。暖かさの残る眠気と言えばいいのか。表現するには難しいが、気持ちの良い目覚めであることに変わりはない。


 恩人の少女はランプを灯し、ベッドから出て伸びをする。ここで、ふと違和感を覚えた。慣れたいつもの動作をしなかったのだ。気になって後ろを振り向いてみる。すると、二段ベッドから布団が垂れていなかったのだ。いつもはアネモネの寝相の悪さから垂れ下がっているというのに、今日はそれがなかった。


 恐る恐る、上にあるベッドを覗き込んでみる。すると、そこにはアネモネの姿がなかった。代わりにきっちりと畳まれた布団類がある。


 リリィは愚妃の行方を捜すため、廊下に出た。エントランスに行き、食堂に行き、最後に裏庭に出てみる。用を足しに行ったのかと今頃になってあたりをつけた少女はしかし、トイレの扉が空いていることに気がついた。


 また、先日のようにどこかへ行ってしまったのかと考えたが、ふと、横を向いた時に梯子が屋根の上に向かって立てかけられてあるのが目に入った。顔を上げて梯子の先を見上げると、そこには愚妃の姿があった。


「アネモネちゃん」


 声をかけると、屋根の上に座っているアネモネは愛想の良い笑顔を作り、手を少女に向かって振った。


「アネモネちゃん、危ないよ」


「いいじゃないの、これくらい。それよりも、リリィも上がって来なさい。言い眺めよ」


 少女は眉根を寄せ、しかし、言われた通りに梯子を登る。アネモネの隣に座ったリリィが前を見ると、小さな歓声を上げた。


「こんな風景、初めて見た。こんなにいい景色が教会で見れるなんて、知らなかった」


 感動したのか、夢中になってあたりを見回している。アネモネも、また目の前に広がる風景に視線を移した。


 広がっている風景は、だだっ広い裏庭を隔てて奥に暗い街。そして、地平線から恥ずかし気に顔を出す太陽だった。瞳を焼き付けるように目元から上が明るく照らされている。

 隣に座っている少女は綺麗な景色に見惚れ、同時に疑問を吐露する。


「アネモネちゃん、昨日の出来事は夢?」


「そんなわけがないでしょう。貴方が目にしたのは現実よ」


「アネモネちゃん、じゃあ、私はもうお金を返さなくていいの?」


「えぇ。そもそも貴方が借りたものじゃないもの」


「もう、あの人たちは来ない?」


「えぇ。だから、娼館なんかに行って危険を冒す必要もないのよ」


 アネモネは優しく微笑んだ。リリィは愚妃の顔を見て、涙を浮かべる。少女は俯いて、口を開いた。


「ねぇ、アネモネちゃん。私、諦めていたの」


 突如、語られる少女の告白をアネモネは静かに聞いた。


「私が十二歳の時に、お父さんのお店が借金でつぶれちゃって、それからお父さんはお酒をたくさん飲むようになったし、暴力も振るってきた。だから、私は逃げたの。借金からもお父さんからも」


 なのに、と少女は言った。なにかを押し殺すようにも聞こえるその声音を愚妃は黙って聞いていた。


「逃げてきた教会であの借金取りたちに見つかってね。楽しかったんだよ? それまでの教会での生活は。だけど、あの人たちが死んだ父親の借金を代わりに払えって。馬鹿みたいだよね。冗談だと思って笑いそうになったけど、苦笑もできない現実で。私ね、諦めていたんだよ。でもね、そこでね、そこであなたと出会ったの」


 リリィはアネモネに微笑みかけた。その笑みは陽光に照らされてよく見える。幸せに満たされているかのようだ。


「昔の私みたいだなって思ったら、全然そんなことなくて、それで、貴方はハルもサイネリアも、そして私のことも救ってくれた。こんな、こんな奇跡があるのかって。アネモネちゃんに会えたから、私は今も生きていけてるような気がしたんだ。あの、怖い人たちから、私を守ってくれて……なんだか、昨日までが嘘みたい。笑い話みたい。もう、本当に嬉しくて、幸せなの。だから」


 リリィはアネモネに抱きついた。力強く抱擁する。


「ありがとう、アネモネちゃん。私、アネモネちゃんのおかげで恵まれているよ」


 アネモネもリリィを抱き返す。何故だろうか。ただ感謝されているだけだというのに、嬉しくてたまらない。それどころか、アネモネは涙が溢れそうになる。頑張って堪え、リリィを引き剥がして言う。


「貴方のために頑張って良かったわ。こんなにいい思いをするなら、人を助けるのも悪くないわね。でも、まだ解決したわけじゃないのよ。ちゃんと、貴方から相続放棄をするための手続きをするのよ」


「うん。わかった。でも、今は良いの。それよりもアネモネちゃん、何か頼みはない? 私、今回のお礼になんでもやるよ」


「なんでもやるで後悔しかけた癖に……そうねぇ、それじゃあ」


 ここでアネモネは意識せずに言葉を発していた。


「パパとママに会いたい」


 リリィの驚く声に気づき、自分が言った言葉を思い返す。混乱する頭では思考はまとまらないが、自然と口が動くのだ。


「パパと、ママに、会いたい……会いたいよぉ!」


 涙ぐみ、止まらなくなった思いをせき止めるものは決壊した。今まで可哀そうだと思われないために横柄な態度をとってきたのに。子供のように泣きじゃくってしまう。

 泣き出してしまったアネモネを慌ててリリィはなだめた。しかし、何度言葉をかけても、少女は泣き止まなかった。

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