第9話姫と少女は同情する
ハルジオンの家族の情報について早くも行き詰っていたアネモネにとって、今朝の服が届けられたという出来事は僥倖であった。手っ取り早く路地裏でことを済ませたアネモネは嬉しさのあまり笑顔が堪えない。
そして、ぬいぐるみを抱えた少女の家族の情報が入ってきたのは三日後、アネモネが城から追い出されて七日が経った日のことだった。
どうやら、ハルジオンの家族はとある村にいるようだ。村の名前はクローバード。現在、アネモネが住んでいるガーベライズから遠く離れた辺境の村であり、向かうには機関車に乗る必要がある。片道でも二日はかかるほど遠い。
現在の所持金は二万エル。食事代や宿泊費を考えると心許ない。いや、それどころか足りない。情報が手に入り、すぐにでも行動したかったが、金銭面で足止めを食らったアネモネは腕を組んで考えに耽っていた。
時刻は午後の六時。全員が嬉々として夕食にありついている中、愚妃だけは料理は愚か、スプーンにさえ手をつけていない。そんな少女を見て心配をしたのはリリィであった。
「どうしたの、アネモネちゃん。もしかして、具合でも悪いの?」
「……いいえ、大したことではないわ」
アネモネは隣に座っている恩人の少女の手を借りようかと考えたが、彼女にずっと頼るわけにはいかない。アネモネは別の手立ては無いものかと思考を巡らせる。少女の様子を見て勘づいたのはサイネリアであった。だが、今はハルジオンがいるから口を噤んだ。
テーブルを囲む者たちが食事を終え、食器をキッチンへと運んでいく。ポンプから水を出し、桶へと貯めてアネモネは皿を洗う。教会にやってきてから積極的に手伝いをするようになったアネモネはいつもなら黙々と作業をするのだが、今日に限っては違うようだ。何度も手を止めてその度にため息を吐く。いつもと違う愚妃の様子は目に余るものらしく、シスターは彼女に声を掛けた。
「アネモネさん。体調が優れないようでしたら、私が代わりにやりますよ」
アネモネを気遣ってシスターは話しかけたが、特にこれといった体調の変化がないアネモネは首を傾げる。
「大丈夫よ。私、そんなに顔色が悪いのかしら」
「いいえ、青い顔をしているわけではなくてですね。食事に手をつけず、食器を洗っている際にはたまに手を止めてため息をしているから、何かがあったのではないかと思ったのです。平気ならそれで良いのですが」
シスターは観察するように愚妃を見た。首を横に振り、異常がないと判断したのかいつものように微笑みを作る。手を叩いてアネモネに朗報を伝えた。
「そういえば、アネモネさん。神父様からお返事が届きました。ここに住むのは一向にかまわないとのことです。これでアネモネさんも教会に住む家族の一員です」
「そうなの? 良かったわ。これで困ることも少なくなるわ」
実は、アネモネはまだ姫だと信じてもらえていない。城を出る時に王から渡された羊皮紙を見せれば自分が姫だと証明するのは容易いのだが、自分が姫だからと言って何がいいものかと考える愚妃にとっては姫という肩書は便利ではあるが名乗りたくはないと思うものであった。
「なので、これからもよろしくお願いします。アネモネさん」
「えぇ、よろしくお願いするわ」
共に挨拶をして、愚妃はまた洗い物をする。終わったのは六時四十分頃。八時まで時間があるため、アネモネはリリィに金を借りるためにではなく、相談をするためにエントランスに向かおうとした時だった。一人の少年がアネモネを呼ぶ。先ほど、食器を洗ったポンプの前でアネモネは手を払って水気を飛ばしながら声がしたほうを向いた。そこにはやはり、サイネリアの姿があった。
「なにかしら。私、貴方とは話したくもないのだけれど」
眉根を寄せながら友好的とは言えない言葉をサイネリアに返す。だが、少年は気にした様子もなく、愚妃に言葉を投げた。
「お前、ハルの家族を見つけたんじゃないのか? 見つけてはいなくてもあたりはついてんだろ?」
「えぇ。貴方の予想通り、見つけたわ。絶対に正しいと言える情報よ」
「……探してくれてたんだな。ありがとう」
サイネリアは深々と頭を下げた。
「別に貴方のためじゃないわ。そんなに頭を下げても惨めに思えるからやめて頂戴」
少年は頭を上げ、アネモネを見る。その目にはアネモネにしてきたことを後悔しているのか、罪悪感のようなものが涙となって溜まっている。
「でも、お前、金がないんだろ? もってても千か二千エルぐらいなんじゃないのか?」
「いいえ、二万エル持っているわ。失礼にも程があるんじゃないかしら」
サイネリアは思わず瞠目する。だが、気を取り直して再度口を開く。
「二万あるなら万々歳だ。俺が足りない分の金は出すから、どうか、ハルの家族に会いに言ってくれないか。頼む!」
「行くなんて誰も言っていないわ。ただ、彼女の家族を見つけたと言っただけ。それに、行くだけなら貴方でもできるんじゃないかしら。もちろん、情報はただでは渡さないけれど」
「行けっていうけど、俺には仕事があるんだよ。一日ならまだしも、四、五日もやらなかったら今後、どうなるかも分からないだろ。それに、ハルの傍から離れたら心配させちまう」
サイネリアは俯き、あらぬ方向を向く。反対に、少年をジッと見ていたアネモネは少年を鼻で笑った。
「嘘ね。貴方はただ勇気がないだけよ。たった一人で四、五日も遠くへ言って皆と離れるのが怖いのよね。まだ十歳のおこちゃまだもの」
アネモネはわざとサイネリアの目線に合わせて言い放つ。煽られた少年は憤慨する。顔を赤く染めて吠える。
「そんなわけないだろ。俺は、ハルのためならなんだってやってやる!」
「本当にできるのかしら。だって、今貴方は何もできていない。彼女の家族に会うためのお金は十分にある。後は、私から情報を買うだけで良いというのに、貴方は日和って仕事が、ハルがいるからって言って逃げているだけよ。リリィから聞いたわよ。貴方の仕事は新聞配達。それも雇われているわけじゃないから、経った五日間留守にしたって問題なんてないはずよ。機関車に乗ったところで誰も困らないというのに、なんで行動しないのかしら」
言いたい放題言う少女にサイネリアは否定の言葉を発しようとする。しかし、どれもこれもが的を射た言葉であり、開いた口は閉じる事しかできなかった。黙ってしまった少年を見て、アネモネは欠伸をした。
「もういいかしら。私はリリィと話がしたいの。貴方なんかに時間を割いていては勿体ないもの」
少年の脇を通り過ぎ、キッチンから出ていこうとする。だが、彼女を止めたのはサイネリアの言葉だった。待ってくれとサイネリアが言う。別に話を聞いてもアネモネに利益があるわけではない。だが、彼の思いがこもった発言にはどうしても踏みとどまらなければならないような気がした。
「頼む。お願いします! 俺は、好きな奴のためだっておもってここを離れようとしても、離れることができない。あまりにも勇気がなくて、自分のことを本当に情けなく思えるんだ。でも、こんな俺だけど、どうしても、ハルのためにしてやりたいんだ。頼む。罵倒したことは謝るし、これからあんたの、ア、アネモネさんの言うことなら何だって聞く! だから、お願いします!」
サイネリアは頭を下げた。彼の精一杯の思いをアネモネは聞く。そして、嘲笑った。
「愚かね。今まで散々、私のことを嫌いと言って辛くあたってきたというのに、いざ自分が困っていることを私が話題に上げたら、死肉に群がる野犬のように走ってきて説得しようともくろんだ。笑えるわ。滑稽であまりにも馬鹿で。もう、本当に我慢できないわ!」
アネモネは少女のような笑い声を上げた。愚妃は満足するまで笑うと、サイネリアに言った。
「貴方、お金は何エル持っているの?」
サイネリアはおずおずと顔を上げた。
「お前の倍近く……それより、ハルの家族に会いに行ってくれるのか?」
少年は希望を抱いて聞いた。しかし、返ってきたのは無慈悲な言葉であった。
「何を言っているの? 貴方は私の言うことを聞くと言ったわよね。それに貴方は頼みを聞いたらという言葉は使わなかったわ。要は、無償でお金でもなんでも、貴方を傀儡として動かすことをしてもいいって事でしょう? なら、早く有り金を全部渡しなさい」
「な!? 誰が渡すかよ!」
「良いのかしら? あぁ、ハルジオンの家族に会いに行くのはやめようかしら。せっかく機関車に乗って行こうと考えていたのになぁ」
アネモネはわざとらしく言った。断言するが、彼女はサイネリアの頼みを聞く気はない。自分のやりたいように動くのが愚妃だ。いじわるな少女の言葉に少年は苦虫を噛み潰したような顔をする。
「持ってくれば、行ってくれるのか?」
「そうねぇ、考えておくわ」
サイネリアは舌打ちをして、アネモネの要望通り、貯めていたお金と財布を渡す。だが、財布だけは返してくれた。はした金はいらないとのことだ。満面の笑みを浮かべた少女はサイネリアの肩を叩く。
「ありがとう。私のために無償でお金をくれるなんて」
アネモネは高笑いをしてその場を後にした。部屋に残ったのは今にも泣きそうな少年ただ一人だった。余談だが、アネモネは劇に出てくる悪役が好きである。
今夜も、彼女は出かけなければいけない。体に付きまとう倦怠感と共に無理やりベッドから起き上がる。瞼を閉じれば、今にも夢の中へといざなわれてしまいそうだが、我慢をする。いつものように服を着替え、ランプ片手に寝室を出ようとする。
「お母さん……待って」
少女の声がした。まだ幼い声の主はハルジオンだ。よく独り言をいってどこかに手を伸ばす彼女かわいそうに思った少女はハルジオンの頭を撫でる。
「大丈夫よ。貴方は一人じゃないから。私たちが貴方の家族だから。寂しいなんて思わないで」
そう言い残し、少女は寝室を後にする。
その様子を寝たふりをして聞いていたアネモネはやはり同情してしまうのだった。
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