第7話姫、謝る
サイネリアが教会の扉を開いたのは六時になる少し前だった。
今日の新聞の売れ行きは良くなかった。新聞を怒りに身を任せて百部買ったのが間違いだった。いつもは七十部買って昼下がりに帰ることができていた。帰るとその後が暇だなと考え、昨日のアネモネの態度にむしゃくしゃしていたこともあり、ついつい買ってしまったのだ。その結果がこれだ。何にでも限度がある。やっとの思いで売り終えたのは十分前だ。町中を走り回ったため、疲労が溜まっている。
夕食の準備を手伝うのは億劫だなと嘆きながらサイネリアは食堂のドアを押す。だが、サイネリアの嘆きは杞憂に終わる。
食堂を見回すと、テーブルの上にパンに入った籠とスプーンなどの食器が用意されていることに気づき、奥を見ると、きっと食事の準備をしたであろう子供たちがなぜか、キッチンとダイニングを隔てている背の低い壁から覗き見るようにキッチンの様子を窺っているのが視界に入った。先ほど、食事の準備をしたのだろうと予想したが、なんだか、子供たちの様子がおかしいことから違和感をもつ。子供たちはいつもは話しながら食器を運び、特にやることのなくなった子供たちはキッチンの奥に入ってスープの中を覗いたり、椅子に座って会話をするというのに、今日はひそひそと話すこともなく驚愕と好奇心を持って見守っているようだ。
興味を持ったサイネリアは彼らの見ているものを見ようと同じようにキッチンを見た。すると、確かにこれは驚くべき光景だとサイネリアは納得した。
そこには、鍋の前に立ち、お玉を回しているアネモネとその手伝いをしているのだろうリリィとシスターの姿があった。リリィが指示をし、アネモネが塩を少し加えている。塩を入れる加減が気になったのか、足すべきかの質問をアネモネがすると、リリィは快く答えている。シスターは安心して任せることができると判断したのか、見守っているだけだ。余裕ができたのか、じゃがいもは諸国では大地のりんごと言われているのですよと豆知識を披露している。
「そろそろ、いいんじゃないかな」
リリィの言葉を合図にアネモネは最後の味見をして満足げに頷き、皿にスープを盛り付ける。人数分のスープを盛り付けると、様子を見ていたサイネリアたちを見てアネモネが口を開く。
「料理ができたわ。運ぶのを手伝って頂戴」
昨日のように怒鳴らず、むしろお淑やかに頼む愚妃を見た子供たちは困惑を露にする。少年少女たちがあたふたとしているから、アネモネは顔をしかめた。
「早くして頂戴」
不機嫌なアネモネの肩に手を置いたのは上機嫌なリリィだ。
「アネモネちゃん。皆はアネモネちゃんが昨日みたいに怒らないから驚いているのよ」
嬉し気に言ったリリィにふーんと相槌を打ち、アネモネは肩をすくめる。
「私がどんな風に変わろうと、そんなの、どうでもいいわよ。私はお腹が空いたわ。貴方たちが動けるのは知っているんだから、さっさと運びなさい」
そう言うと、アネモネはスープの入っている皿を両手に持ってサイネリアに渡した。
「いや、いやいやいや。おかしいだろ。どんなことが起きても、こんな心変わりをするような奴かよ」
きっと、この場にいる子供全員が思ったことをサイネリアは言う。生意気な餓鬼の言葉に悠々と振り返った愚妃はたった一言だけ伝える。
「トマトが美味しかったのよ」
アネモネの言葉にサイネリアだけでなく、他の子供たちも頭に疑問符を浮かべる。
「はぁ? なんだよそれ」
「何度も言わせないで。私はお腹が空いているわ」
聞いても無駄だなと思ったサイネリアは渋々、スープを運ぶ。少年を皮切りに他の子供たちも真似して皿を手に取っている。
エプロンをとり、アネモネ、リリィ、シスターはテーブルに向かう。どの席に座るかは決まりはないが、暗黙の了解で毎回同じような光景になる。昨日はテーブルの真ん中の扉側に座っていたが、今日はリリィの隣にアネモネは座ろうと動く。椅子を引き、腰を下ろそうとしたとき、服を引っ張られた。誰の仕業かと視線を向けると、熊のぬいぐるみで顔を隠し、目元だけを覗かせる少女、ハルジオンの姿があった。アネモネと目を合わせてジッと見つめてくるため、だいたいのことを察したアネモネは一つ隣の席に腰を下ろす。一瞬で笑顔となったハルジオンは椅子に座ると振り子のように体を揺らした。今度こそ食べようと思ったが、アネモネの服を引っ張ってくる人物がまた一人。また目を向けると、そこには涙目のサイネリアの姿があった。ので、無視。
「いや、おかしいだろって! ハルはいいのに、俺は駄目かよ」
「十歳でしょ。何を甘えているのよ」
辛辣な言葉に思うところがないわけではないが、サイネリアは口を噤み我慢した。仕方なく愚妃の隣に座り、で、と言葉を放ち本題に入る。
「お前、何食おうとしてんだよ。昨日、派手にぶちまけたよな?」
少年のとげのある言葉に息を呑んだのは渦中の人物以外の全員だ。堪らず、リリィが口を挟む。
「サイネリア、そんな聞き方は」
「リリィ姉は黙っててよ。こいつが俺たちの飯を馬鹿にしたのは事実なんだ。みすみす見過せるかよ。なんか言うことがあるんじゃないの?」
言葉の端々に憤りを感じる。当たり前だ。前日に鼻で笑われて、今日心変わりしましたはいそうですかなどと都合よくいくわけがない。流石にリリィもシスターも邪魔をするの
ははばかられる。この中にいるアネモネの理解者は事の成り行きを見守ることしかできない。
恩人二人が手を合わせて祈る中、口を開いたのはアネモネだ。それ以外にいない。
「そうね。私は皆に謝らなくてはいけないわ。人に促される形で貴方たちに謝らなくてはいけないというのは癪だけれど」
サイネリアはアネモネの言葉に眉根を寄せる。しかし、愚妃の様子が今朝とは違うような気がしたため、アネモネの謝罪が終わった後に文句を言ってやろうと身構える。だが、事はサイネリアの予想をはるかに凌いだ。
「だから、先に、リリィに謝罪をしたいわ」
アネモネはリリィに体を向ける。予想外の出来事にこの場の全員、特にリリィが驚いている。自分を指差し、恩人の少女は私? と呟く。
「えぇ、貴方よ。私は今日、様々なことを知ったわ。貴方のおかげで、私はその様々なことをやる機会を得た。私は貴方に助けられてばかりの癖に、私は貴方にたくさんの苦労をかけてしまった。私のためを思って行動をしてくれていたのに、そのどれもを無下にするところだったわ。だから、今までの無礼を改めて謝罪します。本当にごめんなさい。そして、私、アネモネ・ブバルディアは貴方のおかげで今ここにいるわ。だから、本当にありがとう」
アネモネは深々と頭を下げた。それに対してリリィは慌てて手を振った。
「そ、そんな。顔を上げてよ。私は大したことはしていないんだから」
「そんなことはないわ」
顔を上げ、真剣な表情でアネモネは言葉を紡ぐ。
「大したことだわ。性格の悪い、下着姿の愚か者に手を伸ばし、その愚か者を助けようと行動できるのはきっと、貴方だけよ。誇りなさい」
「は、はい!」
困惑したリリィは真面目に返事をした。彼女の様子に口元を緩め、朗らかな笑みを作ったのは恩人の少女と対面する愚妃であった。
「さて、話を戻して。私は貴方たちにも不快な思いをさせてしまったわ。この償いとしていつか必ず、貴方たち全員が満足する形で返させてもらうわ。アネモネ・ブバルディアの名に誓って、約束するわ」
アネモネが正面切って強く宣言をする。固い意志のこもったアネモネの言葉に皆は大口を開けている。この中で唯一笑ったのはシスターであった。
「アネモネさんのその立派な決意。きっと、神は貴方を祝福してくれることでしょう。本当に素晴らしいことこの上ない言葉でした」
「でも、貴方と貴方には謝りたくはないわ」
シスターが褒め終えると同時に、アネモネは二人の子供を指差した。人差し指の先にいるのはサイネリア、次いでハルジオンである。驚愕する少年と少女、丸く治まったのにと悲嘆にくれるシスター。この光景を見て、リリィは我慢できずに、だが、できるだけ邪魔をしないように口元を押さえて笑った。
「おいおいおい、なんでなんだよ」
思わずサイネリアはアネモネをねめつける。アネモネも負けじと睥睨した。
「まず第一に、貴方たちがあまりにも失礼だからよ。初対面の誰とも知らない相手を愚弄するなんて、とんでもない。そして第二に、私が貴方たちが嫌いだからよ。何か文句があるの? あるなら、先に謝ってくれないと、私は聞こえないと思うわ」
愚妃はそっぽを向く。教会を一目見てボロボロだなどと言ったとは思えない態度に、リリィはまた笑ってしまった。
「はぁ? 嫌に決まってんだろ。先に謝るのはスープをぶちまけたお前だろ!」
「さぁ、食べましょう。私はお腹が空いたわ」
「おい! 人の話くらい聞けよ! おい!」
アネモネはサイネリアをとことん無視した。
これから大変な日々が続くのだろうとため息を吐くシスターと、これから楽しい日々が続きそうだと笑うリリィの姿がある。近い未来、彼女たちは予感は正しいものだと知ることになるだろう。
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