第6話姫、泣く

 翌日、アネモネは朝の五時に起こされた。城では七時までたっぷりと睡眠をとっていた彼女にとっては辛いことこの上ない。郷に入ったら郷に従えとは言うが、愚妃は布団を頭から被って寝る体制に入る。しかし、リリィという人物は規則正しい人柄であるために惰眠を貪ろうとするアネモネの行動を見逃しはしない。


「早く、アネモネちゃん、起きて!」


「嫌よ。寝かせなさい!」


 布団にくるまってアネモネは出てこない。実は、アネモネは空腹のためによく眠れていない。今までの人生では味わったことのない空腹を紛らわすすべがなかったために、ベッドに入ってから絶え間なく腹を鳴らしていたのだ。


 それを知らないリリィではないが、風紀委員として立派に仕事をこなすリリィには目に余るものだ。当然、甘やかしたりはしない。


「いいから、起きなさい!」


 アネモネから布団をひったくり、無理やり起こす。愚妃は不機嫌な様子でリリィを睨み、だが、二度寝を諦めたようで、素直にベッドの中から這い出してきた。


 アネモネを連れてリリィは食堂に向かう。食堂にあるポンプから水を吸い上げ、それで体や顔を洗うのだ。今は朝なので顔を洗うだけに留める。ちなみに食堂から裏庭に行けばそこにトイレがある。伝えずとも物語に一切支障はないが、念のために書いておこうと思う。


 顔を洗えば朝食だ。前日に残ったパンとスープを器によそって食べる。アネモネは空腹が限界を迎えそうだったため、食べようとしたが、サイネリアにえ、食べるのと言われ、引くにも引けなくなり、アネモネは朝食に口をつけなかった。


 さて、ここからがアネモネの分からない時間である。いったい、何が行われているのか愚妃は未だに何の説明も受けていない。時刻としては朝食を食べ終え、歯を磨き終わった後なので、だいたい七時のあたりだ。寝室にて周りの子供たちの様子を窺っていると、まずは服を着替えていた。アネモネは自分の服がないため、リリィに貸してもらう。次に全員がエントランスに向かった。すぐに追いつき、適当な位置につくと、シスターがなにやら語っている。それを合図に皆は両手を合わせて目を瞑っている。どうやら、お祈りの時間のようだ。それが五分ほどすると終わり、皆は一斉に外へと飛び出していく。何をするのかとアネモネはリリィに訊ねた。


「教会は、いつも資金が不足しているの。だから、自分たちの食べるもの着るもの、身の回りで必要になるものを働いたお金で買っているの。つまり、皆働きに出ているの」


 リリィは当たり前のように言った。しかし、アネモネには理解できなかった。アネモネは城では成人するまでは自分の能力を高めるための修業期間だと父母から教えられている。アネモネだけでなく、舞踏会で話した者全員がそうだと聞いている。アネモネは自分よりも歳の若い人たちが働きに出ているという事実に驚きが隠せなかった。


「だから、アネモネちゃんも働かなくちゃいけないよ。じゃなきゃ、これから食べる物にも困っちゃうから。でも、言ってすぐに仕事は見つからないから、少しの間は教会の手伝いをしてね」


「……手伝いということは賃金は貰えないのね。まぁ、別にいいわ」


 アネモネは不満を露にする。


「ごめんね。でも、働き口が見つかればできることも増えるから、頑張ってね」


 リリィは愚妃を励ますが、あまり効果はないようだ。アネモネはぶっきらぼうに質問する。


「それで、何をすればいいのかしら?」


「えーと、まずは……」


 リリィから伝えられたことは三つだ。一つ目は掃除だ。教会内の掃除をしろとのことだ。神父様は細かいところまで見るからあまり手を抜かないようにと念を押されている。二つ目は畑の手入れ。野菜に水を撒いたり、雑草を抜く手伝いだ。畑仕事の後は泥が体中につくそうなので、アネモネとしてはサボってしまおうと考えている。三つ目は買い出しだ。今晩使う野菜などを買って来いと言われた。買う食材のメモがあるらしく、そこまで難しいことではないとアネモネは考えた。


「私は今日は仕事が休みだから、アネモネちゃんと一緒に教会内の手伝いをします。それじゃあ、張り切って頑張ろう」


 おーとリリィは拳を突き上げるが、アネモネはやる気がないため、真似をしなかった。面倒くさいからちゃっちゃと終わらせてしまおう。そうアネモネは思った。


 だが、そう上手くことが進むはずもない。現在、洗濯をしている。大きな桶に洗濯物と水、石鹸をいれて足で踏んでいるのだが、四月上旬のまだ肌寒い季節に冷たい水は辛い。足の感覚がなくなっていくこの感じはどうにも嫌なものがある。


「冷たい、冷たい! もう嫌よ、こんなの」


 住まわせてもらっているからあまり文句を言わないようにしていたが、桶に三度も足を入れ、今四度目に入ろうとしている。もう、足が動かない。


「ご、ごめんね。ずっとやらせちゃってたね」


 最初に嬉々としてやっていたのはアネモネの方だ。楽しいと何度も言っていたため、三度もやらせてしまったが、流石にやりすぎたようだ。アネモネのことをちゃんと理解できていなかったなとリリィはこっそり反省した。


「次は私がやるから、アネモネちゃんは休んでて」


「言われなくても、そのつもりよ!」


 アネモネは急いで足を拭くと靴下と靴を履き、ほっと息を吐いた。


「もう、足がヒリヒリするわ。どうしてくれるのよ」


「ごめんね。でも、最初は楽しそうだったから。笑ってたの、初めて見たからつい嬉しくなっちゃって」


 リリィは本心を言う。アネモネは言葉に詰まった。彼女は自分の笑顔を見て嬉しいと言ったのだ。そんなことを言われたのは初めてだった。なぜ、嬉しいなどと思うのか、アネモネは不思議に思った。だが、顔には出さないし口にもしない。今まで嫌われ続けてきたのだというプライドがアネモネにはある。代わりに半目でリリィを見た。


「……リリィは辛くないの? この生活、教会はボロボロだし、何よりお金がないから欲しいものもろくに買えもしない。ものすごく不便じゃない」


 リリィは苦笑いを浮かべた。


「あはは。アネモネちゃんはそう思うかもしれないね。でも、別に辛くないよ。私、家族が皆、早くに死んじゃったから寂しかったんだ。でも、ここにいる皆は優しいし、何よりも傍にいてくれるんだ。暖かくてね。それがあるだけで私は幸せだよ」


 リリィは教会がボロボロなのは仕様がないけどねと付け足していった。


「あなたは憧れないの? お城の姫なんか、きっとたくさんの物が簡単に手に入るし、なにより、ここよりもたくさんの人がいるから、王様に王妃様の優しさに加えてその人たちも甘やかしてくれるのよ?」


 愚妃は話していて辛くなった。本当は父は仕事が忙しいから話すこともほとんどできないし、母は誰よりも上手くあれと無理に稽古を押し付けてくる。城の執事やメイドは皆、人形のような笑顔を貼り付けているように見えて、心の安らぐ場所などない。アネモネにとって地獄であった場所をリリィに天国のような場所だと言うのは心がずきずきとした。


 しかし、リリィはアネモネを特に怪しいとは思わなかったようだ。アネモネの様子に違和感を感じなかったのか、自分の考えを言う。


「憧れはしないかな。確かに、どんな物も簡単に手に入るのは嬉しいよ。でも、皆と協力して物は買いたいかな。お金が足りなくて困ってるなんてサイネリアに言われたら、無償ではないけど貸してあげるし、逆に私が困ったら、皆に手伝ってもらう。そっちのほうが物は大切にできるし、大切にしてもらえる気がするんだ」


 アネモネはふーんと相槌を打った。なんだか、悔しかった。


 アネモネにはよくわからない。友はいるが、共に高め合おうなどと思ったことはない。お城は様々な人が来るが、そのほとんどは愚妃にとってはどうでもいい人ばかりだ。リリィのように、誰かの助けになることが出来ればなどと思ったことは一度もない。リリィの気持ちを理解できる日がアネモネに来るのだろうか。


 時間は進んで、現在、十一時。アネモネとリリィは買い出しのために大通りへと足を運んだ。大通りは昨日と同じように賑わっている。人の波はアネモネたちを押し戻そうとしてくるが、踏ん張って前へ前へと進む。そうしてたどり着いたのが、昨日、トマトを買った八百屋だ。


「お、嬢ちゃん、また来たのか」


「えぇ、また来てやったわ。昨日はありがとうね。おかげで一文無しになったわ」


「そりゃあ悪いことをしちまったな。謝るぜ」


 傍から見ていたリリィが龍と虎が邂逅したのかと勘違いをするほどに犬猿の仲に見える。二人は腕組をし、メンチを切っている。あまりの迫力にこれから喧嘩が勃発するのではとリリィが危惧していたその時だった。八百屋の店主が動いた。


「ほらよ、これ」


 店主が渡してきたのは百エル札九枚だった。


「昨日のトマトのおつりだ。あの時、嬢ちゃんはつりを受け取らなかっただろ? 仕方がねえから俺が預かっておいたんだよ」


 アネモネは受け取った九百エルを見て目をパチパチしている。


「こんなもの、自分の店の利益にしてしまえばいいのに。なんでこんなことをするのよ」


「あぁ? 俺はな、信用を大事にしているんだよ。例えお前が、俺にトマトを投げつけようと、お前の金はお前の金だ。それを盗っちまうなんてことは俺はしねぇのよ」


 アネモネはへーと相槌をうち、下卑た笑みを浮かべた。


「そんなもの、いつか急になくなるものよ。そんな信条、捨てたほうがいいわ」


「何を言っているんだ。ただ野菜を買う人に金を渡されて、金を渡された俺は料金分だけ金を貰って返す。それだけの話だろ? ほら、どうだい。今日のトマトも旨いぞ」


 店主はアネモネの笑顔と発言に対して、特に何を思うこともなく、宣伝を始めた。思いもよらない展開にアネモネは驚き、そして、口を開いた。


「い、一個貰うわ」


「まいど。ほら、食ってみな」


 愛想のよい笑顔を浮かべた店主はトマトを一つ、アネモネに手渡す。促されたアネモネはトマトを見つめ、なぜか、とても嫌そうな顔をしてトマトを齧った……齧った。齧って齧って、頬張った。齧って齧って齧って齧って。喉が詰まりそうになったが、それでもなお齧って齧って齧った。


 美味しいとは何かと聞かれたら、今後、アネモネは満足だと答えるだろう。

 愚妃は、二、三年ぶりに涙を流した。

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