第3話 姫、平民になる
アネモネは現在、商人を模した馬車に乗って城下町の街道を通っていた。王の命令にはやはり従わざるを得ず、先ほど、城内で着ていた真っ赤なドレスは脱がされ、新たに茶色のワンピースと白色の前掛けを着用している。もちろん髪型も変えられた。赤色の櫛を使った派手な髪は崩され、黒色のリボンで金髪を束ねたポニーテールを形成している。町娘風というよりは召使風の服装だった。当然だが、アネモネはこの地味な服装が気に入らず、機嫌がすこぶる悪い。
馬車は噴水広場で止まり、馬を操る商人を模した執事はアネモネへ言葉を投げる。
「どうかご無事で。城の者は皆、あなた様の帰りを待っています」
「その言葉が本当だったらね。早くあっちに行ってよ」
アネモネは城を指さした後、しっしと手で追い払う。執事は丁寧にお辞儀をしてから馬車を走らせた。本当は行かないでほしかったのだが、アネモネは口を真一文字に結んで言葉を飲み込んだ。
さて、行く当てがないアネモネは早速自分の持ち物から行き先を決めようと考えた。渡された物は三つ。
一つ目はルールブックだ。王が直々に執筆した民草として生活をしていくうえでの決まりごとがかかれている羊皮紙だ。内容としては窃盗などの罪に当たる行動には相応の罰を与える、自分が国の姫であると証明することを禁じる(緊急時、又は王が許可した場合は証明することを許す)、王から他の任を指示された場合は並行してそれを行うこと、一か月に一度は手紙を王宛に送ること、概ねこのようなことがかかれており、羊皮紙の一番下には「ps、帰りたくなったらいつでも帰ってきていいからね」と書かれた文がインクによって塗りつぶされていた。塗りつぶされたものを含めて後半の二つはムスカリの個人的な欲求である。絶賛反抗期であるアネモネは羊皮紙を地面にたたきつけて何度も踏んづけた。
二つ目はお金だ。この国はエルという通貨単位で、一、十、百、千、万のそれぞれの紙幣が作られている。今回支給されたのは一万エルのお札が二枚と千エルのお札が十枚、計三万エルだ。庶民にとっては三万エルもあれば一か月は食事に困ることはないらしい。
三つ目は時計だ。手の中に納まるサイズの小さな時計。懐中時計と呼ばれるそれは金の装飾がされており、アネモネの持っている物全てと比べても破格の価値を誇っていることは優にわかるだろう。蓋を開くと時刻は十二時の十分前であることを教えてくれた。
ちょうどよくお腹が鳴る。王である父は昼食を用意してはくれなかったため、何かを食べたい衝動に駆られる。まずは腹ごしらえだと行動の指針を決め、アネモネは歩き出した。
噴水広場は四つの道に分かれており、そのうちの一つを歩んでいくと大通りへと出た。溢れかえるほどの人々の中をアネモネは進んでいく。すれ違う人と何度も肩がぶつかり、押し戻さんとする人の波を体を張って前へ前へ強引に進み、やっとの思いでたどり着いたのは八百屋であった。
アネモネはやっと一息つけると考え、深呼吸をする。息が整ってきたところで店主と思われる男性に声をかける。
「ねえ、一番おいしいものを頂戴」
不機嫌を隠す気のないアネモネに対して店主は目を丸くし、すぐに営業スマイルを作った。
「へい、らっしゃい。そうだな、これなんかどうだい?」
店主は手のひらサイズの赤い実を握って見せた。
「なにこれ」
「知らないのかい。これはトマトっていう野菜だ。とれたて新鮮でものすごくみずみずしいんだ。味は保証するよ」
差し出されたトマトを受け取る。まんまるとは言えない形だが、鮮やかな赤色がとても綺麗だと思った。
「決めた。これを頂戴」
「おう、一つ百エルね」
アネモネは前掛けのポケットから財布を取り出す。財布と行ってもきんちゃく袋だ。口を開け、千エル札を取り出したその瞬間だった。
財布を盗まれた。アネモネの背後から手が伸びてきて左手に握る財布をかすめ取っていった。制止の声を張り上げはしたものの、その姿は雑踏の中に消えようとしている。アネモネは追いかけようとしたが、八百屋の店主に腕を掴まれてしまった。
「まてまて、金はちゃんと払って行ってもらわないと困るよ」
「私の全財産が盗まれたのよ? 離してよ!」
アネモネは強引に振りほどこうとしたが、がっしりと掴んで離さない。
「全財産って、今千エル持ってるだろ。お前たちがグルって可能性だってあるんだ。その手に握る金を出すかトマトを返してくれれば手を離すから」
アネモネは憤りを覚え、千エル札とトマトを投げつける。店主が手を離すと同時にアネモネは走り出した。店主が何かを叫んでいたが、追いかけるのに夢中で聞こえなかった。
ベレー帽を目深にかぶった薄汚れた服を着ている少年を追いかける。アネモネはこう見えても足は速いのだ。大通りを駆け、小路を通り、昼時なのに薄暗い路地裏の中にまで侵入した。踊りの稽古のために体を鍛えていただけあって疲れはするものの、あと少しで少年に追いつく。少年が左の道に進路をとった。
アネモネも追従して角を曲がり、どん、と何かにぶつかり尻もちをつく。痛いと悪態をつきながら見上げたそこには体格がいいというよりはどちらかというとぽっちゃりとした少年とその陰に隠れていた二人の少年がいた。この三人は明らかに追っていた少年と違ったため、アネモネは無視して走り出そうとしたが、足をかけられ転ぶ。
「痛い! なにするのよ」
アネモネの怒声が飛ぶ。しかし、三人の少年たちは平気そう、むしろにやにやと気色の悪い笑みを浮かべる。
「いやな、こっちからしたらいいカモだからな。みすみす逃したらボスに怒られちまうんだよ」
まだ声変わりの途中なのだろうか。見た目のわりに高い声を発したからアネモネは驚き、笑った。立ち上がりながら少年を蔑む。
「変な声ね。それに太っててブサイク。私を口説くならもっと痩せてイケメンになって、そしてもっとかっこいい声になってから出直してきなさい」
ずいぶんないいようにぽっちゃりとした少年は恨めしいとでも言うようにしかめっ面を作る。
「いいか、その言葉よーく覚えておけよ」
取り巻きの二人はそーだそーだと口をそろえて言う。
「脅してるの? 何をするかは分からないけど、私はこの国の姫なのよ? 何かしたらパパに言っちゃうんだから」
余裕の笑みを作るアネモネにぽっちゃりとした少年は余計に興奮して頭突きをした。またアネモネは尻もちをつき、鋭い目つきで少年らを見上げる。
「痛い! 何するのよ。私に手をだしたからにはただでは済まさないんだから! 覚悟して待ってなさい。必ずその顔に泥を塗って……」
言い終わる前に顔を蹴られた。それからのことは言うまでもないだろう。散々暴力を振るわれたアネモネは身ぐるみを剥がされ、地べたに倒れこんでいる。下着である無地のワンピースのような薄い生地の服こそとられはしなかったが、春先かつ路地裏という日の光のあたらない場所では肌寒くて仕方がない。また、下着では隠し切れないほどあらゆる個所に青いあざができ、人目に触れたくないという思いが強く出た。そのため、アネモネはこの場所から出ず、一人で涙を流していた。
「痛い、痛いよお。もう帰りたいよお」
思わず漏れた弱音を涙と共に吐き出し蹲る。
羊皮紙にかかれていたいつでも帰っていいという一文に頼って城に行こうか。しかし、このような姿で帰るのは恥ずかしいこと極まりない。ならばいっそ、ここでこうしているのも良いだろう、何の解決にもなっていないが。
出だしとしては悪いも悪い、それこそ想定していた中では二番目と三番目に悪い事態が同時に起きてしまった。一番目は当然誘拐だ。それが起きなかったことはある意味幸運だが、それで元気が出るほどアネモネの頭は馬鹿ではないのだ。
このようにネガティブなことを考えていると、足音がした。アネモネはビクッと体を震わせ、先ほどの少年たちだろうかと考える。城のほとんどの者から嫌われ、それに加えて数多の稽古を欠かさずにこなすアネモネのメンタルは一級品だ。だが、あんなに殴られ蹴られたのは初めてのことだ。さすがのアネモネも恐怖を覚えてしまう。先ほど刻まれた恐怖を思い出し、ブルブルと体が震える。段々と近づいてくる足音に足がすくみ、そして、声をかけられた。
「あの、大丈夫ですか?」
先ほど聞いた少年たちの声よりも断然高い、女性を思わせる声だ。
あの少年たちでないとわかるとアネモネの震えも自然と治まってくる。しかし、今の自分の境遇はあまりにも滑稽で話しかけてくれた人物の顔を見たくない。どのような顔をしているのか、自分のことを蔑んでいるのか、憐れんでいるのか、同情しているのか。どれに転んでもアネモネにとってはプライドが傷つく事態に変わりはない。そのため、顔を上げずに不愛想な言葉を投げつける。
「あっちいってよ。私は大丈夫だもん」
「ご、ごめんなさい。で、でも、ほっとけないよ。私と一緒に来ない?」
アネモネにとっては嬉しいお誘いだ。少女はアネモネのことを気にしている。つまりは同情をかいさえすれば自分の住む場所を提供してもらうことができるかもしれない。しかし、そんな恥ずかしいことができるはずもなく、再度不愛想に言葉を投げた。
「あっちいってってば。あなたに助けられるほど落ちぶれてないもん」
つい、口から出てしまった言葉。それは人を傷つけ、嫌われるには十分な言葉だ。またとないチャンスをアネモネは棒に振ってしまった。
「そ、そう。ごめんなさい」
声をかけてくれた主は悲しそうに謝った。なぜここまで悲しそうなのか、アネモネにはわからなかった。見ず知らず、赤の他人である自分に手を差し伸べ、アネモネはその手を自ら振り払った。それなのに、なぜ少女が悲しむ必要があるのだろうか。今まで関わってきた人々、主に講師の方々はこんなアネモネに対して憤怒し、怒鳴る、喚くの行為をしていたというのに。
アネモネは感じた、きっと少女は優しいのだろう。そしてその優しさという希望にすがらなくてはならないと確信を得た。アネモネは恥を忘れず、しかし、少女にすがるため、口を開いた。
「ま、待って」
アネモネの声に少女は足を止めた。
「あ、あの、その、わ、私を連れていっても、いいよ?」
頑張って口に出した言葉はどうしても上から目線な発言で、アネモネは自分の愚かさに酷く呆れた。失敗をしてしまったとさらに涙が溢れてきて目をつぶる。こんな自分の手を引いてくれるものはいないのだと、後悔する。だが、アネモネの考えとは裏腹に返事は明るいものであった。
少女の足音が近づいてくる。そして、アネモネの前で止まった。
「それじゃあ、行きましょう」
アネモネの手を少女は握った。思わず、アネモネが顔を上げるとそこには少女の顔があった。優しく微笑み、同時に嬉しそうでもあった。アネモネの言葉を待っていた、その言葉を発してくれたことが心底嬉しいとでもいうようだ。
「あ、ご、ごめんなさい。いきなり手を握っちゃって驚いたよね」
今度は一変してとても不安そうだ。何を失礼なことだと思ったのだろう。アネモネは彼女のおかげで救われたというのに。
「別に気にしてないわ」
アネモネはぽかんと、今目の前で起きた奇跡、幸運に驚きを隠せない。だが、いつまでも呆けていては間抜けだ。アネモネは涙で腫らした目元をぬぐい、立ち上がる。
「えっと、あなたのお名前は?」
目の前に相対する少女が自分に指を指し、私の? と首を傾げる。
「私の名前はリリィ・アリウム。あなたの名前は?」
「私はアネモネ・ブバルディアよ」
「よろしくね、アネモネちゃん。ついてきて」
少女改めリリィがアネモネの手を引く。アネモネは彼女に対して何度も失礼な言葉を投げつけた。なのに、なぜ少女はこんなにも笑っているのだろう。彼女の笑みを見ていると、心がチクチクとした。
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