126.今日からはじまる魔法の授業、あるいは新しい《教科書》にまつわる話【後編】


 王国の学校制度は大別して三段階。


 まず義務教育として、七歳からすべての子供が通う六年制の初等学校。

 続いて義務教育を終えた子供が希望に応じて進学できる、高等学校と専門学校。

 三年制のそれらを修了したさらにその上に、王都リジグレイ=ヒイロゥの最高学府たる《学院》を戴く。


 《学院》で卒業資格を得た者は、そのまま《学院》や国の研究機関で研究を続けたり、でなければ王都や各地の都市で宮廷魔術師や官僚として働く。市井に降りてその知恵を活かす者もいるが、さほど多くはない。


 斯様に《学院》は叡智を重ねし賢者の塔であり、その《学院》で魔法を勉強したということは、およそルクテシアにおける魔法の知識を極めた碩学せきがくであると言って過言ではない。


 そして、司書のカルフィナ先生が曰く。

 ランディの担任であるホーリエ先生は、その《学院》で魔法を勉強していたことがあるというのだ。

 が――



「――?」



 コクンと揃って頷き、ランディが司書のカルフィナ先生とふたりで見上げるその先で。


 ホーリエ先生は顔いっぱいに疑問符を浮かべて、完全に棒立ちになってしまっていた。

 ホーリエ先生がそんな風になるのを、ランディははじめて見た。


「……ランディ坊やは、教科書に載ってる魔法だって言ってたぜ。なんか心当たりねえのか」


「心当たり……って、そう言われても……」


 最前のカルフィナがそうだったような難しい顔で。太めの眉の間に深いしわを寄せながら。

 ホーリエ先生はひとしきり黙考し、やがて顔を上げた。


「耳をよくして周りの音を聞く魔法や、遠くの音を聞く魔法なら知っているわ。でも、そういうのとは違うのよね?」


「『』ってのがキーなんじゃねえかな。

 そりゃ遠くの音を聞く類の魔術なら、あたしが知ってるだけでも系統問わずいくつかあるけどよ――そいつはあくまで十分に音が通りうる、もっと言や屋外向きの術式だろ? 閉所の、閉鎖空間の音を拾ってくるような術式じゃない」


 カルフィナがランディを見下ろす。

 ランディはどきりと身体を固くした。


「ランディ坊や、悪ぃがもちっと詳しく聴かせてくれや。おまえさんの言う『壁を通して遠くの音を聞く魔法』ってやつ――こう」


 もどかしげに、指をわきわきさせながら。カルフィナはランディにも分かりやすい言葉を探していたようだったが。


「――そう、『他の部屋の音を聞く』魔術だったってことでいいんだよな?」


「え、と。たぶん……ですけど」


 トリンデン邸での夜を思い出す。

 あの時――リテークが魔法を使っていた部屋は、窓が開いていたりはしなかったと思う。カーテンが閉まっていたからきちんと確かめた訳ではないけれど、使っていない部屋の窓を開けはなしてなんかおかないと思う。


「たぶん……はい、です。そうだと思います」


 あの時はアンネリーとエレオノーラ、セシェル、それからドナとスレナ――トリンデン邸のパーラーメイドさん達の、たぶんそれぞれの部屋での会話を聞いていたのではないかと思う。

 その全員の部屋で都合よく窓や扉が開いていたなんてことはまずないと思うし、そもそもあの時は、メイドさん達の部屋以外でもいろいろな音を拾っていたはずだ。


「音は振動――物質を伝わる『波』だから、『風』以外の精霊を介した魔術構成だったらそうした術式もありうる……かもしれない、けれど」


「ホーリエ先生も知らない、ですか?」


 ホーリエは微かに唇を噛み、そのいらえは遅れた。

 そして、その鈍い反応は、そのままランディの問いに対する無言の回答だった。


 しん――と静まり返った図書室で。一度、深く息を吐いて、ホーリエはゆっくりと首を横に振った。


「ごめんなさいランディくん。今、先生が思い当たる魔法の中に、ランディくんが言うような――『壁を通して遠くの音を聞く魔法』と呼べる心当たりはありません」


「ウッソだろ、おい」


 唖然と呻いたのはカルフィナだった。


「《詠唱魔術》はおまえの専攻だったじゃねえか、ゼラルド研究室で系統分析と編纂やってたおまえが、本気マジで何の心当たりもないって? ウソだろ」


「何年前の話をしてるのよ。だいたい、そんなこと言われたって……本当にわからないんだから仕方ないじゃない」


 呆れたような、唖然とした顔で唸るカルフィナに、憤然と、いつもより荒っぽい口調で唸るホーリエ。

 ――と、そこでホーリエは急にランディの存在を思い出したらしく、「あっ」と呻いて、てのひらで口を覆った。


 正直、ちょっとびっくりした。

 厳しいし怖いところもあるけれど、いつも物腰穏やかで丁寧な言葉遣いのホーリエ先生が今みたいに怒鳴るところも、ランディははじめて見た。


「けどよ、ホーリエ……ランディ坊やは、その魔法が教科書に載ってるって言ったんだぜ?」


「それは……」


 ホーリエは困惑を露にして、揺れる瞳でランディを見た。


「ランディくん。今のカルフィナの話、本当なのですか?」


「ぼくも、教科書を見せてもらったわけじゃなくて……」


 だから、それが本当に『本当』かと問われたら、それはまったくわからないことなのだけれど。


「……でも、その魔法を使ってたひとは、教科書で勉強したってゆってました」


 リテークの名前を出すのは、この期に及んでも躊躇ちゅうちょした。


 悪い夢の中に紛れ込んでしまったみたいに、足元がふわふわする感覚を覚えながら。ランディは自分の答えと、記憶に、だんだん自信がなくなりはじめていた。



『なにしてるの? これ……魔法? 魔法だよね?』



 ――トリンデン邸の空き部屋で。

 壁面に展開し、山吹色のまばゆい光を放つ魔法陣の前にいたリテークへうきうきと訊ねた時。リテークは確かに答えたのだ。



『魔術』


『おんなじようなものじゃない?』


『かも』


『でも、リテークが言うなら魔術で。それよりこれどうしたの? リテーク魔術が使えたんだね。どうやって覚えたの? あ、これってどんな効果の魔術? ねえねえ』


『うい。情報収集。使えた。。効果は』



 ――


 たしかに、そう答えてくれたはずなのだ。


 だから自分は、その魔法が教科書に載っていると――きっと学校で魔法の授業が始まったら、自分達もこの魔法を習うことがあるんだろうな、と。今日まで何の疑いも持つことなく、そう、頭から信じ込んで、


「…………………………」


 完全に黙りこくってしまったランディを前に――ホーリエはカルフィナと、互いの顔を見合わせた。


 それからあらためてランディを見ると、気遣うようなぎこちなさで言葉をかけてきた。


「だとしたら……その方が仰っている教科書というのは、きっとルクテシアの教科書ではないのでしょうね」


「……………………」


「たしかにカルフィナ先生が言ったように、先生はむかし王都の《学院》で魔法のお勉強をしていたことがあります。もちろん、だからと言ってこの世界の魔法ぜんぶを知っているなんてことはまったくないのですけれど……それでも」


 ためらいがちに言うホーリエ先生は、ランディの表情をそれとなく伺っていたみたいだった。

 ちくちくと視線が刺さるのを感じた。そんな風に見られるだなんて、いったいどんな顔をしているんだろう――今の、自分ランディは。


「それでも教科書にあるような魔法なら、先生は一通ひととおりきちんと勉強してきました。もちろん、きちんと調べてなんかいませんから絶対にだなんて言いきれませんし、先生が勉強するより前の、でなければ後の教科書に、そういう魔法があったのかもしれません」


 ホーリエ先生は、胸のつかえを吐き出すように、深く息をついた。


「ランディくんが言っていることがウソだとか、そんな風に思っている訳じゃありません。ただ、先生はランディくんが言うような魔法は、本当にわからないんです。

 先生なのに、恥ずかしいですけれど……」


 ホーリエ先生はウソを言っていない。

 だって、ウソをつく理由なんか何もないと思う。だから、きっとそれは本当のことで。


 でも、だとしたら。


(どういうこと……?)


 あの日に見た、見せてもらった『魔法』は。


 あれは――いったい、



「とにかく、後はあたしが当たっといてやっから。おまえさんはもう帰りな」


 ――と。

 カルフィナに背中を押されて図書室を後にし、ランディはとぼとぼと力のない足どりで、校門へと歩いていた。


 訳がわからなかった。

 それは――だって、そうだろう。教科書にあるはずの魔法が、教科書の中になんて。


 自分達の学年で使う教科書にはない魔法なのかもしれない――くらいのことは、ランディだって考えないでもなかった。けれど、実際はそんな話じゃおさまらなかった。


 ルクテシアの教科書には載ってないかもしれない魔法。

 それどころか、詠唱魔術ですらないかもしれない魔法。


「ランディ!」


「わ!」


 ぼーっとしながら校門を通り過ぎたランディは、横合いから飛んできた声にびくりとすくみ上った。


「――って、ラフィ? なんだぁ、びっくりした……」


 びっくりしたせいで心臓がどきどき早鐘を打つ胸をおさえながら、ほぅ――と安堵の息を吐く。

 そこまでして落ち着いたところで、「ん?」と疑問を覚えて唸る。


「ラフィ、何でこんなとこいるの? もう先に帰ったんだとばっかり」


「今からユーティスの家に行くから。あんたも一緒に来なさい」


「え? ユートの家? どうして?」


「知らないわよ。でもあのメガネ、なんかもったいぶって話があるって言うから。あとヨハンナさんのホットケーキごちそうになれるって」


「ホットケーキ――!」


 その瞬間、脳裏によみがえる蜂蜜たっぷりのホットケーキの味わいと共に、くちっぱいに生唾が溢れ出した。

 ごくりと口の中の鍔を飲み下すランディに、ラフィは「はぁ」と溜息をつく。


「まったく。エイミーといいあんたといい、食欲駄々洩れなんだから……さ、わかったなら行くわよ。メガネの話なんかべつに期待してないけど、あんまりのろくさしてるとあたし達のぶんのホットケーキ取られちゃうかもしれないし」


「え。嘘っ……それはヤだ!」


「わかったなら急ぐっ。ほら駆け足!」


「わあ、待って待って!」


 ばん、と一度ランディの背中を叩いてから走り出すラフィを追いかけて、ランディも慌てて走り出す。

 ふたつ縛りにした髪がウサギみたいに跳ねるのを目印代わりに見つめながら――ふと、ランディの脳裏によぎる疑問があった。


「ねえ、ラフィ!」


「なに! ぐずぐずしてるなら置いてくわよ!?」


 ――もしかして、待っててくれた?


 そう口に仕掛けて、ランディはそのことばを飲み込んだ。もしほんとうにそうだったとしたら、たぶんラフィは本当にことなんか答えてくれない。


「ありがと! ホットケーキがあるの、ぼくにも教えてくれて!」


「あたりきでしょ!? あたしリーダーなんだから!!」


 振り返りもせず、ラフィは声を荒くして怒鳴る。


「リーダーは仲間外れなんてしないの! わかったらとっとと走るっ!」


「うん――」


 息を弾ませながら、足を速めて。

 その瞬間に、もうひとつ。不吉な泡のように沸き上がった疑問に、すぅっと胸の奥が凍えるのを感じた。


 ――リテークも、いるんだよね?


 ぜんぶ、ランディの考えすぎかもしれない、ほんとはものすごく単純な勘違いで、真相を知ったら思わずおなかを抱えて笑っちゃうようなことなのかもしれない。

 けれど、


(けれど――)


 ――リテークの『魔法』は、教科書に載ってなんかなかった。


 物心ついた頃から一緒だったランディの幼なじみは、嘘をついていたのかもしれない。疑う隙さえなかったくらい、当たり前に、ごく自然な素振りで。


(……何なのさ)


「ちょっとランディ? 何してんのよ、おっそい!」


「ごめーん!」


 ――わかる訳がない。

 こんなところで疑り深く悩んでいたって、真相なんか知りようもないこと。


 だから、しくしくと胸を苛むそうした全部を吹き散らせるくらいの、大声をあげて。

 従姉妹の背中と、ひょんひょん跳ねるふたつ縛りの髪の毛を追って――ランディは振り切るように、走る速さを上げていった。

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