125.今日からはじまる魔法の授業、あるいは新しい《教科書》にまつわる話【中編】


 魔法の授業と、学校終わりの帰りの会が終わった後。

 放課後を告げる鐘楼の鐘が鳴るのと同時に、ランディは机の抽斗にしまっていた教科書とノートを纏めて鞄に落とし込み、筆記用具やそれ以外のあれこれも乱雑に鞄の隙間へ落とし込んで、真っ先に席を立った。


「あ。ランディ、今日は」


「ごめんラフィ! ぼくこれから行くとこあるから!」


 それだけ言い残して足早に教室を出ていくランディを「訳がわからない」と言わんばかりの渋面で見送って。ラフィはむすっと膨れた。


「……なによ、あれ」


「まあまあ、たまにはそういう日もあるってことで」


 振り返ってじろりと睨むその先。

 そこには気楽げに肩をそびやかす幼なじみのユーティスがいて、同じ組幼なじみのエイミーとリテークも一緒だった。


 気弱で臆病なエイミーは、不機嫌が露わなラフィと目が合うなりびくっと肩を震わせてリテークの後ろに隠れてしまい、ラフィはそんな幼馴染みの怯えように内心こっそりと、胸を刺す罪悪感の針を感じていた。


 ――悪いことしちゃったかな……。


「で? 今日はこれからどうするつもりだったのさ、リーダー?」


「はっ?……べ、べつにどうもしないわよっ。これから考えるとこだったの!」


 本当のところを言うと、またみんなでランディの家に遊びに行こうかと思っていた。

 特別何がしたいということがあった訳ではないけれど、あの家にはクゥが――ふわふわの仔犬みたいなファフニールの子供がいるし、それにユイリィやメルリィもいる。


 かわいいもの好きのエイミーがクゥと遊びたがっているのはよく知っていたし、それに最近は、お人形さんみたいに可憐な目鼻立ちをしたメルリィにも懐いているみたいだった。

 ラフィ自身、クゥやメルリィのことは嫌いじゃない――それはもちろん、メルリィなんかはついこの間までトリンデン卿の命を狙う刺客だったのは知っているけれど。でも今はちっとも怖くなんかなくて、むしろ優しくてきれいなお姉さんってだけのひとだし。


 ――でも、当のランディがいないとあっては、ラフィ達だけで家に転がり込むわけにもいかない。有体に言って、あちらのおうちに失礼だし、迷惑だ。


(……なんなのよ、もう)


 そんな自分の現状に思い至ってしまうと――なんだか、すてきなものやかわいいものを全部ぜんぶランディに独り占めされているみたいで、イラっとする。

 むかむかしてしまう気持ちがふつふつ湧き上がるのを抑えられなくて、ラフィはイライラと爪先で床を踏み鳴らす。


「特に決まってないなら、今日は久しぶりに僕の家に来てみない?」


「え……ユーティスの家? なんでよ」


 ラフィは怪訝に眉をひそめた。嫌という訳ではないし、べつに構わないけれど、理由がわからない。


「わ、わたし、ユーティスくんのおうち行きたいなっ。ヨハンナさんのホットケーキたべたい」


 ぱっとリテークの後ろから出てきたエイミーが、頬を上気させてはわはわと主張する。それまでされるがまま彼女の壁になっていたリテークも同意を示すようにコクコクと頷く。


 ヨハンナというのはユーティスの家――トスカの町長であるクローレンス氏のお屋敷で働いている家政婦のおばさんだ。

 家政婦さんの中では一番年長のまとめ役で、ラフィ達が遊びに行くといつもはちみつをたっぷりかけたとてもおいしいホットケーキを作ってくれる。ラフィも遊びに行くたび、いつも彼女がこしらえてくれるおやつをごちそうになっていたが。


(それにしたって……)


 あまりにも食欲に正直すぎるエイミーの主張にげっそりしそうになるラフィだったが、一方のユーティスはといえば、軽やかに笑うだけだった。


「いいよ。帰ったらヨハンナに頼んで作ってもらおう」


「やったぁ。ホットケーキっ♪」


 嬉しそうに、リテークと両手を打ち合わせるエイミー。

 ラフィはひっそりと溜息をつき、「ホットケーキ、ホットケーキ」とうるさいふたりに――うるさいのは、実のところエイミーだけだったが――聞こえないくらいの声量で、のほほんと微笑んでいるユーティスへ問いかける。


「あのさ、ユーティス……いいの? 勝手にそんな約束して。ヨハンナさんに迷惑じゃない?」


「べつに断られたりなんかしないと思うよ? おやつ作りは半分ヨハンナの趣味みたいなものだし、もし彼女が忙しいなら他のお手伝いさんに頼めばいいし。でも」


 ――と。

 そこまで言ったところで、ユーティスは眼鏡越しのまなじりをふと細めた。


「ラフィはなんだかそういうとこ丁寧っていうか、礼儀正しいよね。べつにみんな知らない仲じゃないんだから、もっとざっくばらんでいいと思うんだけど」


「限度ってものがあるでしょ。大人って忙しいんだからね?」


「そうだね。知ってるよ」


 むっとしながら声を大きくしてしまうラフィに、ユーティスは首肯で応じる。

 そうだろうとも、と内心ふてくされる。こいつはお父さんのお仕事につきそって、えらいひとたちの集まりに行ったりしているようなやつだった。


「……まあ、本当に大丈夫だと思うよ? それに今日は、ちょっとみんなに話したいこともあるしね」


「話したいこと? なによそれ」


 ユーティスは「ふふん」と鼻を鳴らして、気障っぽく片目を瞑ってみせる。


「それは後でのお楽しみ。――だから変に遠慮しないでさ、ラフィも遊びに来なよ」


 ここで「うん」と頷いてしまうのは、なまいきでむかつくメガネのいいように動かされるみたいで面白くなかったけれど。

 ほんとうに、面白くなかったけれど。

 でも、


「……わかったわよ」


 不承不承とばかりに唇を尖らせながら。ラフィはしぶしぶと応じた。


 ユーティスの「話したいこと」は気になったし、何より――おおっぴらにはしゃいだりなんてできないけれど、でもラフィだってエイミーたちと同じに、あまくておいしいホットケーキには心を惹かれていたのだった。



 先生たちに『走っている』と見咎みとがめられなギリギリの早足で校舎の廊下を抜けて、ランディが向かった先は渡り廊下の先――学校の別棟だった。

 家政科室や理科の実験室、音楽室なんかが集まっている別棟の一階。そのいちばん奥にある図書室。


 別棟に入って先生たちの目が届かなくなったのをいいことに最後の廊下を全力で駆け抜けたランディは、がらりと引き戸を開けて図書室に飛び込んだ。


 背の高い本棚が、標本箱みたいにずらりと並ぶ広い図書室。

 入ってすぐ左にある司書カウンターへ駆け込むと、ランディは奥の司書室に向かってめいっぱい声を張り上げた。


「司書さーん! 司書さん、いませんかーっ!?」


 ――弾む呼吸を整えながら、その場で待つことしばし。


 がたん! と奥の方から何かが倒れる派手な音がした。

 続いて、扉が開け放しだった司書室から、のろのろと。一人の女が、這いずるようなおぼつかない足どりで司書カウンターへと姿を見せた。


 痩せた女だった。襟のないシャツと厚手のデニムパンツの上下で、今日に限らずいつもこんな感じの、男のひとみたいなラフな恰好をしている。


 ライオンみたいにギザギザした歯。

 顎が細くてすっと鼻筋が通っているが、目の下にびっしり浮いた隈が目立つせいでどちらかというと不機嫌そうで怖い顔立ち――そんなに怖いひとではないのだけど、実際、彼女のことを怖がっている生徒も珍しくないみたいだった。


 ぼさぼさの銀髪の上へ頬被ほおかむりするみたいに上着をかぶっているのは、たぶん頭から上着をかぶって居眠りしていたからだろう。さっきのすごい音は、起きた拍子に椅子から落ちるか何かしたのにちがいなかった――大声で呼んだりして、悪いことしちゃったかもしれない。


 起き抜けの渋面を隠そうともせず、隈の浮いた目がしょぼつくのを擦りながらのそのそと現れたその女は――司書カウンターの反対側にいたランディの姿を認めるなり険の強い目を伏せるように閉じて、「はぁ――――っ」と盛大な溜息をついた。


「なんだ……お前さんかよランディ坊や。悪いけど、今月はあんたの好きそうな新刊は入ってないよぉ……」


「あ。えーと、今日はちがうんです。小説や伝記を読みに来たんじゃなくて」


 司書のカルフィナ先生。


 図書室にある本のことならだいたい何でも知っていて、図書室へ遊びに来る生徒の本の好みもだいたいぜんぶ知っていて、けれど司書カウンターから誰かに呼ばれるでもしない限り奥の司書室でいつも上着を目隠し代わりに居眠りしている、そんな先生だった。


 ランディとは初等学校に上がってすぐくらいからの、顔見知りの先生だ。

 一方でカルフィナの方も、冒険小説や伝記、図鑑の類を乱読気味にしょっちゅう借りては読みに来るランディの顔はすっかり覚えてしまっていて、ランディが好きそうな本を教えてくれたり、たまにこっそりお菓子を分けてくれたりする。とどのつまりはそんな感じの先生だった。


 けれど、今日のランディの反応はカルフィナにとっては予想の外だったのだろう。それまで欠伸あくび混じりで応対していた彼女は訝る風で口の端を歪め、隈の浮いた目を眇める。


「今日は、教科書を探しにきたんです。魔法の教科書」


「魔法の……」


 ああ、とカルフィナは閃いた風で校舎の方を見遣る。


「魔法の授業ね。そっかぁ今年ももうそんな季節か……んで、教科書探しにきたってぇのは一体どういう訳だい」


 ずっと頭にかぶりっぱなしだった上着を雑に奥の司書室へ投げ入れ、カルフィナがカウンター越しに身を乗り出す。


「教科書なら授業の最初に配ってもらえんだろ。もうなくしたか?」


「え? いえ、そういうのじゃなくて」


「それとも何だ、アレか。クラスでいじめられてんのか。おまえ」


「うええ!? ち、ちがいますっ! ぼくの教科書はちゃんとあります、これ!!」


 じわじわと剣呑さを増すカルフィナの形相に焦りながら。ランディは鞄の中からおろしたての教科書を引っ張り出すと、両手で持ってカルフィナの鼻先に突きつけた。


 眇めた目でじぃっと教科書を見ていたカルフィナは、陽炎のように揺らめく剣呑さを解いて、かわりに唇を曲げたようだった。


「なんだよ……ちゃんと自前の教科書あんじゃないか。じゃあ何だ。何がどうして教科書なんか探してんだ、ランディ坊やは」


「探してるのはこの教科書じゃなくて……なんていうか、むかしの教科書なんです」


「昔の?」


 ランディは頷く。


「探してる魔法があるんですけど、この教科書には載ってなくて。もしかしたら古い教科書なら載ってるかなと思って……むかしの教科書の棚って、どこかにありますか?」


 カルフィナは書架を一瞥し、やがて首を横に振った。


「古い教科書の類は、たしかまとめて地下の閉架だね。ま、探してやるのはやぶさかじゃないが――」


「ほんとですか!? やった!」


「たーだーし!」


 喜び身を乗り出しかけるランディの鼻先に、ぴしゃりと人差し指を突き付けて。


「あたしゃ無駄骨はゴメンだ。その教科書だかを探してやるのは構わねーが、それで何を調べるつもりなのか、何の魔法を探してるのかを先に教えな。そしたら心当たりを持ってきてやる」


 ランディはぱぁっと表情を明るくする。それはむしろ願ったりかなったりだ。


 今日配られた教科書には載っていなかった――もしかしたら、もっと上級生向けの教科書に載っているかもしれない魔法を図書室の中から一人で探すのはいくらなんでも大変そうで、実のところ始める前からしりごみしそうな気持ちもないではなかったのだ。

 図書館の本に詳しいカルフィナ先生の手を借りられるなら、これ以上に頼もしいことはない。


「『壁を通して遠くの音を聞く魔法』です」


「壁の……何だって?」


「『壁を通して遠くの音を聞く魔法』です。ぼく一度だけ見せてもらったんですけど、そのときに教科書で勉強したってゆってました。司書さんは知ってますか?」


 最初の応答の時点で、薄々予感はしていたが。

 カルフィナは眉をひそめ、首を横に振った。


「いや、知らん。『壁を通して遠くの音を聞く魔法』だって?」


「はい……あの、それって司書さんでも知らない魔法ですか?」


「知らん。聞いたこともない」


 渋面で指を噛みながら、カルフィナは記憶の棚を引っ繰り返していたようだった。


「あたしはここの司書になってから入った本には全部目ェ通してるし、閉架の本も半分くらいは見た。目録だけなら全部だ。教科書も……図書室ここに収蔵されてる分は全部見てるはずだが、そんな魔法は見た覚えがない」


「名前が違う、とか……」


 教科書では別の名前で載っていたのを、トリンデン邸のときはうろ覚えで言い間違えていたのかもしれない。

 ランディの中で、真っ先に思いつく可能性がそれだったが、


「だとしても、効果は変わらんだろ? 同様の効果を類推可能な魔法……あったか? そんなもんが」


 隈の浮いた目を眇め、はた目にはちょっと怖い顔でぶつぶつと唸る。

 邪魔にならないよう口を挟まず待っていたランディだったが、やがてカルフィナは「うあー」と唸るなりぼさぼさの髪をか両手できまわした。


「だめだ! まったく引っかかるモンがねえ! とりあえず向こう三十年、改定前のやつも含めて初等学校で使う教科書にその魔法は載ってねえ!」


「ほんとに……?」


「お、あたしの言うこと信じらんねえか? 疑うんなら今から閉架行って現物ぜんぶ持ってきてやんよ。けど――」


 カルフィナは唇を曲げて唸る。気が進まない様子だった。


 いや。渋っているというより、この顔はどちらかというと――


「もしかして、心当たりあるんですか!?」


「あー……いや、心当たりっつーか。あたしが分かるのは書架にあるぶん、使の教科書だけだからさー……」


 ――そうか。ランディは遅れながらにしてひらめく。


 教科書といったって、なにも初等学校で使うぶんだけじゃない。

 初等学校を卒業した後に行くという高等学校や専門学校――あとは、とても頭のいいひとが勉強しに行くという王都の《学院》でだって、授業で使う教科書があるのかもしれない。


「それ、どこに行ったら見れますか!?」


「とりあえずトスカじゃ無理だ。とにかく今日はもう下校時間過ぎてっし、後はあたしが心当たりあたっといてやるから今日のところは」


「カルフィナ?」


 ――と。


 誰何の声がして、振り返ったその先。

 開け放した扉のところから、怪訝に眉をひそめて図書カウンターのふたりを見ている、


「ホーリエ先生!」


「ランディくん?」


 びっくりした声を上げたホーリエ先生は、すぐに悪い子を然るきりっとした顔になる。


「まだ校舎に残っていたんですか? 下校時刻はもう過ぎて」


「おー、いいとこ来てくれた。ホーリエちょっと知恵貸してくれや。困ってんだ、あたしら」


「ちょっと。カルフィナ――カルフィナ先生? 下校時間の後まで生徒を引き留めて何を」


「わぁーってる、わぁってるって! けど今こいつから質問受けてんだよ、魔法の授業オベンキョーのよ。それ終わったらすぐ返すから、ちっと知恵貸せ。おまえの専門だろ先生せんせー


「専門……って」


 ランディはふたりの先生の間で交互に視線を泳がせて、やがてホーリエ先生の方を見た。


「ホーリエ先生、魔法の先生だったんですか!?」


「ランディくん。それは――」


「今は初等学校ガッコ先生せんせーなんてやってっけどな? こいつ昔は王都の《学院》で、魔術の研究なんかやってたんだぜ」


「ぅえ! ほんとに? ホーリエ先生が!?」


「ちょっと、カルフィナ!」


「いーじゃねえか別に。おまえのは秘密ってわけでもねーだろぉ? べつによぉ」


 犬歯の鋭いぎざぎざした歯をニッと剥き出しにしながら、カルフィナはとっておきの打ち明け話をするみたいなにんまりした顔で声を弾ませる。


「図書室の書架ならあたしの領分だが、魔法のことならホーリエの方がよっぽど詳しいぜ。どうせ後は帰るだけなんだしよ、ランディ坊や。その前にいっぺん訊いてみな、騙されたと思ってさ」


 ニヤニヤしながら顎をしゃくって示すカルフィナ。

 呆けたようにランディが見遣ったその先で、ホーリエは深々と溜息をついた。

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