124.今日からはじまる魔法の授業、あるいは新しい《教科書》にまつわる話【前編】

 担任のホーリエ先生は、まだ若い女の先生だ。

 緩く波打つ栗色の茶髪をおでこが出るようにして一本のしっぽに結んでいて、頬のふっくらした顔には縁の太い黒縁眼鏡をかけている。


 ぱっちりした目とつり上がり気味の太い眉。たっぷりした唇をきりりと結んでいてもなお優しげな顔立ちではあるのだけれど、実のところとても厳しい先生だ。

 べつに優しくない訳ではないのだけど、厳しい。たとえば教室で騒がしくしたり、宿題を忘れてきたりなんかしたときには、特に。


「では、これより魔法の教科書を配ります。自分のぶんの教科書を取って、後ろの席の子にまわしていってください」


 教壇に立つホーリエ先生がクラスを見渡してそう言うと、列の先頭の机に積まれていた教科書が、順に後ろの席へと回されていく。


 前の席に座るクラスメイトから、教科書の束が回ってくる。

 自分のぶん以外を後ろの席の子へ渡してから。ランディは手元に残した自分の教科書を見つめて、らんらんと目を輝かせていた。


 新しい本特有の、鼻の奥がすぅっとすくような香り。


 整然と方形に切りそろえられた紙束を包む、折り目も痛みもないぴかぴかの表紙――そこには『魔法 初等学校二年生・三年生向け』と燦然たる題名が綴られていて、ランディは期待と興奮に胸をふくらませながら、これからはじまる新しい授業への想像をいっぱいに頭の中で広げてしまう。


 周りのクラスメイトを見渡してみても、だいたいみんなランディと似たり寄ったりの反応だった。

 中にはさっそく教科書を開いて目次のところを見ていたり、さらには顔を寄せるようにしながら中身を先へ先へと読み進めはじめているクラスメイトもいた。


「――はい。みなさん教科書は行き渡りましたね? 今日からみなさんお待ちかねの、魔法の授業が始まります。

 もしかしたらみなさんの中には、お兄さんやお姉さんの教科書を借りてこっそり予習をしていた子もいるかもしれませんが、授業では教科書の最初から順を追って、しっかりと勉強してゆきます。がんばりましょうね」


 はぁい、と唱和する声が上がる。

 ホーリエ先生はたっぷりした唇を緩めて、にっこりと微笑んだ。


「とてもいいお返事です。では、まず教科書の三ページを開いてください」


 ぺらり、と本のページをめくる音が重なって、静かな教室に思いがけずよく響く。

 ランディもみんなに倣う形で指定されたページを開こうとして――その途中、目次の記載が目に留まった。


 ――初等学校二年生・三年生向け 学習する魔法の一覧


「ページは開きましたね? それでは授業を始めます――まず、これから勉強する『魔法』というのが一体どういうものなのか。みなさんの中に、もう知っているという子はどれくらいいますか?」


 クラスのほとんどが――たとえば、終始ぼんやりしてるリテークみたいな子を別にして――手を挙げる。内気で引っ込み思案のエイミーも、おずおずと控えめに手を挙げていた。


 ランディも思いあたるところがあったのて、当然挙手。

 ホーリエ先生は反応のいいクラスを見渡して、思案するように――どこか、うきうきと面白がるみたいに唇をほころばせながら――頬に手を当てる。


「そうですね……では先生からおはなしする前に、みなさんの思う『魔法』がどういうものかを発表してもらいましょう。じゃあ、まずはスヴェンくん。どうですか?」


「はい! 魔法は呪文や杖を使って《精霊》の力を借りて、火を飛ばしたり水を出したり、いろんなことができるものです!」


「ええ、そうですね。スヴェンくんの言うとおり。魔法は《精霊》の力を借りて、私達だけではできない様々な現象を起こす術法です。

 ありがとう、スヴェンくん。他にみなさんから、何かありますか?」


 新しく言えることがなくなったらしい何人かがためらいがちに手を下げて、それでもまだ半数以上が「はい!」とめいっぱいに手を挙げていた。


 魔法――といえば、魔法使い、ないし冒険者。どちらもルクテシアでは憧れの職業なので、みんな熱心だ。


「じゃあ、今度はエイプリルさん。エイプリルさんが思う魔法とは、どういったものですか?」


「はい先生! 魔法はお薬を作ったり、便利な道具を作ったりもできます!」


「たしかに。エイプリルさんの言うとおりですね。魔法の中には病気や怪我に効くお薬を作ったり、附術工芸品アーティファクトと呼ばれる便利な道具を作ったりするものもあって、そうした魔法で作られた便利なものは私達の暮らしの身近にもたくさんあるものです。昔は《錬金術》なんて呼ばれていた魔法でもありますね。

 では――まだ他にありますか?」


 半分よりいくらか少ないくらいの手が残った。

 ランディはまだ手を下げなかった――スヴェンもエイプリルも、ランディが言いたかったことはまだ一言も触れていない。

 ホーリエ先生は考え込む素振りで、残った手を見渡して、


「では――次はランディくんに。ランディくんが思う魔法とは、どういったものですか?」


「はい!」


 椅子を蹴って、立ち上がる。

 頭の中で何度も繰り返し思い返したそれを、あらためて言葉に換える。


「魔法は、『』もの──必要なものを、必要なだけ、必要な形で。それが正しい魔法なんだって、教えてもらいました!」


 そこまで、一息に言いきって。

 思うように発表できた満足にほっと胸をなでおろしてからあらためて見渡したクラスの空気に、ランディは「うぐ」と怯みそうになった。


 クラスメイトの視線は、おおむね「あいつは何を言っているんだ?」と言わんばかりの胡乱なものだった。


 そうでなかったのは、ユーティスと――あと、教壇のホーリエ先生。ふたりはびっくりしたみたいに目を丸くしながら、おろおろと狼狽えかけているランディを見ていた。


 ……何か、間違ってただろうか。

 もしかして、どこか覚え違えてた? おかしなこと言っちゃった?


「――素晴らしいわ、ランディくん」


 やがて。

 ぷっくりした唇をやわらかくほころばせながら、ホーリエ先生はぱちぱちと拍手した。


「それは魔法の『本質』のおはなしですね。『』――ええ、そのとおりです」


 ぱちぱちと軽やかに響くホーリエ先生の拍手に、教室の重苦しい空気は瞬く間に吹き清められていった。

 ちょっと予想外の褒め方をされてしまったのに気恥ずかしさを覚えながら、ランディはぺこりと頭を下げて席につく。


「魔法とは目には見えない精霊たち――この世界を調律する摂理を司る彼ら彼女らの力を借りて、私達の意思で世界を動かすを手に入れるもの。ランディくんが発表してくれたのは、みなさんがもっと上級生になってから習う内容ですが――紛れもなく、魔法の本質をあらわすとされることばのひとつです。

 ランディくん、そのお話はもしかして、お兄さんか薬師のお姉さんから聞いていたのかしら」


「え? いえ……シオンにいちゃんやフリスねえちゃんじゃなくて、その。ユイリィおねえちゃんに、なんですけど」


「ユイリィさん……」


 ホーリエ先生はかすかに眉をひそめた。


 思い当たるところがあったのだろう。たぶん――いつぞやに学校の敷地へ勝手に入りこんでいた、ランディの『親戚のお姉さん』の名前として。


「あの、先生?」


「えっ? ああ、ごめんなさい。何でもありませんよ」


 こほん、とひとつ咳払いして、ホーリエ先生は場を仕切り直す。


「なるほど、そうでしたか――ランディくんの傍には、素晴らしい先生がたくさんいらっしゃるのですね。とても素敵なことです。では、そろそろ」


 そう話を締めくくり、ホーリエ先生は話を進めようと教科書を手に取って、


「先生。僕からも発表させてもらって構わないでしょうか」


「ユーティスくん? 何でしょうか」


「僕の方は、ランディみたいな魔法の『本質』ではありませんが――その代わり、魔法という『大系』に関する内容になります」


 積極性――というには押しが強すぎるその申し出に、ホーリエ先生はどう答えたものか思案したようだったが。

 その僅かに開いた沈黙の時間を肯定と受け取ったようで、ユーティスはすっと姿勢よく席を立つと、檀上から会場を見渡す発表者の風格でクラスを見渡した。


 そんな幼なじみの姿を前にランディの脳裏をよぎったのは、いつぞやの――《諸王立冒険者連盟機構》コートフェル支部に集まった記者を前に朗々と雄弁をふるった、トリンデン卿の姿だったが。


「ひとくちに『魔法』と呼ばれるものですが、その内実は様々なの集合体というべきものです。

 たとえばそれは、僕達がこれから授業で勉強する《詠唱魔術》――これは一般的に詠唱と掌相しょうそうによって術を編む魔術の総称ですが、その代わりに《精霊》との契約の証である刻印、これをもって魔術を築くのが森妖精エルフの魔法とも呼ばれる《刻印魔術》、こちらは《精霊魔術》という異称で呼ばれることもあります」


 よどみなく、ユーティスは詳述しょうじゅつする。

 喋ることに慣れたその声は聞きやすく、話す速さも決して早すぎず、また遅すぎもしない。まるでトリンデン卿や町長さんたち、立派な大人のひと達みたいな話し方だった。


「さらには、幻獣や魔獣、小妖精フェアリー幽霊ゴーストといった様々な存在を喚び出す《召喚魔術》、これら存在を使役するための《使役魔術》――これは《使い魔法ファミリア》とも呼ばれます。

 この派生としての《死霊魔術》《操霊魔術》、これらは精霊ではなく、『霊』を行使する魔術だとも言われています。また、精霊以外の力を借りる魔術としては聖堂の神官さま達が使う――神さまの力を借りて行使する《契法術》があります。と言っても、精霊はいにしえの神々が世界を調律する役割を与えて世に解き放った存在だといわれていますから、ほかの魔術と《契法術》の間に本質的な違いはないという主張もあるようです。

 他にも、先程エイプリルさんが挙げてくれた《附与魔術》ないし《工芸魔術》と称される系統の魔術――さらにそこから派生して、人形ドール制作に特化した《人形工芸ドールクラフト》、その中でも使令人形ゴーレムの使役に特化した人形使令士ゴーレムマスター使令式コード編纂も広い枠組みでは魔術のひとつに数えられるでしょう。

 薬学や附与魔術にその領域を横断する《魔女術》。精霊そのものを《幻燈檻》に封じてその力を行使する《幻燈魔術》。多くの術者と魔法陣をはじめとする事前の準備を揃えたうえで、個人の術者では行使し得ない大きな魔術を構成する《儀式魔術》といった分類もあります。また、先生は先程古い時代の呼称と仰いましたが、現代でも《錬金術》は魔術の一ジャンルとして存続しつづけています」


 ランディは、呆気に取られてユーティスの独演会を見上げるばかりだった。他のクラスメイトの反応も、おおよそ似たり寄ったりのものだったろうが。


「――これらの分類は互いに重なり合う領域もあり、整然と区分けされたものではありません。ですが、これら魔術すべてを内包する言わば『総称』として、現代の『魔法』という区分は位置づけられるものでしょう。

 魔法――即ち、ここではない領域レイヤーの法、あるいはことわり。それら法理に則り、現象を引き起こすすべ、術理――それが《魔術》です」


 そこまで朗々と語ったユーティスは、一旦その言葉を切った。

 揚々と昂りつつあった熱を冷まし、トーンを落とした声で一連の発表をしめくくる。


「世界を調律するという《法》はひとつでも、それをなすための《術》はいくつもある――『山の頂へ至るための術は、敷かれた道の数、選んだ道の数だけ存在する』と言い表されるのが、魔法と魔術の関係性。そして、僕が『かく在る』と理解している魔法のです。以上を以て、発表を終わります」


 ひとしきり語り終えた高揚で頬を熱っぽく上気させながら、ユーティスは満足げに席につきなおした。


 一方、ホーリエ先生はといえば――何となく、途方に暮れてしまったみたいにくたびれた顔をしながら、継ぐべき言葉を探していたようだったが。


「何と言うか……すごいわ、ユーティスくん。よくそんなに勉強していましたね」


「いいえ、先生。これくらいは当然です。将来は魔術師になりたいと思っているので」


 ユーティスは長く伸びた前髪を軽く払い、ゆっくりと首を横に振る。

 謙遜する口ぶりだったが、そのくせはにかむように口の端をゆがめた幼なじみの表情は、興奮と高揚に上気してきらきらと輝いていた。


 ユーティスくんかっこいい、なんて囁きが女子の間で飛び交って、それを聞き留めたらしいラフィが「はん」とせせら笑うみたいに鼻を鳴らしていたりした。


「えー……みなさんから様々な形で、魔法とはどういったものであるかの発表をしてもらいましたが。みなさんが発表してくれたそのすべては、それぞれ違った角度から見た『魔法』のかたちです。

 そして、ユーティスくんが発表してくれたように、魔法というを形にする方法は驚くほどたくさんあります。もしかしたらこの世界には、まだ私達の誰も知らない魔法のかたちが眠っていて、みなさんの誰かに見つけてもらえる日を待っているのかもしれません」


 ホーリエ先生のことばに、いつしかクラスの誰もが聞き入っていた。

 他の授業だったら退屈そうにしてそうな子達も、食い入るようにホーリエ先生の『魔法』の話に耳を傾けていた。


「その、最初の一歩として――みなさんにこれから勉強してもらうのは、『子供のための魔法』と呼ばれているものです。

 精霊の中には、子供を危険なものごとから護ってくれる特別に優しい精霊がいて、そうした『子供を護ってくれる精霊』は、みなさんの呼びかけによく応え、魔法の力を貸してもくれるのです」


 その時、「先生」と手を挙げて。

 ラフィが話に割って入った。


「『子供のための魔法』って、十二歳までしか使えない魔法だって聞いたことあります。なのに、どうしてふつうの魔法じゃなくて、そのうち使えなくなっちゃうような魔法なんて勉強しなきゃなんですか?」


「いい質問です、ラフィさん。それは『子供のための魔法』が、ラフィさんの言うふつうの魔法――さっきユーティスくんが発表してくれた中にあった《詠唱魔術》と、仕組みの上ではまったく同じものだからです」


 『子供のための魔法』と分けて呼ばれてはいるが、系統としては《詠唱魔術》と全くの同一。ただ、呼びかける精霊――《子供の守護精霊》は、子供の作る魔術構成にとてもよく応えてくれるため、初歩的な魔術の習熟にはうってつけの存在なのだ。


「たしかにラフィさんの言うとおり、『子供のための魔法』はみなさんが初等学校を卒業するころには使えなくなってしまうものです。けれど、『子供を護ってくれる精霊』といっしょにする練習は、たとえ彼らを呼べなくなった後でもみなさんの中に魔法の技として残ります。

 今日から覚える魔法は、そのための練習ということですね。――これで答えになりますか? ラフィさん」


「はい、だいじょうぶです――わかりました。ありがとうございます、先生」


 非の打ちどころがなかったということだろう。大人しく頭を下げるラフィに、ホーリエ先生は「いえいえ」と首を横に振る。


「わからないことや疑問があったらきちんと質問する方が、ラフィさんも勉強のためにはいいことです。みなさんも何か気になることがあったら、遠慮なく手を挙げて質問してくださいね」


 ホーリエ先生の呼びかけに、「はぁい」と応じる声が上がる。


 ――その、中に。

 ランディの声はなかった。


 周りのやりとりがちっとも耳に入らないくらい、食い入るように教科書を見ていたせいだ。


 より正確に言えば、教科書の『もくじ』。


 ――初等学校二年生・三年生向け 学習する魔法の一覧


 ずらずらと並ぶもくじの後ろ半分は、これから覚える魔法がずらりと並んでいた。


 火口ほくちを作る魔法。

 飲み水を出す魔法。

 風を起こす魔法。

 方角を知る魔法。

 大きな音を出す魔法。

 獣除けの魔法。

 姿を隠す魔法。

 怪我を治す魔法。

 隠れたものを見つける魔法。

 失せもの探しの魔法。

 七色の煙を出す魔法。


(あれ……?)


 ――ない。

 これから一体どんな魔法を習うのか。具体的なところが気になってこっそり開いたそのページ。


 目次に並ぶ魔法の一覧は、これまで疑いもなくあるとばかり思っていた魔法の名前が欠けていた。


 ――


 いや、魔法じゃなくて魔術だったろうか。この際どちらでもいいけれど。


 あの夜。トリンデン邸でリテークが使っていたあの魔法。


 教科書を読んで覚えたと言っていたその魔法――その名前は目次のどこにも記されていなかったし、ぱらぱらとめくった教科書のどこを浚っても、見出すことができなかったのだ。

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