118.【終】《ひとならざるもの》たちの夜
フリスの薬屋はトスカの町の外れ。
大きな一本木の下にぽつんと佇む、ちいさな建屋であった。
フリスが残していった《
彼女が自分の『弟子』であった頃からまったく変わらぬため込み癖に、《
「相変わらず整理整頓は下手なままか。いかな《魔女》の血族なれど、身の回りくらいはあたりまえの娘らしく整えるようにせよと、よくよく言い聞かせてきたつもりであったのだが」
さりとて、自分は所詮『代理』の店主、『代理』の薬師である。当のフリスがいない場で、勝手にあれこれ棄ててしまう訳にはいかない。
薬の処方、薬に使う薬草や
店主不在の間、この店をひとりで掃き清め管理してきたのであろう
奥は工房。そこから向かって左手側のさらに奥が、生活用のスペースになっていた。
廊下の壁には、誰かが通りかかるたび左右で魔術の光が灯る仕掛けがついていた。そういうこまごました
メモ書きに記載のあった奥の部屋へ入ると、一番日当たりのいい並向きの、広くてものが少ない一室だった。
ここも
たぶん、ここ以外の部屋は――フリスの自室も含めて――もので溢れかえっているのだろうという確信を深めながら、ひとまずはありがたくこの部屋を使わせてもらうことにした。
風呂――は、使えるだろうか。
ダメならダメで、魔術なり使って湯のシャワーでも浴びればいいかとぼんやり考えているうちに、ふと奇妙な気配が意識の端へと引っかかった。
(音が――)
――音が、ない。
町とはいえ都市から離れた郊外。それも町はずれにあるフリスの家は、森から響く獣や鳥の声、あるいは虫の声が通奏低音のように横たわっていた。
その一切が消えて――夜の闇は、今や耳鳴りがしそうなほどに静まり返り、凍りついている。
これは――
「異界領域か。挨拶もなしにこれとは、まったくもって無粋きわまりない所業だが」
ふん、と鼻を鳴らしたイルダーナフは、荷ほどきの手を止めて部屋の入り口へと振り返った。
入ったときに後ろ手で閉じたはずのそこは開かれ、廊下に沈む暗がりの中にぽつんと浮かび上がる白くちいさな影が、じっと室内のイルダーナフを見つめていた。
「何だ、ウィナザードの家の仔犬もどきではないか。どうしたおぬし、儂に懐いてしもうたか? んん?」
あるはずもない。この仔犬もどきが《幻獣》の類――《
「すまぬが儂はこれから風呂に行く。ぬしを飼い主のもとへ送ってやれるは明日の朝になるぞ? それとも、おぬしひとりで帰れるか?」
「どうも妙な気配が消えんとは思っていたが――成程な。てっきり幻獣の幼体がおったせいかと思うて放置したが、あの妙な気配はおぬしらのせいだったか」
幻獣へと向き直り、対峙する。
「そこに何人いる? 一人か、二人。三人より多くはいないようだな?――まったく、貴様らの気配は薄すぎてかなわんのだ。幽霊未満の魂魄もどきに堕ちてなお未練がましくこの世にしがみつく、貴様ら旧人類どもの気配はな」
『――言いがかりはやめてよね。好きでしがみついてる訳じゃないわ』
ようやく、応じる声があった。
声はファフニールの幼体から。若い娘の声。耳に馴染んだ大陸共通語だったが、それは己の耳にそう聞こえるというだけであろうと察しはつく。
「声だけか。姿まで見せてやる義理はないということか? それとも――見せる自信がないということか。どちらかの?」
『貴女は何者? 何をしに来たの』
さすがに挑発が安すぎたらしい。鋭く詰問する女の声に、イルダーナフはやれやれと口の端を緩める。
「何者かということであれば、昼間に名乗ったのをぬしも聞いたのではないか?
儂は《
「何をしに来た――というのであれば、これも既に語ったとおりよ。
再びの冒険へと旅立ち、この店を置き去りにせざるを得なかった我が愛弟子フリスに代わって、この店で
「もし何事かあったときには、ぬしも儂のところへ診察を受けに来るといい。儂は《
『――貴女は、人間じゃないわ』
「そうとも。そのとおりよ。言ったであろう? 儂は人の身からはぐれた。人間ではなくなった」
『貴女の存在は、あたし達の領域に在る。なのに貴女はあたし達とも違う。貴女は《真人》ですらない。貴女は何なの? 貴女は――』
「そういうぬしは、ラウグラインの森に『遺跡』を構えたる
『……………………………』
「『何故』と思うたか? 何故に儂がそれを知るのかと。ああ、知っておるよ。この世にはそれを知る
圧倒する意図を含めて並べ立て――ふと、彼女は聞き忘れていたことがあったのに思い至る。
思わず失笑しかけた。それは、己も問われたばかりのことであったというのに。
「さあ、儂はぬしの問いに答えたぞ。ぬしも同じく答えてもらおうか――ぬしの名は何だ? いったい何を望んでここにおる」
『……貴女へ言うべきことはひとつだけ。邪魔をしないで。それだけよ』
「それを言うためだけに、わざわざ儂のもとへと来たというか。ご苦労なことよな」
皮肉でなく、ご苦労なことだと思う。
しかし――
「儂は儂の目的でここへ来ただけだ。ぬしのやることに興味があるでもない――儂なぞにかまいつけずとも、ぬしらの好きにすればよかろうよ」
娘の声は、自らの名を名乗らなかった。
名乗る意味などないと棄却しただけか。それとも、名乗れない理由があってのことか。
「無論――ぬしらのやりようが人の世に仇なすものであるならば、その限りではないがな。はぐれ者とはいえ、儂も元は人の側に在ったものだ。渡世の義理というやつがある」
『案ずることはないわ。いえ――』
揶揄する口ぶりで、少女の声が弾む。
『案じてくれていても、構いはしないわ。でも杞憂よ。それは』
「そうあるよう祈りたいものじゃな」
今のは意趣返しのつもりだろうか。どうあれ詮無いことではあるが、クスリと含む笑い方には、イルダーナフに対する悪意があった。
『あの遺跡がどういうものか、貴女はとうに知っているのでしょう? なら貴女は口出しせずにいてちょうだい。決してあたし達に関わらないで』
その、言葉を最後に。
耳が痛くなりそうな静寂が、ふと麻のようにほどけた。
森の奥から響く虫の音がわだかまり、通奏低音のように空気を震わせる様が肌で感じられる。
ここは既に異界領域ではない。現世だ。イルダーナフ達の『世界』だ。
扉は最前の記憶通りに閉じていた。つかつかと歩いていったイルダーナフが扉を開けて外の廊下を見渡しても、あの幻獣――ファフニールの幼体の姿は見当たらなかった。
(幻覚……とは、違うか)
いずれにせよ、あの『クゥ』とか呼ばれていたファフニールとは別物だ。幼体の仕業としてはやりくちが小器用に過ぎる。
人の領域へ立ち入るのに都合がいい幼体の姿を借りて、あの
イルダーナフは窓辺へと向かい、窓ガラスに額を寄せて外を見た。
磨いた黒曜石のように室内の景色を移すガラスの向こうには鬱蒼と茂るラウグライン大森林の輪郭がそびえ、そのさらに先は伺うべくもない。
が――
「いるのか? この、近く――《
女は舌打ちした。
――勝手な事をほざく。
連中はいつもそうしたものだ。少なくともイルダーナフにとって、あれらは常にそうしたものだった。
深く覆い茂る森の奥。
その深奥に眠るものへと思いを馳せながら――イルダーナフは苦みを擂り潰すように唇を噛み、夜の黒を映すガラス窓へと、我知らずその爪を立てていた。
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