《師匠》が来た日。

114.《師匠》が来た日。【序】


 森の周縁を這う蛇のようにうねうねと伸びた、川沿いの道だった。

 ルクテシア第三の大都市たるコートフェル。ことことと砂利道に揺られながらその南門まで半刻とかからないその場所へ差し掛かったとき、荷馬車の御者席に座る男――近隣の村で畑をいとなむ中年の農夫が、「ああ」とおもむろに声を零した。


「この辺ですよ、あっしが魔物の馬車を見つけたのは……お貴族様が使うようなでっかい馬車が横倒しになってて、事故か事件か、いったい何事かと思ったもんでしたわ」


「ほう、ここが」


 そう応じる声が上がったのは、その日の朝市で売りに出す野菜がいっぱいに乗った荷台から。

 その片隅で、片膝を抱えるようにした寛いだ格好で腰を落ち着けた、旅装の女からだった。


 年の頃は二十代の半ばかそこら――もう少し上かもしれないが。顎の輪郭がほっそりと引き締まり、鼻梁も細く高く整った横顔は、若々しいと呼んで然るべき美貌だった。


 長く伸びて背中にかかる、紫がかった黒髪。切れ長の眦に収まった、はしばみ色の力強い瞳。

 どこか堅牢な樫の木を思わせる、そこらの男とであれば軽々と肩が並ぶであろう長躯の女だった。


 野宿の寝具も兼ねるのだろう使い込まれた外套マントと、軽装ながらも要所要所を硬革こうかく製の防護具プロテクターよろった女のいでたちは、男のような平凡な農夫から見てもそうと分かる武芸者のそれだ。


 冒険者か。流れの傭兵戦士か。あるいはその両方かもしれない。

 徒歩かちの旅なら背負って歩くのだろう長さの両手剣ツヴァイハンダーを、今は頬を寄せるようにしながら片手で抱え、その腰には軽鋼製の筒を幾本もおさめたホルスターが下がっている。


 腰の筒は、複数の筒を螺子ねじ止めで繋いで長さを調節する携行型のスピアだ。

 強度こそ通常のものに大きく劣るが長さの調節がきくため、開けた戦場から洞窟のような閉所まで広く対応可能な槍として愛用する戦士は多くあるらしい――無論、十全に使いこなすとなれば、獲物の長さに応じて槍の技を使い分けるだけの相応の実力が求められることになる。


 実際、女は鍛え抜かれた戦士だった。

 豊かな胸から腰にかけての曲線こそ女性らしさに溢れていたが、手足は硬く引き締まり、驚くほど細くくびれた柔腰も日々の鍛錬の賜物であろう。

 村でも性質たちの悪さで悪名高かった若衆どもが、食事中の女にコナをかけた挙句にいともあっさり返り討ちにあったという一幕は、今も村で笑い話の種になっている。加えて言えば連中はあれからすっかり縮み上がって大人しくなっており、村の若衆には胸がすく思いだと放言し、うまい空気を吸っている者も多くあるようだった。


 朝市へ向かうところだった農夫は、たまたま出掛け行き会ったその女がトスカの町まで向かうと聞き――そうであれば途中まで一緒だからということで、こうして馬車の荷台に乗せてやっていたのだが。


「つまりは、ここが貴殿が魔物を見つけたその現場――勇気を奮ってその危機をコートフェルの警衛までしらせに走り、その正しき気骨をオルデリス公直々じきじきに激賞されたその舞台という訳だ!」


「ちょ――旅人さん」


 女の物言いに、農夫はたまらず狼狽する。


「やめてくださいよ、そんな大袈裟な……あっしはたまたま通りかかったってえだけでさ」


 冗談めかしたとはいえ、若い美人に褒めそやされれば彼も男であり、そう悪い気はしなかったが。

 さりとて気の小さい農夫からすれば、その大袈裟な扱いに対する恥ずかしさの方が先に立ってしまうのもまた事実だった。


 女の口にした内容は、誇張こそあれおおむね事実だった。

 横倒しになった馬車から放り出された檻――そこから逃げ出し、馬車についていたのだろう二人の護衛と馬三頭を惨殺した魔物の脅威をコートフェルの警衛まで報せに走り、男からの一報を受けた警衛はすぐさま確認の兵を走らせると共に、市内の《諸王立冒険者組合連合》へも報せを飛ばした。

 警衛兵が報せを持って帰ったことで事実が確認され、魔物の脅威を知ったコートフェル各所は即座に討伐の体勢を整えるに至った。


 結果として、このラウグライン大森林へと逃げこんだ魔物――詳しいことはわからなかいが、《双頭蛇竜アンフィスバエナ》なる魔物のつがいだったと聞いた――は逃走からわずかに二日でその討伐が果たされ、さらに翌日にはラウグライン大森林全域の安全宣言が出されることとなった。


「いやいやなにを恥じらうことか、むしろ貴殿は胸を張って誇るべきであろう。

 その一握いちあくの勇気なくば今やこの大森林一帯は魔物の脅威を孕んだ危険領域と化していたやもしれず、また貴殿の賢明なる行動あってこそ魔物の迅速な討伐が叶ったのであろう」


「あの場に行きあったら誰でも同じことをしますよ。たまたまそれがあっしだったってえだけです」


「しかし、現実にそうしたのは貴殿だ。それは相応しき者こそがその舞台へ選ばれた結果であると、儂はそのように信じるがね?」


 男の反応を愉快がる調子で並べ立てながら、女はからからと笑う。


「その功を讃えて、公と《諸王立冒険者連盟機構》からは報奨金まで出たのだろう? 子供らもたいそう父君ふくんを自慢していたではないか。その主役たる貴殿がひとりでそうも縮こまっていては、あの子供らの面目こそが立たぬであろう」


「いやまあ、そりゃそうなんですが……あんときゃ、かかあに散々叱られちまいましてね。危ないことするな、心配かけるなって」


「愛であろうよ、御夫君ごふくん! 貴殿の勇気ある行い、それがもたらしたる大功の価値は、諸人もろびとのみならずかの女人にょにんとて認めるところに相違あるまいさ」


「そうですかねえ……?」


 どうにも古風な――それも、どちらかといえば男がするものであろう物言いで言いながら、からからと楽しそうに笑う女。

 やれやれと苦笑混じりの溜息をこぼす男を他所に、ひとしきり笑った女は首をねじって川沿いの風景を眺め、切れ長の美しい眦を緩めていたようだった。


 やがて、コートフェルの市門――そのひとつである南門へ通じる大橋の前まで到着する。

 男は手綱を引いていったん馬の脚を止め、荷台の女へ振り返った。


「つきましたよ。ここからこの道をずぅっと下っていけばトスカでさ。あっちの入り口までは一本道ですから、道に迷う心配もありやせん」


「いやいや助かった! 儂はどうにも昔から、地図読みというやつが苦手でかなわんのだ」


 ひらりと軽やかに荷台から飛び降りた女は、荷台の農夫へ握手の手を差しだした。


「ここまでのご厚情、あらためて御礼を申し上げる。貴殿の親切なる心根が、この先にも多くの幸いをもたらしますように」


「朝市のついででそこまで感謝していただけるってのは、悪い気分じゃありませんがね」


 礼儀として握手に応じ、けれど男ははにかみまじりの苦笑を堪えきれなった。

 女の手はやはり武芸者のそれということか、硬いの感触が明らかだったが――そのくせ女性らしい柔らかさも残した、暖かいものだった。


「しかし旅人さん。トスカまで行くって仰ってましたが、いったいあの村まで何のご用なんです? どなたか、お知り合いでも住んでらっしゃるんですかい」


 トスカは農夫の村と同じく、コートフェル郊外に点在するちいさな町村のひとつだ。

 市門から伸びる道に沿って拓かれた村ゆえにコートフェルまでの交通の便が良く、その立地を活かして冒険者向けの宿といった商売をしているようだが、それを別にすれば特筆するようなところもない、のどかな村だ――を別にすれば。

 見るからに冒険者といういでたちの女が訪ねる理由として、農夫にはその一点くらいしか思い当たるところがない。


 男の問いに、女は輝くような笑顔を広げた。


「なあに、かわいい弟子からたっての頼みでな! 自分達が留守の間、村で薬師の代わりをしてほしいと請われたのだ」


「薬師……じゃあ旅人さん、あんたお医者さんなんで?」


 きちんと訊いたことがなかったので男の勘違いと言われてしまえばそれまでだが、てっきりこの女性にょしょうは武芸者の類とばかり思い込んでいた。


 そも、弟子?

 弟子とはどういうことだ?

 女の面差しは若々しく、弟子を取るような年頃にはとてもではないが見えない。


 訳が分からず目を白黒させるばかりの農夫に、女はからからと笑う。


「いいや? 、というのが正しいところだな。貴殿が察しの通り儂は旅の戦士でもあり、流浪の術士でもあり、またそれ以外でもある」


 あんぐりと口を開ける農夫に、女は舞台役者を思わせる美声で朗々と言った。


「ゆえに儂は《何でもできる者イルダーナフ》! もしいずれの時に会うことあらば、儂のことは何でもできる者イルダーナフと呼ぶがいい」


何でもできる者イルダーナフ……」


 それはいにしえより語られる伝承のひとつ――神々が世界の果ての向こう側へと追放された後、人の世が形作られたその黎明の時代の物語。

 神々の失われたる世界に地の底より現れた《魔王》――その忠実な隷下たる魔族の脅威が広がり、世界は暴力と猜疑に満ちた混沌と化した。


 魔王によって荒れ果てた世に秩序を取り戻すべく、一人の人間としてこの世界へ転生した天なる神のひとり。後に《翡翠の剣と琥珀の剣の勇者》と呼びあらわされる一人の戦士が我が名と掲げたるが、『万能の者』――すなわち『イルダーナフ』の名であったという。


 いにしえの伝承を我が身にになぞらえるというあまりの大言ぶりに、男は呆れかえりそうになっていた。

 しかし同時に、『この旅人が言うならそうかもしれない』と――そう思ってしまう心も、男の中にはあった。なぜか。


「ではな、勇敢なる御夫君! もし病に苦しめられたる時は儂を頼りに来るがいい――此度こたびの馬車と案内あないの礼に、貴殿の縁者は初診を半値で診てさしあげるゆえにな!」


 女は颯爽と言い放ち、洋々たる足どりで街道を南へ駆け下っていった。

 農夫はただただ茫然と、みるみる遠ざかってゆくその背を見送って――果たしてあの女人の言うことはどこまで本気なのだろうかと、ついそんなことに思いを馳せてしまうのだった。

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