113.それから:メルリィ・キータイトと、ある《呼び名》に関するささやかな取り決めの話


 ――夜。

 その日一日の仕事タスクと夕食を済ませ、生まれてはじめて湯船がある風呂をつかった後。


 メルリィは二階のいちばん奥、客間にいた。

 夜着――ユイリィ・クォーツの持ち物、その予備だ――に袖を通したメルリィは鏡台の前で藤編みのちいさな丸椅子に腰かけ、僅かにしっとりとした湿り気を残す髪を借り物の櫛でくしけずっていた。


 人形ドールの肌は皮脂や老廃物で汚れることはない。だが、埃や泥にまみれることはあるし、場合によってはにおいもつく。衛生面をケアするという前提に立つならば、人形ドールとて風呂をつかうのは一定の合理性があった。


 本国にいた頃は蒸風呂サウナだったが――発汗機能を持たない人形にとって蒸風呂サウナの効能は意味を持たず、メルリィは洗い場で肌と髪を洗うばかりだった。


 そういえば、本国では蒸風呂サウナに入っていたという話をした時、ランディがまるで魔物でも見たような顔をしていたが――あれは一体何だったのだろうか。


「メルリィ」


 とんとん、と薄い木製の扉を叩くノックの音。

 振り返って「はい」と応じると、一泊置いて扉が開いた。


「お部屋、使い心地どう? 足りないものはない?」


「いえ、問題ありません」


 メルリィはかぶりを振る。事実そのままの報告である。


「そも、この部屋はつい先日まであなたが使っていた部屋ではないのですか? あなたに不要であり、かつメルリィに必要な品は、わたしの知識にある範疇では思い当たりませんが」


「あー……うん、そうだね。そうだよねぇ……」


「?」


 メルリィは首をかしげる。

 そういえば昼食の後、ユイリィは《コフィン》の修理へ戻る前にこちらの部屋の清掃をしていたようだった。

 その際に、何か入用なものまで捨ててしまった可能性を危惧してだろうか。他に思い当たる理由も、メルリィにはなかったが。


あなたユイリィこそ、今日からどちらで寝起きするつもりなのですか? わたしが部屋とベッドを受領し、あなたがそれを持たないのでは、道理が通らないと考えますが」


「ああ、それはへいき。ユイリィはランディちゃんのおへやでいっしょに寝るから」


「ランディ様と……ですか?」


 たしかに小さい子供とであれば、同じ布団をほかの誰かと分け合って眠るのも珍しいことではないだろうが。

 しかし、彼はガルク・トゥバスであれば初等学校に通っていておかしくない年齢の少年だったはずだ。いい加減、家族との共寝ともねは終えていて然るべき年頃である。


「空いてるベッドがないからね。だから、うん、しかたないよね」


「ユイリィ・クォーツ?」


 うんうんと思慮深げに頷くユイリィの口の端が変な感じに緩んでいるのが、メルリィには怪しく感じられて仕方なかったが。

 だが、《機甲人形オートマタ》のすること――機主ランディの了承は降りているはずである。もとよりメルリィはこの家の事情をろくに知らないのだから、手持ちの常識と判断材料のみをもってものごとをはかるのは僭越であろう。


「メルリィさん、ぼくも入っていいですか?」


「はい、どうぞ」


 ユイリィの陰から、ランディの呼びかけ。

 メルリィが応じると、彼はひょこりと顔を出して、こちらを覗き込んできた。


「足りないものとかないですか? 女のひとって、いろいろいるものがあるんだって聞いてます」


 メルリィは口の端が緩みそうになるのを感じていた。主従揃って、なんとも世話焼きなことである。


メルリィ機甲人形オートマタです。人間の女性ほど入用となるものはありません――もし何かそうしたものができたときにはあらためてお願いにあがりますので、今はどうかお気遣いなく」


 微笑んで応じると、ランディも安堵した様子で笑い返してくれた。

 その彼だが、ふと「あ、そうだ」と――何かに思い立ったようだった。


「メルリィさん、寝る前にいっこだけ教えてほしいんですけど」


「はい。なんなりと」


「ぼく、メルリィさんのことはこれからなんて呼んだらいいですか?」


「……なんて?」


 メルリィは怪訝に首を傾げた。

 質問の意図するところがさっぱりわからなかったせいだが、しかし、「はい」と頷くランディの表情は真剣そのものだった。


「メルリィさんって、ユイリィおねえちゃんのおねえさんなんですよね?」


「……姉妹機、という意味ではそうです」


 真剣そのものの問いに、内心困惑しながらも首肯する。


「同じ《Lフレーム》――《Lナンバー》の先行機であるという点を踏まえれば、たしかにわたしはユイリィ・クォーツの『姉』と呼びうる機甲人形オートマタではあるでしょう」


「じゃあ」


 声に力を込めて、僅かに身を乗り出し。ランディは重ねて問うた。


「ぼく、メルリィさんのこと、メルリィおねえちゃんって呼んだ方がいいですか?」


「……………………?」


 今度こそ意味が分からず、思考も何も停止フリーズしかける。

 こちらの戸惑いを察してか、ランディは急にあたふたしはじめる。


「えっと……あの。ユイリィおねえちゃんは、ぼくのおねえちゃんなので。だから、メルリィさんはユイリィおねえちゃんのおねえちゃんだから、やっぱりおねえちゃんなのかな――って」


 メルリィは視線をずらし、ユイリィを見た。

 そういえば彼女は言っていなかったか。すっかり記録の中に埋もれかけていたが、確か、



 ――わたしとあなたが、『姉妹機しまい』だから。だったのかな。


 ――『メルリィさんは、ユイリィおねえちゃんのおねえちゃんなんでしょ? だったらやっぱり、ぼくにとってもお姉ちゃんだもの』――って。



 そう――彼がそう言っていたのだと。確かにユイリィの口から聞いた。

 どうやらあれは、本当に、真実、まったくそのまま言葉通りの意図であったらしい。


 誤謬と言うならば誤謬。しかし、純粋と言うならあまりに純粋なその問いにどう答えるべきか思案しながら、ユイリィの反応を伺う。一言で言えば、その時のユイリィはものすごく複雑な顔をしていた。

 それは詳らかに形容するなれば、


 『はっきり言っちゃうとそれはすごーくイヤなんだけど今更そこを否定するなんてできないし、ランディちゃんがおねえちゃんって呼びたいならユイリィには止めることなんてできないんだけれどやっぱりイヤなものはイヤだからできればその呼び方はナシにしてほしいなぁ! メルリィお願いだからうまく躱してくれないかなぁ――って言いたいんだけどそれをゆっちゃうのはランディちゃんのおねえちゃん的にダメな気がするんしいったいユイリィはどうしたらいいの……!!?』――という。


 無言のうちに滾々と発せられる、メルリィへのであった。


(……まったく)


 胸のうちでだけ、ひっそりと溜息を殺して。

 メルリィは藤編みの椅子を立ってランディの前まで進み出ると、その前で膝を折って視線の高さを合わせた。


「前提として、わたしはランディ様を機主マスターと仰ぐ機甲人形オートマタです。その呼称としてあなたが望むものがあれば、わたしにそれを拒む理由はないことを第一にお伝えさせてください」


「え、と……」


「そのうえで、わたしの見解を申し上げるのであれば。ランディ様がメルリィを『姉』と呼ぶのは不適当なことであり、推奨されざることと具申いたします」


「メルリィさんは、ユイリィおねえちゃんのおねえさんなのに――ですか?」


「はい」


 それは怖気ているのではなく、ただ不思議がるだけの問いだった。だからメルリィは、躊躇いなく首肯する。


「それは、わたしと彼女が姉妹機しまいであることを否定するものではありません。ただ、わたし達は機甲人形オートマタであり、わたしがこの家に留まるのは、今後の処遇が決定するまでの間――あくまで一時のことであるからです」


 ランディはじっと話を聞いている。

 だから、だっただろう。メルリィは微笑んで続ける。


「トリンデン卿の暗殺任務に携わる前、わたしはある家で奉公するようにと命ぜられていました。ですが、わたしはその命令オーダーを反故にして、ランディ様もご存知の任務に携わることを選んだのです」


 ――あの『遺言』は、有効なはずだった。


 真実、法律上のものとして有効であったかは分からない。調べていない。

 けれど、機主マスターから機甲人形スレイヴへ下される命令オーダーとして、人形工匠マエストロエクタバイナのことばはメルリィの中に刻まれ、それはあの時点から有効であったはずなのだ。

 それを、反故にした。新たな機主マスターにエスメラルダ・ナテル特務曹を仰ぎ、特務の指令に従事した――それは言い訳のしようもなく、メルリィ自身の『選択』だった。


「今更、と言われてしまえば何も返す言葉はありません。ですが、もしそれを果たす望みがあり、それを『良し』として受け容れていただけるのなら――わたしはその命令オーダーを果たしに戻りたい。いつかこの家を離れ、自分が行くべき場所へと戻りたいのです」


「それって……」


 ランディはおずおずと、控えめに問いを重ねた。


人形工匠マエストロエクタバイナさんのおうち……ですか?」


「……そうですね。そのご理解で問題ありません」


 この答えでは、気付かれてしまうだろうか。彼は賢い子供のようだから。

 けれど、嘘をつくことを躊躇ってしまったから、メルリィにはそれ以上の答えを返せない。


「その家には、子供もいらっしゃいました。いちばん上の方は三人きょうだいの長男で――初めて会ったときには、ランディ様と変わらない年頃の男の子でした。

 今は、すっかり背が伸びておいでですが。けれどわたしは、あの方がランディ様と変わらぬ背丈だった頃を知っているのです」


 人形工匠マエストロエクタバイナの姪孫てっそん

 人形工匠マエストロの弟君――イスタール・エクタバイナの孫である子供たち。


 はじめてあの家で迎えた秋の季節に誕生祝いへと連れ出されて――それから毎年、一年に三度。子供へのプレゼントを抱えて、あの家を訪った。


 ランディは顔を俯けて、じっと何かを考えていたようだったが。

 やがて何かの答えを得て、もう一度その顔を上げた。


「メルリィさんにとっては、そのひとが『きょうだい』なんですね」


「……そうかもしれません。そう思うことを、許していただけるなら」


「だいじょうぶです! ぜったいだいじょうぶ!!」


 ランディはぎゅっと胸の前で拳を固めて、力強く請け負った。


「だって、メルリィさんすっごく『お姉ちゃんって』感じしますから! だから、きっとそのひとだって、メルリィさんのこと『メルリィおねえちゃん』だって思ってます!」


「――ありがとうございます」


 ふと――視界の端を伺ったとき。

 ユイリィは天井を仰ぎ、何かを堪えようとするかのように、ふるふると総身を震わせていたのだが。


 それは見なかったことにして、メルリィはこうべを垂れる。

 仮の機主マスターである彼――それを『良し』としてくれる少年のことばを、胸の奥でしっかりと、強く噛み締める。


「じゃあ、ぼくはメルリィさんのこと、これからも『メルリィさん』って呼びます! おねえちゃんをとっちゃだめですもんね!!」


「重ね重ねのご配慮とご厚情、深く御礼おんれいを申し上げます」


 深く垂れた頭を上げて、メルリィは微笑む。

 ランディはぱっと頬を赤くして狼狽しかけたようだったが、やがてはにかむように、白い歯を見せて笑った。


 その間、ユイリィは両手抱えた頭をぶんぶんと振って、煩悶するようにじたばたと身をよじらせていたのだが――まあ、その点はランディ少年が気づいていないのだからということで、何も見なかったことにしてあげようと決めた。



 最初の夜がこうして終わり。

 やがて、いつかの時にか終わりを告げるのだろう――この、ちいさく素直な機主マスターを仰ぐメルリィ・キータイトの日々、最初の春が、はじまった。


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