113.それから:メルリィ・キータイトと、ある《呼び名》に関するささやかな取り決めの話
――夜。
その日一日の
メルリィは二階のいちばん奥、客間にいた。
夜着――ユイリィ・クォーツの持ち物、その予備だ――に袖を通したメルリィは鏡台の前で藤編みのちいさな丸椅子に腰かけ、僅かにしっとりとした湿り気を残す髪を借り物の櫛で
本国にいた頃は
そういえば、本国では
「メルリィ」
とんとん、と薄い木製の扉を叩くノックの音。
振り返って「はい」と応じると、一泊置いて扉が開いた。
「お部屋、使い心地どう? 足りないものはない?」
「いえ、問題ありません」
メルリィはかぶりを振る。事実そのままの報告である。
「そも、この部屋はつい先日まであなたが使っていた部屋ではないのですか? あなたに不要であり、かつ
「あー……うん、そうだね。そうだよねぇ……」
「?」
メルリィは首をかしげる。
そういえば昼食の後、ユイリィは《
その際に、何か入用なものまで捨ててしまった可能性を危惧してだろうか。他に思い当たる理由も、メルリィにはなかったが。
「
「ああ、それはへいき。ユイリィはランディちゃんのおへやでいっしょに寝るから」
「ランディ様と……ですか?」
たしかに小さい子供とであれば、同じ布団をほかの誰かと分け合って眠るのも珍しいことではないだろうが。
しかし、彼はガルク・トゥバスであれば初等学校に通っていておかしくない年齢の少年だったはずだ。いい加減、家族との
「空いてるベッドがないからね。だから、うん、しかたないよね」
「ユイリィ・クォーツ?」
うんうんと思慮深げに頷くユイリィの口の端が変な感じに緩んでいるのが、メルリィには怪しく感じられて仕方なかったが。
だが、《
「メルリィさん、ぼくも入っていいですか?」
「はい、どうぞ」
ユイリィの陰から、ランディの呼びかけ。
メルリィが応じると、彼はひょこりと顔を出して、こちらを覗き込んできた。
「足りないものとかないですか? 女のひとって、いろいろいるものがあるんだって聞いてます」
メルリィは口の端が緩みそうになるのを感じていた。主従揃って、なんとも世話焼きなことである。
「
微笑んで応じると、ランディも安堵した様子で笑い返してくれた。
その彼だが、ふと「あ、そうだ」と――何かに思い立ったようだった。
「メルリィさん、寝る前にいっこだけ教えてほしいんですけど」
「はい。なんなりと」
「ぼく、メルリィさんのことはこれからなんて呼んだらいいですか?」
「……なんて?」
メルリィは怪訝に首を傾げた。
質問の意図するところがさっぱりわからなかったせいだが、しかし、「はい」と頷くランディの表情は真剣そのものだった。
「メルリィさんって、ユイリィおねえちゃんのおねえさんなんですよね?」
「……姉妹機、という意味ではそうです」
真剣そのものの問いに、内心困惑しながらも首肯する。
「同じ《Lフレーム》――《Lナンバー》の先行機であるという点を踏まえれば、たしかに
「じゃあ」
声に力を込めて、僅かに身を乗り出し。ランディは重ねて問うた。
「ぼく、メルリィさんのこと、メルリィおねえちゃんって呼んだ方がいいですか?」
「……………………?」
今度こそ意味が分からず、思考も何も
こちらの戸惑いを察してか、ランディは急にあたふたしはじめる。
「えっと……あの。ユイリィおねえちゃんは、ぼくのおねえちゃんなので。だから、メルリィさんはユイリィおねえちゃんのおねえちゃんだから、やっぱりおねえちゃんなのかな――って」
メルリィは視線をずらし、ユイリィを見た。
そういえば彼女は言っていなかったか。すっかり記録の中に埋もれかけていたが、確か、
――わたしとあなたが、『
――『メルリィさんは、ユイリィおねえちゃんのおねえちゃんなんでしょ? だったらやっぱり、ぼくにとってもお姉ちゃんだもの』――って。
そう――彼がそう言っていたのだと。確かにユイリィの口から聞いた。
どうやらあれは、本当に、真実、まったくそのまま言葉通りの意図であったらしい。
誤謬と言うならば誤謬。しかし、純粋と言うならあまりに純粋なその問いにどう答えるべきか思案しながら、ユイリィの反応を伺う。一言で言えば、その時のユイリィはものすごく複雑な顔をしていた。
それは詳らかに形容するなれば、
『はっきり言っちゃうとそれはすごーくイヤなんだけど今更そこを否定するなんてできないし、ランディちゃんがおねえちゃんって呼びたいならユイリィには止めることなんてできないんだけれどやっぱりイヤなものはイヤだからできればその呼び方はナシにしてほしいなぁ! メルリィお願いだからうまく躱してくれないかなぁ――って言いたいんだけどそれをゆっちゃうのはランディちゃんのおねえちゃん的にダメな気がするんしいったいユイリィはどうしたらいいの……!!?』――という。
無言のうちに滾々と発せられる、メルリィへの懇願であった。
(……まったく)
胸のうちでだけ、ひっそりと溜息を殺して。
メルリィは藤編みの椅子を立ってランディの前まで進み出ると、その前で膝を折って視線の高さを合わせた。
「前提として、
「え、と……」
「そのうえで、
「メルリィさんは、ユイリィおねえちゃんのおねえさんなのに――ですか?」
「はい」
それは怖気ているのではなく、ただ不思議がるだけの問いだった。だからメルリィは、躊躇いなく首肯する。
「それは、
ランディはじっと話を聞いている。
だから、だっただろう。メルリィは微笑んで続ける。
「トリンデン卿の暗殺任務に携わる前、
――あの『遺言』は、有効なはずだった。
真実、法律上のものとして有効であったかは分からない。調べていない。
けれど、
それを、反故にした。新たな
「今更、と言われてしまえば何も返す言葉はありません。ですが、もしそれを果たす望みがあり、それを『良し』として受け容れていただけるのなら――
「それって……」
ランディはおずおずと、控えめに問いを重ねた。
「
「……そうですね。そのご理解で問題ありません」
この答えでは、気付かれてしまうだろうか。彼は賢い子供のようだから。
けれど、嘘をつくことを躊躇ってしまったから、メルリィにはそれ以上の答えを返せない。
「その家には、子供もいらっしゃいました。いちばん上の方は三人きょうだいの長男で――初めて会ったときには、ランディ様と変わらない年頃の男の子でした。
今は、すっかり背が伸びておいでですが。けれど
はじめてあの家で迎えた秋の季節に誕生祝いへと連れ出されて――それから毎年、一年に三度。子供へのプレゼントを抱えて、あの家を訪った。
ランディは顔を俯けて、じっと何かを考えていたようだったが。
やがて何かの答えを得て、もう一度その顔を上げた。
「メルリィさんにとっては、そのひとが『きょうだい』なんですね」
「……そうかもしれません。そう思うことを、許していただけるなら」
「だいじょうぶです! ぜったいだいじょうぶ!!」
ランディはぎゅっと胸の前で拳を固めて、力強く請け負った。
「だって、メルリィさんすっごく『お姉ちゃんって』感じしますから! だから、きっとそのひとだって、メルリィさんのこと『メルリィおねえちゃん』だって思ってます!」
「――ありがとうございます」
ふと――視界の端を伺ったとき。
ユイリィは天井を仰ぎ、何かを堪えようとするかのように、ふるふると総身を震わせていたのだが。
それは見なかったことにして、メルリィは
仮の
「じゃあ、ぼくはメルリィさんのこと、これからも『メルリィさん』って呼びます! おねえちゃんをとっちゃだめですもんね!!」
「重ね重ねのご配慮とご厚情、深く
深く垂れた頭を上げて、メルリィは微笑む。
ランディはぱっと頬を赤くして狼狽しかけたようだったが、やがてはにかむように、白い歯を見せて笑った。
その間、ユイリィは両手抱えた頭をぶんぶんと振って、煩悶するようにじたばたと身をよじらせていたのだが――まあ、その点はランディ少年が気づいていないのだからということで、何も見なかったことにしてあげようと決めた。
最初の夜がこうして終わり。
やがて、いつかの時にか終わりを告げるのだろう――この、ちいさく素直な
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます